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ライオンケミカル 田中源悟社長の波乱万丈の経営人生。社員一人ひとりが“店主”となる「にぎわいある企業」へ

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「会社はショッピングモールのようなもの。社員一人ひとりが“店主”として、自分の役割に責任と誇りを持って働ける場所にしたい」 これは、私が経営において最も大切にしている信念であり、日々社員たちに伝え続けている言葉です。

田中 源悟

たなか もとのり|ライオンケミカル株式会社 代表取締役

1967年5月26日生まれ。和歌山県立耐久高等学校、日本大学法学部を卒業後、1990年に米国のインターステートパッケージングコーポに入社。帰国後の1994年に株式会社リベロに入社し、1995年に代表取締役社長に就任。1999年、ライオンケミカル株式会社に取締役営業部長として参画し、2003年に取締役専務、2008年に代表取締役社長に就任。現在は株式会社三和の代表取締役として、グループ企業数社を牽引する。

私は現在、和歌山県有田市にある「ライオンケミカル株式会社」の代表取締役を務めています。当社は1885年(明治18年)に創業し、除虫菊を原料としたノミ取り粉の製造から始まりました。

現在私たちが当たり前のように使っている「巴型渦巻き」の蚊取り線香の形状や、その自動製造機を世界で初めて発明したのも当社です。当時、製造方法と機械の特許を取得しましたが、「業界発展のため」とその技術を公開しました。社会のために有益なものを優先するその精神は、創業141年を迎える今も脈々と受け継がれています。

現在は、「燃焼後も効果が持続する」新しい蚊取り線香をはじめ、入浴剤や洗浄剤、ペット関連商品など約1,500アイテムをすべて自社工場で製造し、事業規模を拡大してきました。 中でも当社の主力である蚊取り線香には、長年の研究と技術が詰まっています。

従来の蚊取り線香は火が消えたら効力がなくなるとされていましたが、弊社の『ライオンかとりせんこう』は、室内に限りますが燃焼完了後も約3時間効果が持続します。また、『ライオンかとりせんこうプレミアム厚太』は、厚生労働省が初めて屋外使用を認めた蚊取り線香としても注目され、アウトドア需要の開拓にもつながりました。

こうした開発の背景にあるのは、「安全性と利便性の両立」です。私たちは“より安全に、より効果的に、より便利に”というテーマのもと、いち早く新薬剤を使用した製品を開発し、その安全性をパッケージに明示してきました。今でこそ業界全体に広がりつつある動きですが、当時は異例の取り組みでした。

そう、本当に、今でこそ、このような歴史ある企業のトップとして、社員とともに誇りを持って働いていますが、私の半生は決して順風満帆なものではありませんでした。異国での下積み、帰国後の困難の連続、そして会社の再建。それらの数え切れないほどの苦難と泥臭い経験を乗り越え、私が辿り着いた「人を活かし、相手を生かす経営」についてお話ししたいと思います。

車の運転より先に覚えたフォークリフトと、二度目の大学受験

田中 源悟さん

私の出身は、ライオンケミカルの本社がある和歌山県有田市です。実家は元々、蚊取り線香の原材料である木の粉を扱っていて、父親の代で線香自体の製造を始めました。一方、母は日本で初めて羊羹を作ったと言われる「総本家駿河屋」の店を営んでいました。

祖父が明治生まれの非常に厳しい人で、私は幼稚園の頃から、貨車で運ばれてきた30キロもある荷物を引っ張り出して運ぶのが日課でした。休みの日も関係なく配達の手伝いに駆り出され、「なんでうちはこんなに貧乏なんやろ。3日連続で遊びに行ったら怒られるってどういうことや」と子ども心に不満を抱えながら、早く仕事を終わらせるために真っ黒になって働いていましたよ。

そのおかげで、中学生になる頃には全校で見てもかなりの腕力の持ち主になっていました。そして、何より私を夢中にさせたのが「フォークリフト」です。「世の中にはなんて便利な乗り物があるんや!」と感動し、実家の工場の敷地内で荷物運びをするために、車の運転免許を取るよりもずっと前にフォークリフトの運転をマスターしてしまいました。

この時培ったフォークリフトの操縦技術が、まさか後年、遠く離れた異国の地で私の運命を切り開く強力な武器になるとは、その時は夢にも思いませんでした(笑)。

大学に入学したあと、諸事情で退学してしまい、しばらくはパチンコに明け暮れていました。来る日も来る日もパチンコ台に向かいながら、「俺、このままでほんまにええんか」と自問自答を繰り返し、再び大学入試にチャレンジし、2つ目の大学に合格することができました。

大学時代も、港湾労働者やバーテンダーなど色々なアルバイトをして、多様な現場で社会の裏表を肌で感じながら過ごしていましたね。 そんな泥臭くもエネルギーを持て余した青春時代を過ごしていた私に、突然の転機が訪れます。親父からの「アメリカで働いてこい」という強引な命令でした。

ニューヨークでの挑戦。実力で信頼を勝ち取った日々

田中 源悟さん

バブル崩壊の足音が聞こえ始めた頃、親父が投資していたアメリカの会社で働くよう言われました。「英語も喋れないし、海外志向なんて微塵もないから嫌だ」と断ったんですが、いろいろ紆余曲折あって、1年だけという約束で海を渡ることになったんです。

最初はコロラドに行きましたが、そこで働くことに意味を見出せず、ツテを頼ってボロ車に荷物を積み込み、2日半かけてニューヨークへ向かいました。そこで出会った、後の有名スポーツ用品店の創業に関わったすごい経営者の方の元で働くことになりました。

そこで、少年時代に培ったあの「フォークリフトの腕」が大いに役立つことになります。現地の屈強な作業員たちが半日かけてコンテナ1本を下ろしてヒーヒー言っている横で、私はその倍のスピード、半日で2本のコンテナを軽々とさばいてみせたんです。

そこから実力を認められて、マンハッタンでショッピングバッグの営業という表舞台の仕事を任されるようになりました。 生き馬の目を抜くアメリカ社会で、「自分をごまかさず、実力で結果を出す」ことの重要性を骨の髄まで叩き込まれましたね。

ゼロからのPB事業。非効率な商品が生む「強烈なファン」

アメリカで自分の力で飯が食えるようになった頃、親父から呼び戻されます。自信を胸に1994年に帰国した私を待っていたのは、困難の連続でした。

下請け体質から脱却するため株式会社リベロに入社し、翌1995年には代表取締役社長に就任して新体制をスタートさせました。

しかし、今まで流通業相手にまともに商売していなかったり、教えてもらう上司や先輩がいないなど、何もないところからのスタートだったので、自分で営業したあと和歌山の工場に戻って製造を手伝ったり多忙の日々がつづきました。そんな中、業界のしがらみを知らなかったことが幸いして、当時台頭しはじめていたドラッグストアのPB商品に目をつけたのです。

展示会では、「週に1個しか売れないような非効率な商品でも、それを探しているお客様は必ずお店のファンになってくれる。そういう商品も大切なんです」と訴えました。少しずつ売上ができていきました。給料もろくに出せない時期でしたが、「面白そうだから」とついてきてくれた創業メンバーのおかげで、数年で数十億の売上を作るまでに成長しました。

リベロを軌道に乗せた頃、私の人生を決定づける大きな出来事が起こります。それが、現在のライオンケミカルとの関わりでした。

会社再建への覚悟。利益を会社と社員の未来に投資する経営

当時、アメリカのジョンソン社が国内製造から撤退する方針を打ち出し、傘下にあったライオンケミカル(当時のジョンソンケミカル)を売却・解散する話が出ました。そこで、歴史ある企業の火を消さないために地元企業であるウチが買い取ることになったのです。私は取締役営業部長として参画しました。

売上が減少した会社をどうするか。私は流通相手の売り上げの一部をライオンケミカルに渡し、私の販売会社の営業マンをライオンケミカルの正社員として雇い入れました。歴史あるライオンケミカルには何十年も培われた福利厚生や退職金制度がありましたから、社員の未来を守るためにどうしても必要だったんです。

当時のライオンケミカルは使える設備がほとんどない状態でしたが、昔から工場を見てきたアイデアを活かし、地元の鉄工所と協力して独自の機械を作りました。「内部留保は持たない」と決め、出た利益の大半を会社再建のための投資に回しました。

当社はこれまでに、大小合わせて24棟もの新しい建屋を建て、次々と設備を更新してきました。想定していた売上の3倍以上に成長したのだから、投資額も3倍になるのは当然です。

利益が出たら出た分だけ、会社の未来と社員の働きやすさのために大半を突っ込んでしまう。自分たちで稼いだお金を自分たちの未来に投資する。その姿勢こそが、2008年に私が代表取締役社長に就任して以来変わらないライオンケミカルの強みだと思っています。

相手を生かすM&A。「一部の株式は、社長の退職金や」

現在、私たちは同業他社や地域の運送会社など、後継者不在や経営難に陥った企業の救済(M&A)も行っています。「地域の価値あるものを次の世代に残す」ことが、我々の使命だと考えているからです。

私たちがM&Aをする時、一般的な経営者のように株式を100%買い上げて完全支配するようなことは基本的にしません。対象企業の社長には「一部の株式はあなたが持っておきなさい」と提案します。なぜなら、今は経営難で二束三文の株でも、みんなで踏ん張って会社を黒字化できれば必ず価値が出るからです。それが「あなたの退職金になるし、これからのやりがいになるやろ」と。

縁あった会社や人を、決して見捨てない。その根底にあるのは、私が幼い頃から背中を見て学んだ、とてもシンプルな人間としての哲学です。

「もっと頑張れ」ではなく「もう一踏ん張りやで」。社員一人ひとりが店主の会社へ

私の経営哲学は、幼稚園の頃に教わった「嘘をつかない」「人の嫌がることをしない」という極めてシンプルなものです。会社に厳しいノルマはありません。その代わり「家族に胸を張れる仕事をしよう」と伝えています。人間というのは、根本は変わりません。大切なのは「伝え方」です。

例えば、部下に「もっと頑張れ」と言うのと、「ようやったな、もう一踏ん張りやで」と言うのとでは、受け取る側の気持ちが全く違うでしょう。前者は自己否定に繋がりますが、後者は「よし、やってやろう」という前向きな力が湧いてきます。相手の特性を見て、どう言葉をかければその人の心に火がつくのか。人間力を高めることこそが、経営の要です。

会社とはショッピングモールのようなもので、社員一人ひとりがテナントのオーナーのように、自分の役割に責任と誇りを持って働く「にぎわい」のことだと考えています 。 にぎわいのあるショッピングモールには、色々な個性を持った店が集まっています。

会社も同じで、多種多様なバックグラウンドやスキルを持った人材が、それぞれに合った舞台で力を発揮することで活気が生まれます 。私は社員に「店主たれ」とよく言うのですが、それは指示を待つのではなく、自ら考え、行動し、その結果得られるやりがいや喜びを自分のものにしてほしいからです。

いずれは、今最前線で頑張ってくれている社員たちに会社を譲り、自分は一歩引いたオーナーとして彼らを支える立場になりたい。それこそが、私が次の世代に残したいライオンケミカルの姿です。