できないと思っている人へ勇気を与える存在に。 モデルからメイクへ、切り拓いた自分の道。
トータルビジュアルプロデューサーとして、人の内面を表現するメイクや立ち振る舞いなど、外見全般に関わる指導を行うMANAMIさん。15歳でモデルデビューし、10年ほど活動した後、メイクの道へ進みます。日本で発売したメイク本は、重版が続くベストセラーになっています。華やかな経歴の裏には、自分の力で道を切り拓いてきた努力がありました。
MANAMI
マナミ|トータルビジュアルプロデューサー
一般社団法人日本トータルビジュアルブランディング協会代表理事、Miss Supranational Japan2018神奈川大会顧問。著書「メイクの超基本と応用テクニック」等多数。
一人で生きる力をつけろ
北海道札幌市で生まれました。用心深く慎重で、やるからには何でも完璧にできないと気がすまない子どもでした。普通の子どもよりおむつが外れるのが遅く、両親は心配したそうですが、外すと一度もお漏らししなかったそうです。歩く時も同じで、長い間つかまり立ちで練習をし、歩き出してからは一度も転びませんでした。
物心ついてからは、人前に出るのが嫌いなおとなしい性格で、友達と一緒に漫画を描くのが好きでした。運動は苦手でしたが、中学校では友達に誘われてバドミントン部に入りました。ほかの運動部よりきつくないだろうと気軽に考えていたんです。実際に部活が始まると、想像以上に厳しい練習が続きました。
しかし、どんなに苦手なことでも、やるからにはできないのは嫌でした。100メートル走などは恵まれた体がないと好タイムを出すのが難しいですが、バドミントンはフォームを変えたりコースを読んだり、工夫次第でうまくなる余地があります。自分の努力でなんとかなることは、できるようになりたいと思ったんです。
厳しいしごきの中、練習に打ち込み続けました。その結果、地区優勝することができて達成感を持てました。
部活に励む一方、勉強にもしっかりと取り組みました。弁護士を目指していたんです。幼いころから父に「一人で生きられる力をつけろ」と言われていた影響が大きいですね。家庭に入るにしても、自分で働くにしても、強さは持たなければならないと言われていて、私は自立してお金を稼げる人間になろうと思っていました。
遊びに来ているならやめてほしい
15歳の時、芸能事務所からモデルにスカウトされました。身長が170センチあり、痩せていたので目に留まったのかもしれません。海外のファッションショーに出る予定のモデルが急遽出られなくなったので、代わりに出演してほしいという連絡が来ました。はじめは怪しい話ではないかと疑いましたが、調べてみると有名な人が所属している事務所だと分かり、家族と相談して出演することにしました。
ウォーキングだけは事前に習って、フランスで初めてのファッションショーに臨みました。ランウェイでは、足がめちゃくちゃ震えましたね。全然きれいに歩けませんでしたし、表情をつくる余裕もありません。0点の出来でした。
しかし、ひどい出来だったにもかかわらず、信じられない額のギャラをもらいました。自分の力でこんなにもお金を稼げることが嬉しくて、弁護士の進路を変更して、モデル活動を本格的に始めることにしました。そのため、高校も進学校ではなく、モデル活動に専念できる学校に進みました。
モデルの世界に足を踏み入れて、同年代のモデルの女の子が成熟していることに衝撃を受けました。外見以上に中身も大人で、プロ意識が高く、仕事に対して真剣に向き合っているんです。私も一生懸命やろうとはしているのですが、思った通りにできないことが続いて、ある日、海外のモデルの一人から「遊びに来ているならやめてほしい」と言われました。「私たちは豊かな国で暮らすあなたとは違う。命を懸けて、家族のためにお金を稼ぎに来ているんだから」と。
お金を頂いている意味を、真剣に考えさせられました。それに、私には甘えている余裕はありません。モデルになるために活動しやすい高校を選んだので、大学進学は考えられなかったし、この業界でキャリアを積むほかに生きる道はありませんでした。
モデルとして真剣にキャリアを積むとともに、この先どうするかを考え始めました。日本にはモデルがたくさんいるので、生き残っていくためには、自分にしかできないことを身に着ける必要があると思いました。
そこで、武器として中国語を学ぶことにしました。いろんな国でファッションショーに出る中で、これからは中華圏の国が伸びると感じたんです。中華圏の中で、日本はおしゃれだと認識されていたので、日本人としてのアドバンテージを生かせるとも思いました。中華圏の中でも、日本文化への理解があって、中国語が広く使われている台湾に行くことに決めました。
台湾でのモデルデビュー、そして引退
高校3年生の夏、卒業後の所属先を探すために、プロフィールを持って単身で台湾に行きました。なんのツテもなかったので、まずは適当なCDを買って、CDを出している音楽事務所を訪ねました。そこでモデルの事務所を紹介してもらうんです。なんとかモデル事務所にたどり着くと、今度は仕事の交渉です。それまでの経歴を話しながら、台湾でモデルの仕事がしたいと伝えて回った結果、就労ビザを発行してくれる会社が3社見つかりました。その中の1社と契約し、高校卒業と同時に台湾でモデル活動を始めました。
日本と台湾を行き来しながら、両方で仕事をしました。しばらくの間、モデル活動は順調でした。しかし、20代の半ばに差し掛かるころから、モデルを続けることに年齢的な限界を感じるようになりました。それまで一緒にモデルをしていた同年代の友達は、仕事をやめたり、生き残るためにアダルトビデオに出演したりするようになっていました。考えた末、モデルとして表舞台に立ち続けるのではなく、裏方に回ることに決め、メイクや美容法の勉強を始めました。
バリでメイクやエステを学び、ハワイでウエディングについて勉強しました。4年ほど勉強を続け、27歳の時にモデルを引退してメイクに専念することに決めました。両立することもできましたが、モデルの仕事がないからメイクをやっているとか、メイクで売れないからモデルを続けているとか思われるのが嫌だったんです。
その後、芸能人から、一般の人のウエディングまで、幅広いメイクを担当させてもらいました。それまでの台湾で主流だった、普段の自分とがらっと変わってしまうような大掛かりな変身メイクと違って、私のメイクは、本人の素材をいかした日本人風のメイクでした。担当するうちに私のメイクが好きだと言ってくれる人が増え、仕事も増えていきました。
ゼロから踏み出した、日本でのメイクの道
順調に仕事していたある日、所属する事務所が突然つぶれました。何が何だかわからないまま、夜逃げ同然で日本に帰りました。ショックでしたが、台湾人の婚約者が日本に駐在していたため、そのまま結婚し日本にしばらく住むことになりました。
日本でもメイクの仕事を始めましたが、台湾での実績は全く役に立ちませんでした。仕事を紹介してくれる友達もいません。義母から「日本でも有名になりなさい」と投資してもらい、日本のメイクスクールに通うことになりました。お金を出してもらっている手前、早く有名にならなくてはと必死でしたね。夜は学校に通い、昼はメイクの仕事を探しました。
ただ、アシスタントとして雇ってほしいと交渉に行っても年齢を理由に断られることがほとんどでした。30歳を超えたアシスタントは、周りからすると使いづらいんです。どこにも雇ってもらえず、仕方なくフリーでやることにしました。まずは日本の仕事の習慣に慣れて、実績を積むため、格安で依頼を受けました。無料でメイクをしたこともあります。とにかく地道に営業して、仕事を増やしていきました。
半年ほど続けた頃、ミスコンファイナリストの作品撮りのメイクを担当しました。実績をブログに載せたところ、一気に話題が広がり、急激に問い合わせが増えました。海外経験があることを見込まれて、外資系に就職したい人向けのメイク講座などを頼まれるようになったんです。
一度つながりができると、経歴に紐づいたいろいろな仕事が舞い込んできました。モデル時代の経験をいかしてウォーキングの指導をしてほしいと頼まれたり、中国語の経験をいかして中華系のモデルが来日した時のメイクに呼ばれたりするようになりました。ファッションブランドの撮影では、メイクだけでなくタレントのキャスティングや服のコーディネートも任されるようになり、できることがどんどん増えていきました。
ついには、メイク術やコスメについて書いた本も出版することになりました。本がベストセラーになると、仕事の幅がさらに広がりました。
「できない」と思っている人に、勇気を与える存在に
現在は、トータルビジュアルプロデューサーとして活動しています。メイクだけでなく、ファッション、姿勢、表情など、外見すべてを整える仕事です。政治家や芸能人、起業家など、すでにメディアで活躍している方から、これから活動予定の方までさまざまな人に指導をしています。
プロデュースする時に心掛けているのは、内面を外見に示すことです。そのために1時間以上じっくりと時間をとり、相手の性格や今の立場、今後目指すものなど、内面を聞くことから始めます。一見関係ないと思うかもしれませんが、例えば、今着ている洋服にしても、選び方にその人の内面のいろいろな要素が関係しているんです。社会でのポジションもあるでしょうし、性格や趣味趣向、その時の気分や理想の自分のイメージも関係あるかもしれません。昔の体験がトラウマになって、着たい服を着れなくなっていることもあるんです。外見をプロデュースするために、その人の話を聞くことはとても重要です。
お話を聞いたら、理想と現実のギャップを埋めるために、外見をつくっていきます。似合うことは大前提ですが、TPOに合わせ、周囲に与えたい印象を加味して全体を整えていきます。大変なことも多いですが、面白いしやりがいのある仕事です。
それ以外にも、トータルビジュアルディレクターの育成をしたり、芸能事務所や社団法人を運営しているほか、世界五大ミスコンテストであるMiss Supranational Japan神奈川大会の顧問も務めています。ミスコンはただ美人を決めるのではなく、オピニオンリーダーを決める大会なので、外見だけでなく内面も厳しく指導します。綺麗事でなく、出場者には本当の意味で人に良い影響を与える存在になってほしいと思っています。
ここ数年は、仕事の重心が自分のやりがいや生活のためだけでなく、段々と社会貢献に移ってきました。今の仕事は、どれをとっても教育に繋がっています。トータルビジュアルプロデューサーの仕事は自分の見せ方を教える仕事ですし、講演も、ミスコンも、正しいメイクの仕方も、「人に教える」ことが軸にあるんです。自分がこれまで生きる中で培ってきたことが、次の世代の役に立てばいいなと思っています。
特に私が伝えたいことは、周りに否定されたり苦手だと思っていることでも、自分で「やろう」と決めて頑張り続ければ、できるようになるということです。私自身、15歳でモデルの道に進み、人と同じ道を通ってこなかったので、何かを始める時いつも「君にはできないよ」と言われ続けてきました。モデルを始めた時も、台湾に渡った時も、日本でメイクを始めた時も、コネもないし経験もない、ゼロからのスタートでした。心が折れることもたくさんありましたが、それでもやり続けることで成果を出せたんです。私自身が挑戦し続ける姿を見てもらうことで、ゼロからでもできるということを伝えていきたいです。
最近の私の挑戦としては、大学に通って一回り下の学生に交じって法律を勉強したり、苦手だった筋トレに励んだりしています。法律科目は意味がわからないし、できると思っていた英語も基本的な文法からつまづいたりと大変です。筋トレにいたっては、腕立て伏せが1回もできないところからのスタートでしたが、始めて3ヶ月で筋肉系の大会に出場しました。続けるうちに結果はついてくるものです。
何かを達成するために、正しい道なんてありません。ゼロからのスタートでも、自分で決めたことをやるだけ。やったら身に着くし、成果がでたら楽しくなります。これからも、「できない」と思っている人に「なんでもできるよ」と伝えて勇気を与えられるように、私自身挑戦を続けていきます。
2018.05.03