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プロレス団体DDTのレスラーとして活躍する竹下さん。高校生でプロデビューし、史上最年少でチャンピオンに輝きました。その原動力はなんなのか、お話を伺いました。
竹下 幸之介
たけした こうのすけ|DDTプロレスリング所属プロレスラー
DDTプロレスリング所属プロレスラー。2012年8月、高校2年でプロデビュー。KO-D無差別級で史上最年少王者に輝く。その後11度の防衛に成功し、最多防衛記録を樹立する。
2歳からプロレスに熱狂
大阪府大阪市で生まれました。父はアントニオ猪木が好きで、レンタルビデオ店でプロレスの試合のビデオを借りて、僕によく見せてくれました。
ビデオなのにテレビの前で「いーのーき!いーのーき!」と応援しながら観戦していて、僕が「いーのーきって誰?」と聞くと「これはアントニオ猪木っていうおじさんで、プロレスラーなんや。ウルトラマンとか仮面ライダーとかのヒーローよりもこのおじさんは強い」と教えてくれました。
僕はそれを真に受け「この人みたいに強くなりたい」と夢中になりました。周りの友達がいろんなキャラクターに憧れる中、僕の憧れはプロレスラーのアントニオ猪木選手になったんです。
それからは夢中でプロレスのビデオを見まくりました。小学校に入学する頃には、近くのレンタルビデオ屋さんにあるビデオは見尽くしてしまい、プロレス専門のテレビ番組もよく見ていました。また、プロレス専門の雑誌や新聞も読んでいて、レスラーの名前で漢字を覚えましたね。
小学校に入学した後は友だち相手に半ば強制的にプロレスごっこをして遊んでいました。あまりに強引に勧めるのでクラスで問題になり、親が学校に呼び出されたこともありました。
小学校高学年になると、学校を卒業してすぐにプロレスラーになりたいと考えるように。でも日本には義務教育があると知り、それなら外国に行ってレスラーになろうと思いました。親にも「小学校を卒業したら外国でプロレスラーになる」と言っていました。親は冗談だと思っていましたが、僕は本気で、旅行ガイドブックを手に入れ真剣に読んでいました。
部活で結果を出したら、入門テストを受けていいよ
その頃になると2歳からプロレスの試合を見続けてきたためか、選手の動きや試合の勝敗の行方などが感覚的に掴めるようになっていました。たとえば、この選手は次にヘッドロックで相手選手を捕えるなとか、エルボーでダウンを狙うなとかが読めたんですよ。思った通りに試合が進むので、ちょっとつまらないなとも感じましたね。
そんなとき、僕の予想を見事に裏切る選手を見つけました。アメリカのクリス・ベノワという選手でした。体は小さいのですが、技のキレが抜群で魅了されました。いつかクリス選手と対戦したいと思っていたのですが、僕が12歳のとき、彼は亡くなってしまいます。失望のあまり、プロレスラーを目指すのはやめようと思いました。
失意の中、たまたまユニークな試合をしている選手をテレビで見ました。頭の上にカレーを乗せて、早く食べ終えた方が勝ちという試合をしていたんです。自分の中のプロレス観が崩れました。なんだか、まだ通ってなかった神経が繋がったような感覚がして、こんなプロレスの世界もあるんだと衝撃を受けましたね。失っていたプロレスへの情熱を取り戻しました。
その団体がDDTだったんです。日本にもDDTという、エンターテイメント性を押し出したプロレス団体がありました。そこでDDTが近くに来たタイミングで、会場に見に行くことに。
そこで衝撃的なできごとがありました。そのとき出場したレスラーのうちの一人であるゲイレスラーが、僕のファーストキスを奪ったんですよ。初めてを奪われたのが悔しくて、いつか絶対に僕もリングに上がり、プロレスで倒してやると決めました。すぐにSNSを通じてDDTの社長にプロレスラーになりたいとメッセージを送りました。100円ショップで買った履歴書も送りましたね。
すると社長から返事が来て、そこには「中学の部活で結果を残したら、卒業のタイミングで入門テストを受けてもいい」と書かれていました。そこで、中学に進学し絶対になんらかの結果を出してやると決心しました。
母の勧めから中高一貫校を受験しました。本当はプロレス部への入部が理想でしたが、全校生徒数が少なかったこともあり、運動部は体操部か陸上部しかありませんでした。どちらにしようか迷いましたが、アントニオ猪木が砲丸を投げをやっていたことを知り、陸上部に入ることにしました。
DDTの社長との約束を果たそうと、僕は陸上部で1番を目指すことに。178センチという身長と体格のよさを強みに、練習に励みました。
期待を裏切ってはいけない
陸上部では、砲丸投げをメインに、朝から晩までトレーニングに励みました。中学2年生のときには砲丸投げで全国ランキング1位になりました。せっかく鍛えるなら腕力だけではなくもっと全身を鍛えたいと思い、ハードル走、砲丸投げ、走り高跳び、400メートル走の4種競技でもトップになるべく練習することにしました。
そこで迎えた中学最後の陸上競技大会。順当に予選を勝ち抜き、全国大会へと駒を進めました。周囲からは優勝候補と言われ、絶対にトップになれるという自信をもって大会に臨みました。ハードル走、砲丸投げ、走り高跳びでは良い記録を出し、最後の400メートル走でいつも通りの結果を出せば優勝できるところまで来ました。これで良い記録が出れば、日本新記録も狙えそうでした。
一生懸命400メートル走を走りきり、結果を表示する電光掲示板を見ました。ところが、タイムが良い人から順番に名前が表示される中、いつまで経っても僕の名前が出てこないんです。「おかしい、そんなはずはない」と思いながら見ていると、僕はなんと最下位で記録は「DNF」。DID NOT FINISHの略で、意味は「失格」でした。
競技中、一瞬だけ熱中症のような症状に襲われ、フラッとした拍子に、トラックの白線を踏むという反則を犯してしまっていたんです。何が起きたのかわからず、その場に呆然と立ち尽くしました。
結果は総合3位。悔しさのあまり「何してんの」と言ってきた両親に当たり散らしてしまいました。その様子を見た部活の顧問から、「そんな風に言うな。確かに竹下は3年間頑張った。だから悔しいのもわかる。それでもこの3年間、応援してくれた人の存在も忘れてはいけない」と諭されました。
その言葉を聞いたとき涙が溢れ、号泣してしまいました。結果を出せなくて悔しかったこともありますが、何より自分のことを応援してくれた人の期待を裏切ってしまったことがどうしようもなく辛く感じたのです。
「お前、8月に武道館でプロデビューだ」
失意の中、DDTの社長に結果の報告に行くと、これまでの僕の努力を認めてくれ、入門テストを受けていいと言ってくれました。
テストを受けたら、これまでのテスト記録とは比べ物にならないほど良い結果を出せました。このままプロになれる、東京に行けるとワクワクしていたのですが、社長から「君は中高一貫校なんだってな。なら、高校は行け。プロになるのは高校を卒業した後からでも遅くない」と言わてしまいました。
中学を卒業したらプロになれると思ったのに、また3年待つのかと、非常に落ち込みました。仕方なく高校に進学して、そこでも陸上部に入りました。でも、中学ほどのやる気はなかったですね。全然練習に打ち込めませんでした。
失意の中過ごしていた高校1年のある日、DDTの社長から突然連絡が入りました。夏休みか冬休み、東京に来て、練習を見学してみないかとお誘いを受けたのです。飛び上がって喜びましたね。
待ちに待った夏休み、ワクワクしながら、東京へ向かいました。初めてのプロレスの練習でしたが、小さい頃からプロレスの試合を見続け、動きのイメージができていたため、基礎的なことは全てできました。それを見た社長からは「一度の練習でこんなにできたら俺たちの商売があがったりだ」と言われてしまったほどです。
大阪に帰った後、社長に「いつ入門できますか」と連絡を入れ続けました。しかし、彼からは「時期を見てだな」みたいな返事が来るだけで、進展がないまま時間が過ぎていきました。
ところが半年後の春休み、制服を来て後楽園ホールに来いと再度連絡が入りました。何が起こるのかドキドキしながら上京し、会場へ向かうと、サプライズでリングに上げられ、「8月に彼は日本武道館でデビューします」というアナウンスが鳴り響きました。まさかこんな展開になるとは思ってなかったので、10秒くらい頭が真っ白になりました。でもようやく自分の実力を世の中に見せるときが来たなという気持ちもありました。
21歳で最年少王者に
その後しばらくは、高校で勉強と陸上部の活動を続ける日々を送り、高校2年の8月、現役高校生プロレスラーとしてデビューしました。
デビュー戦では、まったく緊張しませんでした。僕は2歳のときにプロレスラーになると決めて、その目標のために人生を捧げてきました。誰よりも多くの数のプロレスの試合を見ているし、高いパフォーマンスが出せる体を作ってきた自負がありました。その自身が支えになって、失敗する不安などは全く感じなかったのです。
試合には負けてしまいましたが、ここにいる1万人くらいのお客さんが僕のことを見てくれたんだという気持ち良さが強かったですね。
デビュー戦の後、最年少チャンピオンになるという目標を立てました。巡業中に機材を持ち込んでトレーニングをし、移動中など暇な時間はずっとプロレスの試合のビデオを見ました。そして21歳のとき、KO-D無差別と呼ばれる、DDTが定めるシングルマッチの最高峰クラスで、最年少戴冠を果たしました。
最年少でタイトルを取った後は、最多防衛記録を目指しました。でも僕は選手として何十年に及ぶ下積み経験がないまま、デビュー後わずか数年で王者になったため、批判する人もいたんです。防衛戦のたびにプレッシャーを感じてました。
周りに認めてもらうためには、自分の個性を磨くしかないと思いました。そこで改めて個性的なDDTの選手の中で、僕の魅力は何かを考えたとき、強さしかないなと思いました。派手で難易度の高い技を繰り出し、技のすごさを見せつけるような試合をするようになりました。
しかし、激しい試合をしなければいけないと無理をし、けがをすることが増え、違和感を抱き始めました。高校2年でデビューしたときは、まだ無名だし好き勝手に自分のスタイルでプロレスをしていました。しかし、キャリアを積むうちに周りの期待に応えなければいけないプレッシャーから、自分らしい試合ができなくなってきているなと感じました。
そんな中、防衛戦で敗北。敗れたことで悔しさは感じましたが、それまで感じ続けてきた重圧から解放され、ホッとした気持ちもありました。
2年間、チャンピオンとして大会のメインの試合を戦ってきましたが、5大会ぶりにメインではない試合に出場しました。
メインに負けない試合をすればいいと思って臨みましたが、いざ戦ってみると、最後にリングに立って締めるのが自分じゃないことが嫌だと思いました。結局1番じゃないと嫌なんですよね。また王者としてメインの試合に立ちたいと思いました。
プロレスをもっと好きになってほしい
現在は、KO-D無差別でもう一度チャンピオンになることを目標に、トレーニングに励んでいます。
また、今後はアメリカに行って著名な選手と試合をしたいとも思っています。人口もファンの数も日本とは桁違いですし、小さい頃から憧れていた舞台でもあるからです。
同時に、日本でもチャンピオンでもあり続けたいと思っています。両立することは楽な道ではないですが、これまで数々の記録を打ち立ててきたので、決して不可能ではないと思っています。
また、プロレスをもっと日常的なスポーツにして、ファンを増やしたいとも思っています。僕は1995年生まれですが、僕と同世代の人にとって格闘技と言えばPRIDEやK-1がメインで、プロレスを見る人は少ない。でも僕は、プロレスほど面白いスポーツはないと思っているんです。
筋肉ムキムキの人がリング上でぶつかり合い、さまざまな技を繰り広げる。その光景は、日常ではなかなか見られないものです。DDTでは入場曲や場の演出など、高いエンターテイメント性もあります。根底には、僕が好きなものをたくさんの人に知ってもらい、好きになってもらいたい気持ちがあるんです。
僕はこれからもDDTに関わり続け、大好きなプロレス界の発展に貢献したいですね。そのためにももっとお客さんを喜ばせたいですし、「竹下幸之介ってすごい!」と語り継がれる選手になりたいです。
2019.02.04