私は福島県塙町に生まれ育ちました。小さい頃から、漠然と公の役に立つ仕事ができたらという思いがあり、中学・高校と進学するに連れ、将来は皆のために働く公務員になりたいと考えるようになりました。

高校を卒業後は、東京の公務員試験と地元の町役場の試験に両方合格することが出来、地元に残って働こうという思いから、塙町役場への就職を決めました。とはいえ、地元の町に対して強い思い入れがあった訳でもありませんでしたね。

働き始めてからは、町の経理業務に携わったり補助金を申請したりと、いわゆる公務員的な業務に就きました。ただ、途中からは結婚をして子育ても並立するようになり、かなり忙しくなっていきました。あまり周りに目を向ける余裕も無く、忙殺されて毎年同じ業務を淡々とこなすような感覚でした。

ところが、子育ても一段落着き30歳になると、少しずつ気持ちに変化が現れるようになったんです。子ども達が暮らすのであれば、「塙町はこんな町だ」と語れる町にしたいと感じたんですよね。正直、あまり明確に語れるものが無いからこそ、何か町の人が誇りに思うものを作って発信したいと考えるようになり、スイッチが入った感覚がありました。

そして、たまたま町の広報担当になったことも重なり、町で発行していた広報誌の制作に力を入れるようになりました。町のPRはもちろん、町民に対する問題提起を誌面にすることで、町の方向性を作っていくことが出切るんじゃないかと感じたんです。また、自治体の広報誌のコンクールがあることも知り、全国で一番の広報誌を目指し、取材活動を始めました。

具体的には、高齢化や地域おこし・まちづくりに農業の後継者問題など、町が直面する課題を扱いつつ、特定の人に24時間密着するコンテンツ等、伝え方にも力を入れて、それまで以上に仕事に注力していきました。

すると、担当になって4年目で目標だった広報誌の全国1位(自治大臣賞受賞)を受賞することが出来たんです。周りでも広報誌を楽しみにしてくれる方が増え、小さな町でも何かできるというテーマへの反響で、全国から視察団が押し寄せるようにもなりました。

しかし、そんな目標への達成感とは裏腹に、どこか私の中には寂しさがありました。評価はしていただけたものの、「いい広報誌だったね」で終わってしまい、その後の行動に続いていないという課題があったんです。文字通りの問題提起のみで終わってしまい、本当に町のためになるのは、これではないなという感覚がありました。

最終的に目指すのは、町民が同じ思いで街全体が豊かになること。そのために、発信だけでなく、実際に人が動くような運動に力を入れることに決めたんです。