医者としては、あらゆる病気を診たかったので総合内科を選択しました。卒業後は早く一人前になりたくて、研修が厳しいことで有名な沖縄本土の病院へ入職し、そこで必死になって働いて、多くの知識を詰め込みました。また、後輩の育成やチーム医療の活動を評価してもらった結果、研修医の中で3年間ずっと最優秀賞に選ばれました。

そんなある時、医学的に手の施しようがない状態のがん患者さんが運ばれてきました。僕たちはご家族の希望で、延命治療しました。しかし、その方が亡くなったとき、娘さんが「こんなはずじゃなかった」と言ったのです。

衝撃的でした。延命すればそうなるのは、僕たちには当たり前のことでしたから。最期なのに、ご家族が納得されない形になってしまう。ご家族と病院側とのすれ違いに気づいてしまったのです。

その後、久米島の病院で働くことにしました。人口8600人の離島で、ヘリコプターの搬送から透析まで、医者として様々なことをやりました。

久米島には、最期は島で迎えたいという人がたくさんいました。本土の病院での経験から、患者さんには最高の舞台を届けたいという思いがあり、ご家族から「最期は家で死なせたい」と言われれば、患者さんを軽トラに乗せて家に行って、そこで息を引き取るのを看取ることもありました。それは亡くなり方として最高の演出なんですよね。ご家族にはすごく感謝されました。

またある時、普段農家をしている患者さんに血圧や服薬について口うるさく言っていたことがありました。すると先輩に、「ちょっとあの人の家に行ってみなよ」と言われて。行ってみてびっくりしました。患者さんは、ほったて小屋のような家に住んでいて。明日生きるか死ぬか、その日暮らしをしている人だったんです。

そんな人に薬を飲めだとか食事をこうした方がいいとか、なんてむごい、失礼な話をしていたんだと思って。病院という閉ざされた空間の中だけで、相手を知った気になって話をしていたことが恥ずかしくなりました。

そのとき、顕在化された病気を診るだけじゃ健康にはならないんだと、ヘルスケアにおける考え方が変わったんです。その人らしい生活、仕事、生き方そのものを理解しないで健康をつくることはできないんだと思ったのです。