会社全体を見るジェネラリストでありたい。 コミュニケーションをもっと楽しめる世界へ。

大学時代に学んだ音声処理や立体音響などの技術を生かし、同僚と会社を立ち上げた楢崎さん。複数人でハンズフリー通話可能なウェアラブルトランシーバーを生み出しました。プロダクトを通して実現したい世界観や、それを成し遂げるための自分の役割とは。お話を伺いました。

楢崎 雄太

ならさき ゆうた|株式会社BONX CTO・COO
会社の設立当初から参画し、アウトドアスポーツに最適な新しいBluetoothヘッドセット「BONX Grip」の開発に従事。また、商品配送までの仕組みなどオペレーション全般の構築も担当。現在は事業拡大に向け、提携企業の開発を担当。

尖った人と話をするのが面白い


神奈川県で、2人兄弟の長男として生まれました。親戚の中で子どもは自分一人だけ。親戚中から可愛がられたので、人見知りせず、大人にも積極的に話しかけられる性格になりました。

両親が弟につきっきりになっていく中、だんだんと自分のことは自分で決め、なんでも勝手にやるようになりました。小学4年生の時、中学受験のための塾に通うように。塾の先生から「君の性格に合っているから」と「自主自立」を掲げる中高一貫校である麻布中学・高校を勧められました。その学校を目指して勉強し、無事合格することができました。

中学では、中高の生徒が一緒に取り組む文化祭実行委員や運動会応援団に所属し、精力的に活動しました。どちらも大きなイベントを運営する団体だったので、準備が大変でメンバー同士が衝突することもありましたが、集団で大きなことを成し遂げるのが面白いなと思いました。

周りの友達は「これだけは誰にも負けない」という特技を持っている人が多く、かっこよかったです。たとえば、文化祭実行委員で校内の装飾をした時は、デザイナーを目指している友達がものすごくうまい絵を描いていました。僕自身は、だいたいのことはできるけれど飛びぬけて上手くできるものがなく、器用貧乏なタイプだったんです。だからこそ、何か突出した特技を持っている人と接して、自分の知らない世界のことを知るのが面白く感じました。

音声処理の研究からコンサルの道へ


高2までは文系クラスにいましたが、2年の夏休みに、文系で就きたい職業がないと気づき、理系に進路を変えました。学校で理系の授業は受けられなかったので、塾で勉強しました。学校の先生からは理転について反対されましたが、まぁやってみようと勉強を続けました。

将来は、建築家に憧れていました。ただ、建築をずっと好きでやっていけるか自信がなくて、建築家一本に絞っていいかはずっと悩んでいました。大学受験では建築学科にも受かりましたが、結局、大学3年まで専門を決めなくてもいい、東京大学に進学しました。

受験勉強で燃え尽きてしまって、入学後最初の1年はパチスロばかりの毎日を送りました。その結果、1年生をもう一度やり直すことになってしまいました。

興味があった建築の自主ゼミには、唯一真面目に出席していました。ある時、建築模型を設計する授業の中で、自分のつくった模型と他のゼミ生がつくった模型とを見比べることがありました。他の学生がつくったものがすごくかっこいいのに対し、自分がつくった模型はまったくセンスのないものでした。自分に建築の道は向いていないんだと挫折感を味わい、他の道を模索することにしました。

あれこれ考えた結果、これからはプログラミングだと思い立ち、情報系の授業を取るようになりました。その中でARやVRと出合い、夢中になりました。昔から好きだったSFもののアニメやゲームの世界観を、現実に再現できるかもしれないとワクワクしました。

もっと専門性の高い勉強がしたかったので、迷わず大学院に進学。研究計画を考えていた時にふと、画像系の技術が注目されるAR、VRの領域で、音を研究してみたら面白いんじゃないかと思いつきました。昔から音楽が好きだったこともあって、音に興味があったんですよね。それに、人間に入ってくる外からの情報の6割は映像だけど、3割は音だという話を聞き、大半の人があまり考えていない3割のことを専門で研究すれば、新規性もあって面白いんじゃないかなと思ったのです。

そこで、大学院では音声処理の研究を進めました。そのかたわら、テクノロジーアートの学生団体にも所属しました。建築家になることは諦めましたが、依然としてアート方面へは強い興味がありました。しかし、活動するうちに作品づくりよりも学生団体の運営の方が楽しくなりました。中高生の時に味わった、集団で動いて大きなことを成し遂げる面白さを思い出したのです。

修士過程2年生になり、就職するか博士過程に進むか迷いましたが、これ以上社会に出るのが遅くなるのは嫌だと思い、就職することに決めました。エンジニアとしてシリコンバレーで働きたかったのですが、そのためには博士課程に進む必要があることがわかり断念。日本のメーカーへの就職も考えましたが、大学で勉強した専門分野の知識を活かせるまで何年もかかった先輩の例を聞き、堪え性のない自分には無理だと思いました。

その頃、一緒に学生団体に所属していた友達から、組織を裏方として支えるような仕事が好きなら、コンサルティングが向いているんじゃないかと言われ、興味を持ちました。そこで数社にエントリーを出し、とにかく早く成長できると言われていた外資系コンサルティングファームであるボストン・コンサルティング・グループに就職することに決めました。

強みを活かし合える関係に


就職先では主に国内メーカーを担当し、経営戦略の構築から現場の営業戦略の考案まで幅広く経験しました。優秀な人たちに囲まれ仕事をする中で、コンサルティングのスキルとビジネスパーソンとしてのマインドが高まることや、世の中に大きな動きを生み出せることにやりがいを感じていました。しかし、1年目から大企業のお客さんを相手にアドバイスをする立場になるので、大変なことも多くありました。お客さんの要望に応えなければというプレッシャーの中、夜中の3時まで仕事をして、同じ日の朝6時には出社することもあり、体力的に死にそうになりながら、なんとか仕事をこなしていました。

2年半程経つと仕事にも慣れてきて、「成果が出るところまでプロジェクトに携わりたい」と感じるようになりました。一つのプロジェクトはだいたい6ヶ月くらいのサイクルで回していくのですが、その期間でできることは限られています。一緒に戦略や計画を立てても、実行まで関わることができませんでした。「本当にずっとこの仕事をしたいのかな」と考え、他の仕事も探すことにしました。

そんな時、たまたま同じオフィスで斜め前に座っていた同僚から「君、音に詳しいんでしょ?」と声をかけられました。聞けば、スノーボード中に仲間と会話するための端末の開発を考えていて、意見が欲しいとのこと。そこで風切音への対処方法をアドバイスすると、次の日から会社に来なくなりました。しばらくするとまたひょっこり会社に現れ、今度は「試作品を作ったんだ」と見せてきました。自分の実現したいことのために突き進む姿を見て、僕にはないものを持っていると思いましたね。

最初に話しかけられて2カ月程経った頃、「この商品を作るために退職して新しい会社を立ち上げるから、一緒にやらないか」と誘われました。まだ何も決まってないからと一度は断りましたが、その4カ月後くらいに、「助成金がとれたから一緒に会社をやろう」と再度誘われました。

その頃、僕は転職活動の軸を3つに絞っていました。1つ目は大学院で研究していた経験を活かし、音に関する仕事をすること。2つ目は、好きだったスポーツにビジネスとして携わること。3つ目は、小さい組織で0から1を立ち上げるフェーズに関わることです。全てに当てはまる転職先がなかなか無いと思っていたところ、そういえば、誘われている会社には求めていたものが全て揃っていると気がつきました。

また、自分はある程度のことはそつなくこなせる反面、でかいビジョンをずっと掲げ続けることがそんなに得意じゃないと思っていました。だからこそ、自分が実現したいことのために全力で突き進む彼とだったら、互いの強みを活かしながら面白いことができるんじゃないかと思いました。そこで、彼と一緒に会社を立ち上げることに決めました。

求める人が満足してくれるものを


会社を設立すると、まず会社としてのビジョンを作るところから始め、プロダクトの開発や人員計画の作成など全てゼロからやりました。

試行錯誤の末プロダクトを形にできたので、クラウドファンディングで商品化のための資金を集めることにしました。世に発表するまでは、自分たちが作っているプロダクトが本当に必要とされているのか不安でした。しかし、初日からすごい勢いで支援額が伸び、本当に感動しましたね。

クラウドファンディングは予想以上の反響があり、無事成功。しかし、いざ支援してくださった方々に商品を届ける段階になって、多くの問題が起きました。まず、品質管理を中国の工場に丸投げしてしまっていたことから、あまり質の良くない商品が納品されてきました。また、物流の仕組みが整っておらず、商品をお客さんの元に届けるのにすごく苦労しました。僕たちが作ったものを求めてくれる人たちがいっぱいいるんだと感じた一方で、このままでは、お客さんの要求に答えらえれないことを痛感しましたね。

当初の計画では、クラウドファンディングで集めた資金を元にプロダクトの販売を開始するつもりだったのですが、もう一度、品質管理や物流の仕組みの整備まで一からやり直そうと決めました。

品質管理については、工場に丸投げしていたものを自分たちでチェックする体制を整えましたし、物流に関しても管理可能なシステムを構築しました。社員数も増やし、商品を安定的に製造、販売していける体制を整えていきました。クラウドファンディングを成功させて10カ月ほど経った後、生じていた問題を解消し、ようやくプロダクトの販売を正式に開始することができました。

「次のCTO」へバトンタッチを


現在は、株式会社BONXの技術開発と事業開発の責任者として仕事をしています。プロダクトの販売を開始してから1年半ほど経ちますが、大手スポーツチェーンや多数のスキー場を運営する企業とのタイアップ企画などにより、国内ウィンタースポーツの市場において一定のポジションを確立できたのかなと思います。次の展開として、両手がふさがっている状態でもコミュニケーションできることを売りとして、自転車や釣りなどのスポーツで使ってもらえるようにプロモーションをかけています。また、アメリカを中心に、海外でも本格的に展開していく予定です。

さらに、オフィスや現場でコミュニケーションを円滑化するためにプロダクトを提供する、法人向けのビジネスを開始しました。BONXのプロダクトなら、トランシーバーとは違って、機械自体が軽いため身につけた際の負担が少なくてすむほか、距離の制限を気にする必要がありません。また、複数人での同時通話も可能です。これらの特徴から、飲食店や建築、医療などの現場で役に立つのではないかと考えています。今後は大手企業と協力し、様々な業界へ販路を拡大していきたいです。

今、会社はようやく本格的にビジネスを拡大するためのスタート地点に立つことができました。ここからさらに事業の拡大を加速していくために、徹底的にプロダクトの性能を高め、開発を加速していく必要があります。そのため、より専門性の高い技術者にこれまで僕が担当していたCTO、つまり技術側の責任者を任せたいと思っています。

僕はこれまで、プロダクトの開発や物流の整備など、会社の中で足りない部分を補い、ある程度形ができたら後任に任せる、というやり方で会社に貢献してきました。そういう働き方は、どんな分野のこともそつなくこなせる、器用貧乏な自分に向いていると思います。

これまでは技術側の責任者が会社に最も足りない役割でした。しかし創業して3年半経った今、会社の成長速度的に、このままCTOを担っていたのでは自分がボトルネックになりかねないと危機感を持っています。「CTO」という肩書そのものに固執しているわけではないので、自分より最適な人に引き継いでいきたいと考えるようになりました。

そして僕自身は、プロダクト開発からビジネスに直結するアライアンス関係に軸足を移していこうと思っています。今後も自分の特性を活かしつつ、足りないところを補う役割を果たして会社を大きくしていきたいです。

個人としては、一緒に働いた人や関わってくれた人の中だけで構わないので、自分の名前で何かしらの爪痕を残せる人になりたいと思っています。どんな形で残せるのかはまだわかりませんが、この会社でやっていることがそれに繋がっていくんじゃないかと感じています。僕たちがつくるプロダクトを通して、仕事も遊びももっと楽しくなる。BONXが目指す、そんな世界を実現させたいと思います。

2018.07.23

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