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1万円の鉄を100万円の価値に変える魔法。日本のモノづくりの再興と、国境を越える仲間たちへ

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「1万円の鉄の塊を、100万円にも1000万円にもできる。それがモノづくりの、そして製造業の一番の魅力だ」

これは、僕が師匠と呼ぶ人から教わった言葉であり、今でも強く胸に刻んでいる揺るぎない事実です。

茂呂 哲也

もろ てつや|株式会社茂呂製作所 代表取締役社長

僕は現在、山梨県で「株式会社茂呂製作所」という会社の代表取締役社長を務めています。私たちの会社には、大きく分けて3つの事業の柱があります。

1つ目は、モノを正確に加工するための「治具(じぐ)」などの製作。これが売上の約40%を占めています。

2つ目は、ありとあらゆる機械の「修理・保全」。海外製の古い機械など、他社が嫌がるような難しい修理にも対応できるのがうちの強みです。

そして3つ目が、産業用ロボットや協働ロボットを用いた「自動化(FA化)」。人手不足が深刻な製造業界において、人に代わるシステムを構築する事業です。

今でこそ、会社のトップとして日本のモノづくりに誇りを持ち、油の匂いと機械の駆動音に囲まれるこの泥臭い現場を心から愛していますが、若い頃の僕は、エネルギーの使い道がわからず、すべてが中途半端な人間でした。

大嫌いだった父との対話、社長就任直後の資金繰りの危機、そして下請けとして感じ続けた製造業の違和感。それらを乗り越え、僕が「愛すべき仲間たち」とともに思い描く、ワクワクするような未来についてお話しします。

居場所を探して、夜の街を彷徨った青年時代

茂呂 哲也さん

子どもの頃の僕は、親の敷いたレールの上を歩かされていました。 父は町工場の社長として必死に働いていて、家にいることはほとんどありません。一方、母は僕に習字、剣道、ピアノと、あらゆることを熱心に勧めてきました。

本当は全部嫌だったんです。小学校5年生の時、「親に逆らってもいいんだ」と気づき、すべての習い事を一気に辞めました。

そこからは浮き沈み激しく、ガキ大将気質だったのですが、とあることから、いじめっ子からいじめられっ子へと転落してしまいました。まさにブーメランです。そしていじめから逃げるために、少しヤンチャな仲間たちとつるむようになります。

当時の山梨のような地方都市では、エネルギーを持て余した若者たちが夜の街に集まり、仲間とバイクを走らせて刺激を求めるのは、ある種よくある光景でもありました。僕もご多分に漏れず、そんなふうにして自分の居場所を探していた時期があります。

でも、根が臆病なのか、決定的な一線は越えませんでした。不良になりきれない、ある意味で「中途半端なヤンチャ」だったんです。結局、本当の意味で心を許せる純粋な友達なんていなくて、いつも心のどこかで孤独を感じていました。

学校にも行きたくなくなり、父に「辞めたい」と言ったら「辞めりゃいいじゃん」とあっさり言われ、高校はすぐに中退しました。鉄の匂いが染み付いた作業着で帰ってくる親父のことも大嫌いで、実家には僕の居場所なんてなかったと決めつけていたのです。

虚しさの中で見つけた「家族」という原動力

高校を中退した後も、フラフラと生きていました。18、19歳の頃、銀座でナンバーワンになったという女性が山梨に帰ってきてお店を開くことになり、そこで少し働かせてもらうことになりました。

バブルの余韻もあったのか、一晩で何万円ものチップをもらえるような世界でした。可愛がってはもらえましたが、どこか「金を持った大人たちに都合よく扱われている」という虚しさも感じていました。「画面の中の数字だけが動くような、こんな浮ついた生活、長くは続くわけがない」と。

そんな僕の心の中にあったのは、「早く温かい家庭を作りたい」という思いでした。実家で得られなかったものを求めていたんだと思います。そして20歳の時、結婚して子どもを授かりました。

「家族を養うために、地に足をつけてちゃんと働かなければいけない」。そう思った僕は、父のツテで松下(現パナソニック)系の工場に入り、働き始めました。手取り十数万円でアパートを借り、毎日決まった時間に起きて工場へ行く。意外なことに、僕はその「真面目なサラリーマン生活」にスッと順応することができたんです。そこで初めて、モノづくりの基礎の基礎に触れた気がします。

親父との対話。不器用な職人の愛情に気づいた日

その後、紆余曲折を経て、僕は父の会社である「茂呂製作所」に入社することになります。 当時の会社は、父と専務、経理という歪な体制で、専務たちが会社を食い物にしているようなおかしな動きがありました。僕は父に直訴し、大揉めの末にその2人を辞めさせました。

しかし、父との関係がすぐに良くなったわけではありません。相変わらず会話はなく、父は「会社なんて継がなくていい」と言い、僕も「こんな油まみれの会社、絶対に継ぎたくない」と反発していました。

転機が訪れたのは30歳になった頃です。「ただ待っているだけの仕事じゃダメだ。俺が営業して仕事を広げる」と宣言し、自ら外に出て仕事を取ってくるようになりました。お客様の現場に足を運び、機械の不調に悩む声を聞くうちに、「俺たちの作っている治具や修理技術が、この巨大な工場を動かし、社会を支えているんだ」という実感が湧いてきました。結果的に営業は当たり、少しずつ会社の業績は上向いていきました。

そして35歳の時、知人に誘われて参加した自己啓発系のセミナーで、講師から「とにかく親の話を一度でいいから真剣に聞いてみろ」と強く言われました。反発しながらも、僕は腹を括って父に向き合いました。

「なんで俺に継がなくていいって言ってたの?」

すると父は、ぽつりと言いました。 「お前は長男だけど……俺と同じようなしんどい苦労はさせたくなかったから、『継ぐな』と言ってたんだよ」 頭を殴られたような衝撃でした。周りの経営者仲間には「息子が会社に入ってくれて嬉しい」と漏らしていたのに、僕には苦労を見せまいと突き放すような態度をとっていた。不器用すぎる職人としての父の愛情に初めて触れ、僕の中で何かのスイッチが完全に切り替わりました。

社長就任の洗礼と、見えてきた製造業の課題

茂呂 哲也さん

40歳になり、僕は代表取締役に就任しました。しかし、社長の椅子に座った直後、とんでもない洗礼を受けます。父が出張に行った直後、事務員が駆け込んできて「社長、支払いができません」と。入金と支払いのズレで、いきなり資金繰りがショートしかけたんです。

「親父は、この背筋の凍るような重圧をずっと一人で背負いながら、あの機械に向かっていたのか」。経営者としての孤独と責任を、身をもって知りました。

経営者として業界を見渡すと、色々な課題が見えてきます。 例えば機械の修理事業。利益率は良いのですが、機械が壊れるまで放置し、深夜や休日に「ラインが止まったから今すぐ直せ」と呼び出されるような働き方は、社員を激しく疲弊させます。1回の緊急修理で稼げるお金は大きくても、そんなその場しのぎの働き方では若手は定着しません。

だからこそ僕は、壊れてから直すのではなく、壊れないようにする「予防保全」へと舵を切り、人手不足の現場には僕たちが得意とするロボットを使った「自動化(FA化)」を提案するようになりました。 目先の利益ではなく、日本のモノづくりを根底から支える社員たちが、安心して長く働ける環境を作ることが、社長としての僕の最大の使命だからです。

国境を越える仲間と、AI時代の「人間の真の価値」

僕には今、血の繋がった家族だけでなく、一緒に会社を支えてくれる愛すべき「仲間」たちがいます。その絆は、日本国内にとどまりません。

茂呂製作所には現在、ベトナム、タイ、ミャンマーなどから来てくれた外国人スタッフがいます。僕は彼らを、単なる安価な労働力だなんて思ったことは一度もありません。 真面目に技術を身につけたベトナム人の社員は、母国に帰って見事に自分の会社を立ち上げました。

今いるミャンマー人の子に対しても、「母国の情勢が落ち着いたら、俺が投資するから向こうで会社をやれ」と本気で話しています。 また、「日本の高度な技術をすべて学びたい」と、インドネシアの社長の息子がわざわざうちに修行に来たりもしています。

1万円の鉄を100万円に変える日本のモノづくりの技術と情熱は、国境を越えて、彼らの人生すらも豊かに変えていく力があるんです。

世間では、「AIに仕事が奪われる」と悲観する声がよく聞こえてきます。ITの世界では、プログラムを作る仕事があっという間に置き換わっているかもしれません。画面の中で絵(図面)を描くだけなら、AIの方が早くて正確でしょう。 将来、さらに技術が進んで「AIが自ら考えて、ロボットがロボットを作る時代」が来るのも間違いないと思っています。

でも、僕はあまり恐れていません。なぜなら、そのロボットが組み上がった後、最後に後ろへ回ってコンセントを挿すのは誰ですか? 現場で予期せぬ故障が起きた時、油にまみれて直すのは誰ですか? それは絶対に、体温を持った泥臭い人間にしかできないんです。

どれだけデジタルが発達しても、この現実世界で目に見える『実物』は必ず誰かが、その手で作らなければならない。画面の中だけで仕事は完結しません。僕たちの仕事は、いつの時代も絶対に無くなりません。むしろ、人間がやらなくてもいい計算などはAIに任せ、人間は「1万円の鉄を100万円にする」ためのクリエイティブな思考や、現場での血の通った対話に時間を使うべきなんです。

会社の垣根を越え、日本のモノづくりを世界へ

僕の根底には「一緒にモノづくりをして、世界に売り出していきたい」という強い思いがあります。

日本には、素晴らしい品質を生み出す力があります。しかし、茂呂製作所という一つの町工場だけでは、持っている技術や量、質にどうしても限界がある。 だからこそ、これからは会社の垣根なんて関係なく、優れたアイデアを持つ人、売る力を持つ人、そして志を同じくするフリーランスの設計士や他社と、どんどん繋がっていきたいんです。

「こんなアイデアがあるんだけど」と相談されれば、「じゃあ、うちは作るよ」と手を挙げる。足りない技術があれば、それができる別の仲間を呼んでくる。そうやって一つの大きな「ギルド」のようなチームを組んで、日本の質の高いモノづくりをダイレクトに世界へ届けていく。

過去を振り返れば、自分勝手で、謝りたい人もたくさんいるような不器用な人生でした。でも、親父が遺してくれたこの茂呂製作所という場所で、鉄と油の匂いとともに、僕は自分の足で立ち、仲間と生きる覚悟を決めることができました。

かつて僕は、「親父の会社なんか絶対に継ぎたくない」と強く反発していました。でも今は違います。最高の仲間たちと一緒に会社の企業価値をどんどん高めていき、いつの日か、僕に関係する人や子どもたちが「この会社で働きたい」「この会社を継ぎたい」と自然に思えるような、誇り高い場所にしたい。それが今の僕の密かな夢です。

これからも僕は、肩書きや国境を越えた愛すべき仲間たちと一緒にスクラムを組み、泥臭くも美しい日本のモノづくりの底力を、世界中に証明し続けていきます。