芯と柔軟性を武器に、テレビを面白く。生きた軌跡を遺せる人生を。

テレビのデジタル連携を推進する谷さん。幼いころから、テレビマンへの情熱を持ち続けていました。好きなことにのめり込み続ける裏には、家族とのかかわりの中で、若くして形作られていった人生観、死生観がありました。谷さんが前向きに生きる理由とは?お話を伺いました。

谷 真輝

たに まさき|株式会社テレビ東京コミュニケーションズ クロスメディアビジネス部 部長
1999年に株式会社テレビ東京に入社。映像事業部、営業局の仕事を経て、2017年1月から株式会社テレビ東京コミュニケーションズ(TXCOM)に出向。webデジタル領域と連携した提案営業、新規事業開発、自社コンテンツのデジタルプロモーション、ベンチャー企業投資事業などに従事。現チームの経験を生かしブランドスタジオ構築を目指している。

病気を克服、不屈の精神でガキ大将に


神奈川県横浜市で生まれました。生まれてすぐにヒルシュスプルング病という腸の病気が見つかり、大腸の3分の2を摘出する手術を行いました。手術は成功しましたが、その後も腸内の化膿や再発があり、幼稚園に入る直前までは入退院を繰り返していました。生まれてすぐだったので、入院生活はすんなり受け入れられたのですが、見舞いに来てくれた両親が帰っていくときは辛かったです。病室の窓から見える後ろ姿を見つめながら、めそめそ泣いていましたね。

幼稚園に入ってからも、病気の名残で周りの子どもよりもトイレの回数が多いことや、お腹に傷が残っていることは気にしていました。母はそんな私を見つけるといつも、「昔だったらもう亡くなっていたかもしれないんだから、今まで生きてこれているのはおまけみたいなもの。貰い物の人生だよね」と笑い飛ばしてくれました。その言葉に、大きな力をもらいましたね。つらい経験だったはずの病気を、前向きに捉えることができたんです。貰い物の人生なんだから、この先何があっても怖くないと思えるようになりました。

病気を通じて肝が据わったことや、体が周りより大きかったこともあり、小学校に上がってからはガキ大将気質になりましたね。友達と遊ぶときは、積極的に遊びを企画しました。例えば、戦隊ヒーローごっこ。主役のレッドは、いつも自分が演じていました。企画すれば必然的に中心で居られるんです。中心になるとその特権を存分に活かし、半ば強引に逆らえない雰囲気をつくっていました(笑)。

家ではテレビを観る時間が幸せでした。あまり裕福な家庭ではなかったので、小さな部屋に家族みんなで集まってテレビを見るんです。音楽番組のときはテレビの横にカセットレコーダーを置いて録音し、繰り返し聞いて楽しんでいましたね。最初はテレビにかじりついているだけでしたが、そのうちにテレビの向こう側はどうなっているんだろうと興味が湧いてきました。

面白い番組はどういう風につくられているんだろうという好奇心はもちろんありましたが、それ以上に情報を発信する側に魅力を感じました。友達と遊ぶとき企画者が中心人物になれることと同じで、情報を発信する大元になれば、社会の中心にいられると思ったんです。テレビマンに憧れるようになり、小学校の卒業アルバムでは将来の夢に「フジテレビのディレクター」と書きました。

寝たきりの祖母、看病の意味


中学、高校でも、学校では輪の中心にいられて楽しかったです。しかしその裏で、続けていた習慣がありました。祖母のお見舞いです。小学校1年のときに、父方の祖母がくも膜下出血で倒れて以来、病院で寝たきり状態になっていたんです。母とともに病院に通う日々で、最初のうちは長生きしてねと思うぐらいでしたが、何年通い続けても祖母は相変わらず寝たきりであり、コミュニケーションも取れません。だんだんと通うのが辛くなっていました。

高校3年のとき、祖母が最期を迎えました。亡くなる間際、私と目が合ったとき、祖母の目に涙が浮かんだんです。その瞬間、約11年間の看病の日々が確かな意味を持って感じられました。祖母を思って向き合い続けた日々があったことで、最期に通じ合えた気がしたんです。

また、11年を通して、人は必ず死に向かって生きているという当たり前の事実を実感しました。死はごく自然なことだから、淡々と受け入れようという気持ちになりました。

テレビマンの夢を持ち続けていたので、テレビ局に就職する卒業生が多い大学を志望しました。しかし、結果は不合格。一浪は周りにも多かったので2年目が勝負だと思い、それから1年間必死で勉強しました。

いざ受験シーズン本番、早々にインフルエンザにかかってしまいました。本番の弱さを露呈しましたね。治ったころには実力に合っていない難関校しか残っておらず、見事に散りました。あまりのタイミングの悪さと不甲斐なさに悔やんでも悔やみきれませんでした。かろうじて受かった滑り止めの大学に進学するか、もう一年浪人をするか。迷いましたが、大学に入ってから頑張ればなんとかなると思い、前に進もうと腹を決めました。

テレビマンの夢が叶う


入学早々、アルバイトするために全てのキー局の人事部に電話しました。一刻も早くテレビ局の現場で働いてみたかったんです。するとある局の人事部の方に「1年生は勉強しなさい」と言われました。当たり前の指摘なので素直に受け入れて勉強に励み、大学2年までに必要な単位をほぼ全て取り終えました。3年の春、満を持して電話したところ、テレビ東京の報道のアルバイトに空きがあると言われ、二つ返事で現場に飛んでいったんです。

夢が叶うと気持ちを高鳴らせながら局のスタジオに着くと、文化祭のような光景がありました。ニュース番組の現場におびただしい数の人がいて、「発信する情報を世の中にちゃんと伝えるには」「その情報を伝える意味はあるのか」など様々な意見をぶつけ合いながら番組を作り上げていく様子にヒリヒリしました。1年間アルバイトとして過ごしながら、常に熱気があり、わちゃわちゃしている現場の雰囲気にどんどん馴染んでいきました。自分の想像していた通り、ここだったら毎日刺激を受けながら面白いことができると確信しましたね。

就職活動ではテレビ局を片っ端から受けた結果、再びテレビ東京にお世話になることになりました。アルバイトの経験もあったため報道を志望しましたが、配属先は映像事業部。映画ビジネスの部署で、邦画やアニメ映画を制作したり、洋画を配給会社と買付けし、劇場公開する仕事でした。出資した作品を成功させるために配給会社と一緒に宣伝活動を行ったり、DVDを販売したりするのですが、テレビとの直接的な関わりが少ない部署だったので、かなり戸惑いました。それまで、ほとんど映画を観ないで過ごしてきたので、仕事についていけるか本当に不安でした。

実際、上司が取引先と打ち合わせで話している映画監督の名前や作品名などは全くわからず、最初のうちはほんとに仕事になりませんでした。夜の会食では、話題になった監督の名前をトイレに行くふりをしてメモし、その日の帰りにその監督の作品をレンタルして、夜中に家で観る生活を1年近く繰り返していました。必死で勉強してなんとか食らいついていく生活は大変でしたが、自分の知らなかった新しい世界が広がっていく感覚もあって楽しかったですね。

父の死を機に捉え直した生き方


忙しくも充実した毎日を過ごしながら、休みはなるべく実家に帰るようにしていました。父の体調が悪く、入退院を繰り返していたんです。社会人3年目の冬、年内は乗り越えられそうな状態だったため、仕事納めが終わった次の日に顔を出しにいくことにしていました。年内の仕事を終え、次が家族で過ごす最後の正月になるかなと考えながら過ごしていた夜、父の容態が急変したと電話がかかってきました。

最期には立ち会えなかったです。その前の週末、体調が急変しながらも峠を越えた父と二人っきりで話をしました。父は「死ぬということがどんなことかがわかった。苦しかった。そんな時、自然と妻の名前を心の中で叫んでいた」と話してくれました。一生を共にし、愛する人だから最初に思い浮かんだんだなと思うと、父を誇らしく思いました。それが父と交わした最期の会話でした。

父は小さなメーカーの研究者として特許をいくつも取っていて、1つのことに向き合うタイプ。いろいろな刺激が欲しい自分とは違うタイプでしたが、振り返ったときに、父が一生懸命に生きてきた軌跡が、仕事の功績としても、家族の記憶としても残っていることがすごいなと思ったんです。

父の死は、生について考える機会でした。死を恐れるのではなく、死ぬまでの間をどれだけ充実させるかに意識を置くようになったんです。振り返ったときに、父のように生きてきた軌跡が残る人生にしたいと思いました。

相手の想いを叶える営業


その後、テレビCMを出すスポンサーを獲得する、営業の部署に異動しました。最初は、映画の仕事とは違う空気にとまどいながらも大丈夫だろうと思っていました。それが、いざスポンサーの元に向かい、CM枠を売ろうとしても全く買ってもらえませんでした。CM枠の魅力を一生懸命アピールしているのに結果が出ず、このままずっとセールスできないのかなと真剣に思ったりした時期もありました。

そんな時、自分に自信をつけてくれたのが映画でした。映画は公開に向けて必ず宣伝しますし、年末になれば大作が目白押しなんですよね。それならばと、片っ端から配給会社の宣伝担当に会いに行って話を聞くと、みな、正月に作品を取り上げる番組をやってもらいたいと言うんですよ。社内に掛け合って、深夜に2カ月限定で映画を紹介する番組を作りました。映画の紹介とCMとを掛け合わせることは、クライアントである配給会社にとって価値の高いことだったんですね。

自分が売りたいものを売り込むのではなく、相手の要望をよく聞き、柔軟に対応することが大事なんだと気づかされましたね。それがわかるようになってからは、先方が何を考えているかしっかり聞き取り、どうやったらよりよいものができるか一緒に考えるようになりました。すると、売上がしっかりついてくるようになったんです。

クライアントの想いを一緒に叶えていく気持ちで取り組んでいると、仕事がより楽しくなっていきます。変わったことをやりたいと常にお題の多い、面白いクライアントがいて、ある打ち合わせの雑談中に「過去日本で一番長いCMって何分?」という会話になったことがありました。たまたま覚えていたので、「5分が最長のCMじゃないですかね」と軽く話題にしたんです。すると、先方の部長の琴線に触れたのか「それを超える長さのCMをやりたい」と要望されました。

5分半のCMを流すためには必要な社内調整が多く、局に帰ったときは参ったなと思いました。でも、クライアントが興味を示していましたし、自分も初めてのことなので面白い、なんとか叶えたいと思い動き出しました。そもそもそんなCM枠は無いし、「そんなにCMに時間割いたら視聴率が落ちるんじゃないか」という意見がある中で、CM枠を拡大しても局の不利益にならない根拠を示す資料をせっせとつくりました。クライアントにもテレビ東京でしか流さない特別なCMを作ってもらうなど、材料を揃え、各所に説明して回った結果、なんとか許可を得ることができたんです。

クライアントは喜んでくれましたね。自分もその頃の日本で最長のCMを完成させた達成感がありましたし、クライアントと一緒に作り上げることができて嬉しかったです。

営業を14年間続けた後、番組のインターネット配信を行うプロジェクトに携わった経験を買われ、テレビ東京のウェブ事業やデジタル化事業を行うグループ会社、テレビ東京コミュニケーションズに出向することになりました。

芯と柔軟性を持ち、より面白いものを


現在所属するテレビ東京コミュニケーションズでは、テレビとウェブを組み合わせた提案営業、新規事業開発、デジタルプロモーション、ベンチャー企業への投資の4つの柱を掲げて働いています。今は、テレビのCM枠だけではなく、SNSやウェブを組み合わせた総合的なプロモーションやクリエイティブの提案が求められています。そのために自社でもSNSの運用ノウハウを貯め、自社で足りない部分はベンチャー企業と連携しながら、事業を育てていきたいと考えています。

様々な仕事を経験してきましたが、すべての経験が今に繋がっている実感があります。営業局で身につけたノウハウや考え方はもちろん、映像事業部でメインの放送事業ではなく、放送外収入の仕事に携わったことも、新たなテレビ局の収入源を作っていく今の仕事に役に立っています。

この会社で働き始めてから、YouTuberやIT企業、ベンチャー企業の方、地方自治体など、様々な方に関わるようになりました。日々いろいろな刺激に触れられるので楽しいですね。

もともとは自分が中心でありたい、自分が面白いと思うものを作りたいと思ってこの世界に入りました。しかし仕事をしていく中で、自分の思い描いた通りに進めていくのではなく、関わる人々の意見を柔軟に受け入れたほうが面白いものができると気づいたんです。人が面白いと思ったものには必ず理由がありますから。自分自身の考えである芯の部分と、周りの意見を取り入れる柔軟性とのバランスを意識して、より面白いものを作りたいですね。

そんな作り手としての信念を胸に、目の前の仕事に一生懸命に取り組んでいきたいです。その積み重ねの先にある、最期に人生を振り返る場面で、小さくても自分のやってきたことが遺っていたら、この上なく幸せです。

2020.01.06

インタビュー・ライティング | 伊藤 祐己
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