ダメリーマンから「片付けパパ」へ。人生の使命を見つけられる人を増やすために。

電機メーカーで働く傍ら、「片付けパパ」として片付けのノウハウを教えている大村さん。最近は、片付けの考え方を応用した「人生の整理法」を確立し、講演活動を行っています。「典型的なダメリーマンだった」と話す大村さんが、変わった理由とは?お話を伺いました。

大村 信夫

おおむら のぶお|片付けパパ
電機メーカーで働く傍ら、整理収納アドバイザー1級を取得し、現在は「片付けパパ」として講演活動を行う。

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女手一つで頑張る母を支えたい


青森県三沢市に生まれました。1歳のときに白血病で自衛官だった父が他界し、母の実家のある静岡県に引っ越しました。母が女手一つで頑張っている姿を見て、苦労をかけないようにとなるべくおとなしくしていました。

母子家庭の支援や遺族年金をもらって生活していたので、母からは「世間様から支援を受ける立場なんだから、一歩引いて生きなさい。目立とうとしないように」と言われて育ちました。そんな教えもあってか、人の顔色をよく見るようになりましたね。

勉強は要領よくできるほうで、高校は地元の進学校に通いました。高校1年生のときはバブル景気の真っ只中で、経済学部を志望していました。しかし、翌年バブルが崩壊し、世間では「働き口がなくなる」と騒がれるようになったんです。

文系の学部よりも、専門性が高い勉強ができる理系の学部の方が就職しやすいかもと思い、2年の秋に理系に転向しました。担任の先生からは「今から勉強を始めても間に合わないからやめとけ」と止められましたが、要領よくこなせる自信がありました。

他の生徒に追いつくため必死で勉強していると、それを見た先生が、推薦で行ける大学を紹介してくれました。しかし、自分に自信があった私は、より高みを目指してその申し出を断ったのです。

迎えた大学受験。できると思って臨みましたが、蓋をあけたら全滅でした。理系に転向してから時間がなかったのが原因だと思ったので、浪人してあと1年頑張ろうと思いました。ただ、母子家庭で経済的に余裕がないのに浪人していることは、みんなに知られたくありませんでした。「母に迷惑をかける息子だ」と思われるのが恥ずかしかったんです。地元から離れた場所に下宿して予備校に通い始めました。

それから1年間はすごく真面目に勉強に取り組みました。その結果、なんとか東京の国立大学に合格できたのですが、そこは1年前、推薦を断った学校でした。この1年のお金と時間は何だったのだろうと落ち込みましたね。

ただ、そのことを母に告げると、「その大学に行く運命だったんだよ。1年余分に頑張る経験ができて良かったじゃない」と言われ、すごく心が救われました。母がこんなに優しい言葉をかけてくれるのは、母自身も父がいなくなってから物事を前向きに捉え直して生きてきたからなのかもしれない。そう思うと、言葉に重みを感じました。

境遇のせいにして逃げる


母の言葉はずっと心に残っていましたが、大学ではどうしても勉強が好きになれず、バイトと趣味のバイクに明け暮れる毎日でした。

大学4年になっても特に将来やりたいことが見つからなかったので、とりあえず大学院に行こうと考えました。その考えを親戚に話すと「大学院は良いけど、お前の母を早く楽にさせてあげたほうがいいんじゃない」と言われてハッとしました。自分の都合しか頭になくて、母の苦労を全く考えてなかったと気づいたのです。

やりたいことがないから大学院に逃げるのではなく、ちゃんと働こうと考えるようになりました。就活を始めたのが4年の秋だったので、採用を続けている企業はほとんどありませんでしたが、選り好みせず受けた結果、電機メーカーのシステムエンジニア職の内定をもらえました。

就職してすぐは、消防署のシステムの担当を任されました。消防署は24時間体制なので、緊急時にはいつでもすぐにシステムの対応に駆り出されました。人命がかかった精神的負担が大きい業務で残業も多かったので、かなりしんどかったです。

そんなとき、より規模の大きい電機メーカーの大量中途採用の募集を知りました。精神的な負担や残業が少ない会社に移りたいと思い、転職を決めました。

新規事業のシステムエンジニアとして入社しましたが、残業や海外出張が多く、前職と遜色ないほど激務でした。9.11のテロが起きた時期だったので、海外に行くのが怖くて、心的な負担も大きかったですね。

仕事のストレス解消に、毎晩飲み歩いていました。結婚して子どももいましたが、飲むのが仕事と言い張って家族サービスを完全に放棄していましたね。申し訳ない気持ちはどこかにありましたが、「自分には父像がないから、良い父親になれなくてもしょうがない」と自分を正当化させていました。

時間とは命、だから大切


酒に溺れる典型的なダメリーマンのまま40代に突入したとき、たまたま実家に帰る機会がありました。押し入れから昔のアルバムを引っ張り出して懐かしんでいると、その中に見覚えがない手紙を見つけました。父が亡くなる半年前に親戚に宛てて書いたものでした。

そこには、健康体だったのにいきなり余命いくばくもないと突き付けられて困惑していること、今まで自衛官という職務から国のために尽くしてきたが、自身の体力と健康を過信して酒もたばこをやめず、家庭を顧みなかったうえ、小さい子どもを残して死ぬのを申し訳なく思っていることなど、私の知らなかった父の気持ちがひたすら綴られていました。そして最後にこう書かれていました。「1日でも長く生きたい」。

父が家族との時間を十分にとれなったことを、これほど後悔していたとは思いませんでした。また、健康体でも急に死ぬこともあると知って、今死んだら絶対後悔すると思ったんです。自分が目的もなく無駄に過ごしてきた1日と、父が死ぬほど生きたかった1日が同じと気づいたとき、平等な時間をどう過ごすかが重要なのだと思いました。それならば、自分にとって本当に大切な家族のために時間を使おうと決意したんです。

自分の時間の使い方を見直すと、お酒にばかり時間を費やしていると気づき、禁酒を決意しました。また、もっと家族を大切にするため、自分の中で「かっこいいパパプロジェクト」を始めました。家で愚痴を言わないなど、外見ではなく生き方がかっこいいパパになるために自分自身を変えるプロジェクトです。

参考になるかっこいい人を探すため、セミナーやワークショップにも積極的に足を運びました。世の中には面白い人がたくさんいるとがわかりました。だんだん人脈が広がり、困っている人から「こんな人を紹介してほしい」と頼まれるようになりました。

少しでも役に立てるならと、人の紹介をしていくうちに、だんだん人と人を結びつけたときの化学反応が面白いと思うようになりましたね。自分が触媒となって世の中が良くなっていく実感があったのです。

少しづつ、人生が面白くなってきていたある日、実家近くの病院から会社に電話がかかってきました。母にがんが見つかったのです。

医者から病状の説明には家族の立ち会いが必要と言われました。新幹線に乗って急いで駆けつけると、「仕事忙しいのに、わざわざ来させてしまってごめんね」と母から言われました。がんで自分が一番苦しい状況なのに、人を気遣って声をかけてくれる姿に胸を打たれました。今までいろいろな場面で母に支えてもらってきた分、今度は自分が母に勇気を与えたいと思いましたね。

ちょうど同僚とノリで応募していたマラソン大会の出場権が当たったのを思い出し、完走して自分が頑張っている姿を見せれば、母が「私も頑張ろう」という気持ちになってくれると思いました。ほとんど運動経験のない私にとって、フルマラソンの完走は無謀とも思える挑戦です。母に話すと心配されましたが、走り切ったら抗がん剤治療を頑張ると約束してもらえました。

それから半年間、ゼロから一生懸命練習しました。最初は1キロも走れませんでしたが、何度も走るうちにだんだんと距離が伸びていきました。

そして迎えた本番当日。走りだしは順調でしたが、徐々に足が動かなくなり、30キロを超えたあたりから足が痙攣し、走れなくなりました。救護所の医師に見てもらうと「もう棄権した方がいい、このまま走り続けたら1カ月足が動けなくなるよ」と言われました。でもその時、「1カ月足が動かなくなるだけで母が頑張ってくれるならいいや」と思ったんです。

再び走りだし、最後は足を引きずりながら、なんとか根性でゴールまで走り切りました。

後日、家族全員を連れて、母に会いに行き、なんとか完走できたと報告に行きました。すごく喜んでくれて、僕もすごくうれしかったですね。

4カ月後、母は天国に旅立ちました。そのときの気持ちは、例えようもありません。死の瞬間、母の体はそこにあるのに、母の時間は消えてしまった感覚がありました。時間の流れが感じられるのは、生きてる人だけなんだと思いましたね。ある有名な医師の「命とは時間である」という言葉を思い出しました。時間を使うとは、命を使うこと。だとしたら私は、何に命を使うべきか。自分の使命を見つけて生きたいと思うようになりました。

片付けに目覚める


かっこいいパパプロジェクトを続ける中で家族の雰囲気はだいぶ良くなりましたが、1つ家庭内では解決できない問題がありました。それが片付けです。家族全員片付けが苦手で、部屋の中を片付けていないことが原因で、しょっちゅう喧嘩が起きていました。みんなセンスがないから無理だとあきらめていたところ、たまたま整理収納アドバイザーの資格を持つ高校の同級生の女性と話す機会があり、部屋を片付けに来てもらいました。

プロによる片付けが終わってきれいになった部屋を見て、すごく気持ちが前向きになったんです。部屋が片づいていないとイライラしがちだったのが、片付いてからは気持ちがすっきりし、家族のいざこざも少なくなりました。

また、「必要なものとそうでないもの」を分けるときに、自分の価値観も整理されていく感覚がありました。価値観が整理されると、物事の判断に迷いがなくなるので、時間を有意義に使えるようになると思いました。片付けをすると、人生も前向きになる。片付けの力は偉大だなと思いましたね。

その後、片付けについていろいろ調べていくと、片付けはセンスではなくスキルで上手くなるとわかったのです。それなら自分でもできるようになるかもしれないと思い、勉強した結果、資格を取ることができました。

資格取得後は、友人と同じように訪問サービスをやってみようとも思ったのですが、平日の需要が多く、サラリーマンとの両立は不可能でした。訪問サービスは他のアドバイザーにお任せして、自分は別のやり方で資格を活かそうと考えました。

そこで思いついたのは、自分が直接片付けるのではなく、片付けの大切さを伝える人になることでした。これまで何十年間もサラリーマンとして働いてきた経験を活かして、同じように働く人たちに届くPRができるのではないかと思いついたんです。そこで、ビジネスマンを対象とした片付けに関する講演活動を始めました。

それも単に片付けの仕方だけでなく、片付けをすれば価値観も整理されていることを伝えたいと思いました。価値観が整理されれば前向きになるだけでなく、自分の人生の使命も見つけやすくなると考えたのです。

講演を聞いた人が人生の使命を見つけ、それに向かって日々を大切に生きるようになれば、少しでも親孝行できる。父と母から学んだ「時間=命の大切さ」を伝えること。人々が使命を見つけるきっかけを与えることを、私の使命にしようと思いました。

片付けで、人生の使命を見つけるきっかけを


現在も電機メーカーで働く傍ら、平日夜や土日を中心に片付けをテーマにした講演活動を行っています。講演では、片付けをビジネスに絡ませて説明するなど、主な参加者であるビジネスマンに興味を持ってもらえるよう意識しています。

例えば、著名な経済学者の「経営の本質は選択と集中」という理論を引き合いに出します。実は片付けの本質も選択と集中なんです。選択と集中には、判断基準が必要です。片付けをすると、どれが必要でどれが不要か選ばなければいけないので、自分の判断基準が明確になります。私がおすすめする基準は「使用頻度」と「関心度(好き/嫌い)」ですが、アドバイザーによって基準はそれぞれですね。最初は片付けに苦手意識を持っていたビジネスマンも、片付けとビジネスの共通点を見つけることでやりがいを感じてくれます。

また、単に片付けのスキルや考え方を伝えるだけではなく、片付けを通して生き方そのものを良くできるのだと伝えています。

「必要なものとそうでないものを分ける」という片付けの基本を応用すると、人生で注力すべきこととそうでないものの軸も見えてくるんです。自分の好き嫌いや、どうありたいかが片付けを通して整理され、よりクリアになると思うのです。その結果、片付けが終わると同時に、人生の判断基準がシャープになり、自分の生き方や使命を見つけやすくなります。

今までいろいろな人に会ってきましたが、使命を持っている人ほど毎日ワクワク、幸せそうに生きています。だからこそ、片付けの講演を通じて、使命を見つけてワクワク生きる人を少しでも増やしていきたい。これが私の使命です。そして、これまで築いてきた人脈を活かし、使命を見つけた人のサポートもしていきたいですね。

2019.09.04

インタビュー・ライティング | 伊藤祐己
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