ゲームに関わる仕事を選んだ3人の人生まとめ

子どもの頃から大好きだったゲームに関わる仕事の道に進んだ人の人生を紹介します。








また、ちょうど、ピクサーを筆頭に、3DCGの映画がアメリカで流行っていたこともあり、
その影響をもろに受け、アニメや漫画に没頭するようになりました。
日本のコンテンツはアメリカでも非常に好まれており、自分自身、海外にいるからこそ、
日本のコンテンツを欲していましたね。

また3DCGの中でも、特に『トイ・ストーリー』を見た時に、

「何だこの世界観は!」

と、衝撃を受けたんですよね。
実写では出来ない表現で、子どもから大人まで感動するようなコンテンツを提供しており、
いつしか漠然と、こんなものを作れたら楽しいだろうな、と考えるようになったんです。

帰国後、4月からは写真広告の制作会社の営業職として働き始めました。
正直、最初は写真の撮影自体に慣れていなかったり、
周囲とのコミュニケーションにも気を使ったりと、諸々大変さを感じていたのですが、
以前から関心の強かった3DCGの部署に移動になってからは、どんどん仕事が楽しくなり、
心地よく働けるようになりました。

そんな風に、運営してみて見つかった課題に取り組んでいた折、
ご縁があり、セガネットワークス社の方と話す機会をいただいたんです。
そして、話をしていくうちに、僕たちがクラウドファンディングを通じて取り組もうとしていた課題に、
ゲーム業界としても同じように課題感を抱いていることが分かりました。

現在、ゲームにおいては、各ゲームのタイトルとユーザーのコミュニケーションが少なく、
1・2ヶ月遊んで飽きられてしまうような状況で、長く続くタイトルが生まれ辛い状況なんです。

そこで、資金を得るための手段としてだけでなく、
マーケティングやコミュニティを作る機能として、
様々なフェーズでクラウドファンディングを活用できるんじゃないかという話が生まれていきました。



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一方で、小学校ではゲームが大流行していましたが、
我が家では禁止されていたので、
代わりに姉のサブカルチャー漫画を盗み読みしたり、深夜ラジオを聞いたりしていました。

僕は小学生の弟と同じ部屋で寝ていて、夜になったら電気を消さなければならなかったので、
やむを得ず、イヤホンでラジオを聞きながら毎晩寝ていたのですが、
視覚を遮断して、耳からの情報だけで頭の中に像を浮かべることが楽しくなっていったんです。
例えば声や音だけを聞いて、声優さんの顔を想像したり、情景・像を鮮明にイメージしたりしていました。

そして、コンピューターのプログラムのバグを取り除く、
「デバッガー」のバイトが高給で募集されているのを見つけ、登録することにしたんです。

本来このデバッガーという仕事は、次の日どこの会社へ派遣されるかもわからないようなものなのですが、
初日に派遣されたゲーム会社で、たまたま気に入ってもらうことができ、
それからの4年間、その会社所属のように毎日働かせてもらいました。

それまでは、バイトをそこまで真剣に取り組んで来なかった分、
僕でもこんなに働けるんだと驚きましたし、
真面目に働いていたので、ゲーム業界のこともいろいろと知ることができましたね。

そしてその会社の面接を受けることになったのですが、
あまり会社のことをよくわからないまま面接を受けに行ってしまいました。

すると、オフィスに『桃色大戦ぱいろん』という、その会社で運営しているゲームの広告が貼ってあったんです。
僕の名前が「白川龍」で、中国語で白が「パイ」、「龍」が「ロン」なので、
それで運命を感じて、この会社で働くことに決心がつきました。

実際に働き始めてからは『桃色大戦ぱいろん』の運営の仕事を任されましたが、
最初は雑用のような仕事がほとんどでした。



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そんな中で、自然とゲームに興味を持つようになり、
『スーパーマリオブラザーズ』『燃えろ!!プロ野球』などのゲームで、
2つほど年上の従兄と一緒によく遊んでいました。

色々なゲームをやったのですが、
小学5年生の時に発売された『Mother2 ギーグの逆襲』というゲームには、
一番感銘を受けましたね。
人の目線にあった臨場感がたまらなくて、

「いいなー!将来僕もこんなゲームが作れるようになりたいな。」

とぼんやり考えるようになったんです。

入学した学校は工業高校で、その中でも情報技術科というところに進みました。
そこではプログラム言語の勉強や、ポケットコンピューターを使って簡単なゲームなどを作ったりもしました。

実際に自分で作ったものが動いたり、画面に文字が出てきたりした時は、とても感動しましたね。

「すげー!こんなんできるんや!!」

と思い、自分で何かを「作る」ということの楽しさを感じました。

そういった勉強を重ねていくうちに、幼いころの気持ちも相まって、
ゲーム関係の専門学校に行きたいと思うようになりました。


卒業後は、研修でお世話になったゲーム会社に誘っていただき、入社することになりました。

入社後はゲームの企画をするプランナーとして働くことになりました。

それまではプログラミングなどで「何かを動かす」ということはしてきましたが「何かを考える」という経験がなく、
最初は知らないことだらけで、とても大変でしたね。

ですが、仕事を続けていくうちに楽しさを知り、次第に企画だけではなく、
もっと全体に関わるディレクター職をやってみたいと思うようになり、
結果1年ほどで会社を辞めることになりました。



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2014.11.11