スポーツに関わる仕事をする3人の人生まとめ

昔からスポーツが好きで、プレイヤーとしての夢は諦めたものの、スポーツに関わる仕事を選んだ人たちを紹介します。

日本スポーツ振興センター勤務






生まれつき虚弱体質だったため、激しい運動をすることはできませんでした。

私とは違い真ん中の兄はスポーツが得意で、長距離走と水泳で県のトップになるほどでした。
兄のようになりたいと思い色々なスポーツに挑戦しましたが、
体が弱かったので無茶なことはできませんでしたね。

しかし、何度か手術などもし、小学校高学年になると、
徐々に体が強くなり、スポーツを全力でできるようになってきました。

そして中学生になり、兄を超えるために陸上を始めました。

大学院を卒業後、実業団チームとして陸上を続けられることになりました。

ただし、県がお金を出しているチームだったので、今までとは責任感が全く違いましたね。
とにかく、成果を出さなければと焦る気持ちもありました。

しかし、そんな成果を出したいと思っている「精神」と「身体」がリンクせず、
結果を出すことができませんでした。
こんな感覚は初めてでした。

プレッシャーが大きく、この頃は陸上が全く楽しいと思えず、
正直今までで一番つらい時期でした。
人のために頑張ることは好きなのですが、何かが違ったんです。
結局、2年で契約を打ち切られることになってしまいました。
これが選手としての引退でした。



陸上で全国大会を目指したように、働くからには一番高いレベルの場所で働きたいと思っていました。
しかし、自分には陸上しかなかったので、スポーツの仕事ではどんなものがあるか考えた時、
今働いている『日本スポーツ振興センター』のことを思い出しました。

一般的にはあまり知られていない組織ですが、国を挙げてスポーツを行う上で必要不可欠な組織なんです。
オリンピック関連にかかる業務を始め、オリンピック選手支援、地域スポーツや国のスポーツ環境整備など、
日本スポーツの支えとなっている機関で重要な役割を担っています。

東京に来て仕事が決まらない時期もあったのですが、今はここで働くことができています。
どうやってスポーツが国を動かしていくのか知れるので、非常に勉強になります。



横原和真さんのインタビュー全文はこちら

スポーツQ&Aサービス運営






中学に入ってからも、引き続き野球部に入りました。
あまり強い学校ではなかったのですが、自分たちの代は前後に比べると強い方で、
僕は4番センターを務めさせてもらっていました。

高校でももちろん野球に打ち込みました。
自分で言うのも恥ずかしいんですが、打撃が出来て、足が早くて、肩が強いということで、
周囲からは期待してもらっていたんですよね。

うちの学校的では例外的な扱いだったのですが、1年生のときからベンチ入りしており、
自分自身、周囲からの期待に応えて活躍したいと意気込んでいましたね。

ところが、高校2年の時に、怪我をしてしまったんです。

調子がよくない兆候を感じながらも、どうしていいか分からなかったですし、
「怪我をしている」と指導者に分かれば、使えないと思われてしまうような空気感がありました。

指導者の方は他の仕事を兼ねているので、専門的な知識がないのもしょうがないし、
やっぱりなんだかんだ、科学的でない根性論はあると思います。

そんな背景もあって、身体へのダメージは大きくなっていきました。

入社して6年目、20代最後の年というタイミングも重なり、僕は独立することを決めました。
一歩踏み出し、実際に挑戦しようという覚悟ができたんです。

起業を決めてからは、300個以上アイデアを考えました。
出してみて改めて気付くんですが、やっぱりスポーツのことばっかりなんですよ。

自分が愛せるもの以外、続けていくことはできないという思いもあり、
スポーツに関する課題を解決するようなサービスに決めるのに、時間はかかりませんでした。



小泉真也さんのインタビュー全文はこちら

スポーツプレイヤーのための情報プラットフォーム運営






僕は小学校4年生からサッカーのクラブチームに入り、学生時代のほとんどをチームでの活動に費やしていました。

もともとサッカーはなんとなく始めただけだったのですが、とにかくチームのことが好きだったので、
自分が練習を頑張ることで、チームに何かしらの貢献をしたい、という思いでやっていたんです。

自分が下手でいらいらしていた時に、監督をこれ以上ないほど激怒させてしまい、
合宿中にもかかわらず、一人だけ帰らされてしまうなどということもありましたが、
サッカーを辞めてしまいたいと思ったことは一度もなかったですね。

だから、とにかくクラブチームでの活動を優先するために、
中学も高校も部活には入りませんでした。

また、小学生のチームのコーチもやりながら、よりチームに深く関わる中で、
指導者として稼ぐことは難しいということや、
小学生たちが、サッカーについて知っていることはメディアで取り上げられた、有名選手の話ばかりで、
自分たちが今するべき練習方法など、肝心な情報を知ることができてないということなど、
スポーツの世界の課題もたくさん知るようになりましたね。

そのため、それだけ深くチームに関わり、キャプテンまで務めたものの、
現実的に自分を見つめていたので、プロになろうとは思わなかったんですよね。

また、20歳でサッカーを辞めようということも、いつしか自分の中で決めていました。
なんだか、サッカーだけをやっていると視野が狭くて、
周りのことを何も知らない人になってしまうという危機感があったんですよね。


ところが、入社1年目の夏頃に、大学時代に一緒に事業をやっていた友人から、
もう一度、世界基準を作れる何かをやらないかと誘われたんです。
この時は、さすがに入社して間もなかったので、少しだけ考えました。

しかし、自分の中で学生時代から変わらず、「スポーツを通して人を幸せにする」というミッションがあり、
サッカーのクラブチーム時代から、プレーヤーたちが知るべきことを知れていないということなど、
スポーツの分野で解決すべきことはたくさんあると感じていたので、
やりたいことと、一緒にやっていきたい仲間がいるならば、挑戦してみるべきだと思ったんです。



尾形太陽さんのインタビュー全文はこちら

2014.11.10