自分のためだけでなく、観てくれる人のために。逃げてもいい、より良く生きるアクションを。

現在、フリーの俳優として多数の舞台や映画に出演し、活躍されている鹿野さん。一時期は俳優をしていていいのだろうかと悩む「暗黒期」があったと言います。そんな鹿野さんが現在のように精力的に活動されるようになるまでには、どのような背景があったのでしょうか。お話を伺いました。
キッカケは不純な動機から・・・
僕は宮城県の東松島市というところで生まれ育ちました。
海と山に囲まれた田舎町です。
幼い頃は、友達と遊ぶより1人で遊ぶことの方が好きで、
決して孤独であるというわけではなかったのですが、
自分の世界の中に入り込むのが好きな子供でした。
しかし、小学校に入ってからの夢はプロ野球選手になること。
少年野球のチームに入り、高校卒業まで続けました。
中学3年の時だったでしょうか、僕には好きな女の子がいたんですが、面と向かって告白する勇気がなくて。
そこで思いついたのが、その子への思いを脚本に込めて舞台にして学校の文化祭で発表してしまえと。
ちなみにタイトルは『僕等が出会った夏』(笑)
自分で脚本を書いて、一緒に舞台をしてくれる仲間を集めました。演出もしました。
高校受験のための大事な夏休みを全て演劇に使ってしまったんです。
そして文化祭当日。
予想外の拍手の多さの中、舞台は終了しました。
メンバーの中には達成感で泣いている女の子もいて。
まさか、好きな子のために舞台化したなんて言えませんでしたけど(笑)
でも、みんなと一つの作品をカタチに出来た時、純粋に演劇って楽しいもんだなあって思ったんです。
好きな子に好きと言えない少年の不純な動機は、秋の空どこか遠くの方に消えて行きました(笑)
それから将来も演劇に携わることができたらいいなと思うようになりました。
高校に進学し、卒業後の進路を考える時には、演出をやりたいと、
主に監督を養成するコースのある学校をいくつか受験したんです。
オーストラリアでの偶然の出会い
ところが、受験は失敗。翌年も挑戦しましたが、また失敗。
この時は、世の中から放り出されたような感覚でした。
そんな時、たまたま通っていた美容室の方から、ワーキングホリデーの話を聞いて、
とにかく現状から脱したいという思いで参加したんです。
オーストラリアに行ってからは、北はケアンズから南はタスマニアまでいろいろな土地を旅して周りました。
見るもの聞くもの、自分が感じること全てが新鮮でした。
旅を始めて半年が経った頃、ケアンズのお土産屋さんでアルバイトを始めたんです。
アルバイト初日、たまたま日本人の方が来店されて、ドラマの撮影で現地に来ている方だとわかりました。
僕が映像や演劇に興味があると話してみると、じゃあ明日から手伝いに来なよ、と言ってくださったんです。
早速、次の日から現場に参加。
二十歳の旅人がいきなりプロの現場に入っちゃったっていう。(笑)
現地人のエキストラを集めたり、俳優部の運転手をしたり、照明部や美術部などの仕事を手伝わせてもらいました。
現場のみなさんにはとても親切にして頂き、いろいろなことを教えて頂きました。
俳優以外の仕事も経験させていただいたことで、
みんなで作品を作っていく、という僕の中での大切なスタンスが出来たんです。
翌月の撮影にも同じように参加させてもらい、やはり物語を作る仕事をしたいなと改めて感じました。
撮影も終盤の頃、関係者の方に、本気で芝居をやっていきたいなら日本に戻ってくるべきだと言われ、現地での撮影終了と同時に帰国しました。
帰国後は上京し、その方に紹介して頂いた映画監督のもと、俳優としての活動を始めました。
監督には、本当にお世話になりました。
芝居だけでなく人として様々なことを学ばせて頂き、時には叱られることがありつつも、
お芝居とはこんなに楽しいものなのだと伝えて頂きました。
僕の恩師の一人です。
恩師の死、そして東日本大震災
ところが監督のレッスンを受け始めて6年程経った頃、
尊敬し慕っていた監督が亡くなりました。
本当に大きなショックを受けました。
自分が拠り所としてきた方が亡くなり、これからどうすればいいのかわからなくなりました。
それからしばらく主だった作品にも出演せず、アルバイト三昧の生活を送っていました。
自分の心にぽっかり穴が開いたようで。
どこかで、今までのようにものづくりがしたい、
けれど、このままの自分でいいのかと悶々とする日々で、
俳優を辞めてしまおうかとまで考えました。
しかし、持つべきものは友達で、そんな僕を見かねた俳優仲間が舞台への出演を誘ってくれたんです。
自分はやっぱり芝居をやっていきたい、もう一度俳優として頑張っていこうと、段々とまた前を向き始めるようになりました。
久しぶりのお芝居に心が踊りました。まるで、中学生のあの時のようでした。
そんな矢先、東日本大震災が起きたんです。
自分の出身地である宮城県も大きな被害を受けました。
こんな状況下で舞台をしている場合ではない、降板しよう、そうも考えました。
しかし、被災した妹に、それよりも僕が舞台に立つ方が両親もきっと喜ぶと言われたんです。
そして、僕は5年ぶりに舞台に出演しました。
きっと、それまでの僕は自分のためだけに芝居をしていたんだと思います。
しかし、それからは観てくれる人のために芝居をしようと思いました。
もし僕が人に知れている俳優だったら、あの時もっと何か出来たのかもしれない。
影響力を持つこと、知れるようになることも必要だと考えるようになりました。
逃げた先にあったもの
その後は、精力的に舞台に立つようになりました。
人々に何かを訴えかけるようなメッセージ性の強いお芝居への出演に加え、
人に笑わってもらえるような温かみのあるお芝居もしたいと考えるようになり、
人情喜劇もやっていこうと活動の場を広げています。
また、舞台の稽古と並行して、映画や他の映像作品への出演などもさせて頂いています。
一つ一つカタチにしていくこと、とにかく、目の前の作品に真摯に取り組むだけです。
僕は、今までの人生で、目の前のことから逃げてしまったことが何度かありました。
好きな子に面と向かって告白すること、大学受験に失敗してオーストラリアに行ったこと。
だけど、もしそのような行動を起こさなかったら、今こうして俳優をやっていないわけで、目の前のことで潰れてしまうくらいなら、むしろ逃げてしまった方が良いのかもしれない。
それは、変化し、より良く生きるためのアクションなのだと、今なら思えるからです。
また僕の中で、気づけばいつからか「より良く生きる」というテーマがあり、
そのカギとなるのが「旅」に出ることのような気がしているんです。
自分の生活圏から飛び出して旅をすることで、
知らない土地、ノイズの少ない環境で、僕は透明人間のようになってみるんです。
僕は現地の人を知らないし、現地の人もまた僕を知らない。目の前で起こっている出来事にナチュラルに反応すればいい。
旅という非日常的な環境から、日常生活ではいい加減にしてしまっているかもしれない感触を一つ一つ感じていくことが大切なのかと。
とにかく、変化を楽しむ。瞬間を楽しむ。自分の感受性に溜まったアカをどんどん落としていく。
そして、瞬間瞬間の意思決定をしていくこと。それは、きっと日常生活にも活かされると思うんです。
それが多分、より良く生きることのヒントなのかなと今は思います。
僕は役を通してフィクションの世界で、誰かの人生を生きるわけですが、
それによって観てくれた人が、それぞれの人生をより良く生きるキッカケになってくれたとしたら、ちょっと素敵なことかなぁなんて…。
それが僕にとっての俳優という職業なんです。
2014.11.26