スポーツに力注ぎ、その後の道を選んだ人の人生まとめ

一時期はスポーツに熱中し、プロを目指していたところからやりきり、スポーツ以外の道で活躍する人の人生をご紹介します。







高校卒業後、一旦フリーターになりました。
フリーターとはいえ、生きていくのに必要だと思った3万円/月だけ日雇いのバイトで稼ぎ、
あとは全て野球をしていました。
練習場までの交通費が1万円、クラブチームの部費が1万円、食費が1万円という内訳です。

しばらくその生活を続け、もっとちゃんと練習をしたいと考え、
知り合いから紹介された、スポーツの専門学校に進学しました。
専門時代も、寮の家賃を払うためのアルバイト以外は、全て練習に打ち込みました。
優先順位は、いつも野球が一番でした。

19歳の僕は、アリゾナという名前の異国の地で、
「野球バカ」を全うするための挑戦をしました。

任された1イニングを、僕はノーヒットで抑えたんですよ。

変化球とコントロールが通用したんです。
190cmを超える選手をアウトに打ち取りました。
僕の球が打てず、地面にバットを叩き付けて悔しがる選手もいました。

バカみたいに練習した、自分の持ち味が詰まったピッチングでした。

それでも、試合終了後、僕のもとに声をかけるスカウトはいませんでした。

「これだけやって無理なら、もう無理だよね」と思える、完全燃焼でした。


僕はなぜ野球をやっていたのだろう?
何よりも大切にしていた野球を通じて、何を目指していたのだろう?
そんなことを改めて考えてみたんですよ。
そうしたら、僕はもう既に答えを持っている事に気付きました。

僕が野球をやるのは、みんなを喜ばせるためだったんです。

小学生の時のソフトボール大会、僕が初めて野球をやった日、
僕がランニングホームランを打ったときのみんなの顔が、
今も強烈に焼き付いているんです。



遠藤 大次郎さんのインタビュー全文はこちら







高校を卒業したらアメリカの大学に行き、
スポーツ経営学を勉強ながらテニスを続けようと考えていました。

テニス界では
「日本人選手はテクニックはあるけれど強くない、スタンダードにはなれない」と言われていて、
その常識を覆して向こうのやり方でも認められて、
かつ日本のスタイルを浸透させたいと思ったので、 最初から世界で勝負しようと思っていました。

高校卒業後、1年間は英語の勉強をしながら渡米資金を貯めようと思い、
少し時間に余裕のある時期だったのですが、
たまたまテレビで放送していたカーレースが目に入ったんです。

ちょうどそれと同じ時期にレーシングカーを体験できるイベントがあったので、遊びに行ってみました。

当時、教習所に通い始めたばかりで、レース場で初めてマニュアル車を運転してみたんです。
何だかすごく面白くて、まるで新しいおもちゃを見つけたような感覚でした。

実はその体験イベントがレーサーの一次選考会も兼ねていて、
なんとその選考に受かってしまい、面接をすることになりました。




川島 一也さんのインタビュー全文はこちら







小中学校では強豪野球部に所属しており、全国大会で優勝という成績を収めました。
中学時代はキャプテンも務めていました。
高校で所属していたアメリカンフットボール部でも、
全国大会で2位になりました。
大学時代は、ボート部で、再び全国制覇を成し遂げる事が出来ました。

文字面だけみれば輝かしいですが、
私は、スポーツ選手としては1.5流、いや、2流以下だったと思います。
選手としての素質に、限界を感じる事もありましたし、怪我にも苦しみました。
一つ一つの経験はとても貴重で、今の自分を形成する大きな糧になっていますが、
今思えば、勢いで入部して「優勝」のために何も考えずに厳しい練習を続けきたともいえます。
自分の限界を感じていたにもかかわらず、「辞めてはいけない」と思い込み、
辞める勇気も無く、決断できないだけだったのかもしれません。

そんな折、ご縁があり拾ってもらったのが、企業風土改革コンサルファームでした。
そこでは、まさに私が悩んでいた課題を解決するためのコンサルティングを行っていました。
働く人が、会社の中でどう生きていくかを問い続けながら、会社を変革する仕事です。

「何のために働くのか?」

お客様との対話の中で問うていた質問を、
同時に、自分自身にも投げかけていることに気付きました。



與良 昌浩さんのインタビュー全文はこちら

2014.10.12