歌謡曲を歌い続ける大学職員。 お客さんの笑顔と後輩のサポートを生きがいに。
【日本経済大学提供】平日は大学職員、休日はシンガーソングライターとして活動する、長谷川万大さん。14歳でギターを手に取り、今日までずっと歌い続けてきました。宮崎県で生まれ育った少年が、福岡で「歌う大学職員」になるまでには、どんなドラマがあったのか。お話をお伺いしました。
長谷川万大
はせがわ ゆうだい|歌う大学職員
高校生のころ、昭和歌謡をメインに歌手活動を開始。現在は活動を続ける傍ら、日経大で事務職員として勤務。
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※この記事は日本経済大学の提供でお送りしました。
人生を変えたアリスとの出会い
宮崎県日南市で生まれ育ちました。幼いころは病弱で、よく入院をしていました。性格は大人しくて、地味な方。自分から人前に出るなんてことは一切ありませんでした。
しかし小学校3、4年生になると、性格が豹変しました。人前に出ることにすごく緊張していたのが、むしろ自らどんどん出たいと思うようになったんです。将来は役者やアナウンサーをやってみたいと言い出すようになりました。自分でもきっかけは全く分からなくて、我ながら驚きました。
芸能系に興味を持ち始め、役者や演出家、脚本家を目指すように。学校で劇をやる時は、張り切って脚本を書いていました。ジャッキー・チェンが非常に好きで、役者から映画監督までなんでもこなす彼に強い憧れを抱いて、あんな風になりたいと強く思っていました。
中学校では、勧誘を受けて吹奏楽部に入部しました。しかし行ってみると全然面白くなくて。姉の影響で習っていたピアノも大っ嫌いでしたし、楽器は好きになれないと思いましたね。
14歳のある日、偶然アリスのコンサートのCMを見ました。直感的に、行きたいなと思いました。特別アリスファンというわけではありませんでしたが、もともと祖父母っ子で幼いころから美空ひばりなどを聞いて昭和歌謡に慣れ親しんでいたため、何か感じたのかもしれません。
そこで両親にねだって、生まれて初めてコンサートに行きました。場所は宮崎市民文化ホール。僕は前から4列目、谷村さん側の席でした。彼はコンサート中ずっと笑っていて、その笑顔がまるで僕だけに向いているように感じられたんです。
おそらく勘違いですが、それが圧倒的でした。虜にされたというか、「僕もそっちに行きたい」と強く思いました。この人みたいに生きてみたいと、「谷村新司になる」という夢を掲げてすぐにギターを始めました。
これまで楽器が嫌いだったため、音楽に関心を持つとは自分でも驚きでした。絶対に行かないと思っていた方向にどんどん進んでいくのは複雑な気持ちでした。ただ、音楽の素晴らしさや谷村さんの魅力の方が、それに勝ったんですね。
姉が持っていたギターを借りて、一人で地道に練習しました。ちょうど親戚の結婚式があったので、まずは余興に出ることを目標にして。その後、地域のイベントで出演者が足りないという話を聞きつけ、母に背中を押され出演希望を出したんです。すると出られることになって、初めてステージに上がりました。ギターを始めてちょうど5カ月目ぐらいのことでした。
ステージに立っても、まったく緊張しませんでしたね。物怖じしていないというか、本当に楽しくて。谷村さんが好きだとか、歌が好きだという思いを、ただただぶつけていました。それをきっかけに、「出してください」と頼んでいろいろなステージに出演させてもらうようになりました。
歌い始めてから、歌で食べていきたいという思いが生まれました。ただ、思いだけではどうにもならない世界です。資格を持っておくとつぶしがきくと考え、高校は商業科を選びました。音楽をやりながら、学校ではワープロや簿記などを学んでいましたね。
高校生で銀行のCMに出演
ギターを始めて3年目に、地元の銀行のCMコンテストがありました。地元に定着している『夢に逢いに行こう』という歌をアレンジして、コンテスト形式で発表するというものです。
参加者はラップ調にするなど色々なアレンジをしていましたが、僕はギターでシンプルに歌いました。その結果、優勝したんです。確実にダメだと思っていたので、まさか自分がと感動しました。生まれて初めて、震えたような感覚を覚えました。
コンテスト優勝の副賞としてコマーシャル出演があり、CMでメインで歌うことができました。それまではほとんどアリスのコピーを歌っていましたが、これをきっかけにオリジナルソングを歌うようになりました。
出演したCMが流れると、イベントなどへの出演依頼が増えました。平日は学校から帰って1、2時間練習して、土日は基本的にイベントに出演するというスケジュール。2、3年生の時はほとんど休みがないくらいでした。
3年生になり進路を決める時期になると、将来は東京で歌手として生きていきたいと思い、どうやって東京とパイプをつなぐか考えました。専門学校は学費が高く、入学しても必ず歌手になれるわけではない。大学も学費はかかるし、行っても良いことがあるかわからない。ただ、いきなり東京で就職するのもちょっと違うような気がして、悩んでいました。
そんなある日、担任の先生に日本経済大学という大学を紹介されました。芸能コースがあると聞いて興味を持ちました。4年制大学で芸能コースがあるのは非常に珍しいんですよ。さらに実際に現場で活躍する方が教えてくれると知り、そういう方の生の声が聞けるのは魅力的だと思いました。
私立大学にしては学費が安いし、寮もある。経済系の大学であれば、商業科で習ってきたことを深めることもできる。それに、福岡は東京に劣らないくらい音楽も盛んな土地です。4年間ここで修行して、東京にパイプを繋ぐのもいいかなと思いました。ほしかったいろいろなピースがきれいにはまった感覚があり、進学を決めました。
自分だからこそできるステージを
大学では、音楽におけるマネジメントなどを学びました。例えばDAWという授業があって、パソコンを使ってCD にするための音源を自分で作るんです。それから、契約の仕方やマーケティングなど、CDを売るための技術も学びます。CDの制作から自分で手売りするまで、一連の流れを理解できました。
こうした授業のおかげで、本当はいろいろなところを通して手数料を払ってやらなければならないことを、全部一人でやれるようになりました。利益やコストを全部自分で計算し管理できるようになったのは、歌手活動を続けていくうえで大きな収穫でした。
一方、音楽活動は、最初の1、2年は停滞していました。これまで宮崎を中心に活動していたので、ツテもなく、ステージ活動がままならない状況で。小心者なのでなかなか自分からガツガツいけず、活動のきっかけを見つけられずにいました。出たいけど出られない状況に、葛藤していましたね。
また、18年間ずっと宮崎で育ってきたので、いきなり都会の福岡に出てホームシックにもなりました。周りの空気に馴染むのに時間がかかったんです。ようやく馴染んでも、周りに流されて練習に身が入りませんでした。とにかくモチベーションが下がっていました。
しかしそんな僕を、先生方がサポートしてくださいました。うじうじしている僕を、いろんな所に引っ張り出してくれて。例えば、オープンキャンパスなどに参加して人前で話すことで自信をつけさせてくれたり、先生個人のツテでラジオにも呼んでもらったりしました。
先生方が僕の背中を押し、外の世界へ出るレールを敷いてくれたおかげで、少しずつ活動を軌道に乗せることができました。徐々に自分から地域に出ていくようになって、3年生からは一気に仕事が増えました。
出演の機会が増えると、これまでのように音楽を楽しむだけでなく、お客さんや主催者のことを考えるようになりました。ステージが自分だけのものじゃないということを思い出して、自分を指名して呼んでくれるのはありがたいことだと思ったんです。
だからこそ妥協せずに、僕だからできることをちゃんと見せなきゃいけないと感じました。練習量も1日7~ 8時間に増え、音楽に対する姿勢が大きく変わり、より真摯になりました。
卒業後は東京に出ようと考え、働くつもりはありませんでした。地道に音楽をやって、なんとか一旗あげようという気持ちだけ。しかし、卒業が近づき将来のことが現実味を帯びてくると、これではまずいなと思い始めました。音楽1本でやっていくには間に合わないぞと。何も持たずに東京に出ると行き倒れてしまうと思い、4年生になってから東京方面での就職活動を始めました。
エンタメ系を中心に数社の試験を受けたところ、ある音楽スタジオから内定をもらいました。しかし、そこで働くには規定上、歌をやめなくてはならないと言われてしまい、仕方なく内定を取り消しました。先が見えず、これからどうしようと頭の中が真っ白になってしまいました。
そんな時、大学の人から「日経大に残る気はある?」と聞かれて。はいと答えたら、「正式に試験を受けてください」と言われました。内定を蹴ったタイミングでお話をもらえたのは大きかったですし、何より母校からの話だったので、光栄だと思いました。
それに実は、学校で働くことにも漠然とした憧れがあったんです。私自身はこれから歳を重ねていきますが、大学職員なら日々、20歳前後の学生と接することができます。そういう世代と関わり続けていけば、歌手になりたいという夢を忘れず、心の灯を燃やし続けていけるのではないかと思いました。
そこで、福岡で地道に音楽活動を続けようと考え、試験を受けました。
歌う大学職員として日々活動
現在は、シンガーソングライターとして活動を続けながら、日経大の事務職員として学生生活のサポートを行っています。クラブ活動の全体管理をはじめ、コーチの先生の出張管理や学園祭の統括などが主な仕事です。
日々接している大学生は、まず何よりも自分の後輩だという意識があります。自分もこの大学で4年間学んできたからこそ、学生の気持ちが分かるんです。学生たちの役に立ちたい、より良い生活ができるようサポートしていきたいと思っています。
就職後も、音楽活動は続けています。ステージに出演する数は減っているものの、コンサート活動とアルバムの制作をメインに精力的に活動しています。大きなホールで開催するソロコンサートから、公民館でのお年寄り向けの小さな催し、福祉施設でのイベントなど、幅広く何でもやっています。
歌っているのは、相変わらず昭和歌謡やフォークです。70年代の曲が多いですね。阿久悠さん作詞の歌や、沢田研二さん、さだまさしさん、吉田拓郎さんの歌などです。そのためお客さんの年齢層は高く、基本的に50歳以上です 。昭和歌謡は、僕がまだ生まれてない時代の歌。それでも、僕の歌を聞いて当時を生きていた人が感動してくれたり、「昔を思い出す」と声をかけていただけたりすることが一番嬉しいですね。
音楽を始めてから事務所には所属せず、ずっとフリーでやっています。スケジュールの管理もマネジメントも、全部自分で行います。フリーだからこそ、今も働きながら自由に活動ができていると思います。
大学では、職員として後輩にあたる学生と関わることがモチベーションにつながるし、音楽活動では、お客さんの笑顔を見ることで元気が出る。2つの活動は、根底が一緒のように感じています。両方がバランスよく自分の中に混在することで、うまいこと一つになっているようなイメージです。
大学の仕事も音楽活動も、自分の中では持ちつ持たれつ。どちらかがなければ両方とも成り立ちません。今後も職員として働きながら、音楽を続けたい。ずっと2つを平行して暮らしていけたらベストです。今はもう本当に、それだけですね。
2018.08.29