僕が相手になるから大丈夫。 目の見えない中で見つけた、一生の仕事。

目が見えないという障害を抱えながら、障害者や引きこもり経験者など、就労困難者のサポートを行う成澤さん。幼い頃に網膜色素変性症と診断され、徐々に視力を失う中、ご自身も、引きこもりや鬱など、数々の困難に直面します。一つひとつの壁と向き合い、乗り越えていく中で見つけた自分の使命とは。「世界一明るい視覚障害者」と言われる笑顔の秘訣とは。お話を伺いました。

成澤俊輔

なりさわ しゅんすけ|誰かの相手になる
NPO法人FDA(Future Dream Achievement)理事長。「世界一明るい視覚障害者」というキャッチコピーを掲げ、コンサルティングや相談業務を実施。
書籍『大丈夫、働けます』

何かができないと価値がない自分


佐賀県佐賀市に生まれました。3歳の時に弟が生まれましたが、その2日後に姉が小児がんで亡くなりました。同じ頃、僕は網膜色素変性症という難病を患っているとわかりました。治療法が確立されていない、視界が徐々に狭くなる病気です。

大学病院の医師をしていた父は大きなショックを受け、医療の現場を離れることも考えたようですが、当時の上司のすすめもあり仕事の一環で一家でアメリカに引っ越すことになりました。

アメリカ生活は楽しかったです。人見知りせずたくさんの人と話し、世の中にはいろんな人が暮らしていると感じました。好奇心旺盛だったのは、母の影響があると思います。母は、僕の強みや好きなことを引き出そうと、いろんな場所に連れて行ってくれましたし、英会話や水泳、ピアノなど、いろんな習い事をさせてくれました。

2年で日本に戻ってからは、盲学校ではなく、一般の小学校に通い始めました。視界は徐々に狭まり、サッカーボールくらいの範囲しか見えなくなりましたが、僕にとってはそれが当たり前で、病気だとは思っていませんでした。

ただ、漫画とゲームと部活ができなかったのはつらかったです。友達と会話するネタがないんです。それに、目を守るためにいつもサングラスをかけていたので、いじめられたこともあります。なんとなく、周りとは違うのかなと感じ始めました。

中学生になり、いつもと違う病院に行って精密検査をしたときに、はじめて目の病気について聞かされました。ショックというよりは、「ようやく明らかになった」という気持ちでしたね。それまでふたをしていた何かがひっくり返されて、人生が動き始めようとしている感じがして。言葉に言い表せない、そわそわした感覚でした。

障害がわかってから、より一層勉強に打ち込むようになりました。障害がある僕には、勉強ができることくらいしか価値がないと思ったんです。それに、勉強はゲームや漫画と違って、僕がいつでもできる唯一のこと。勉強さえやっておけば、人生なんとかなるんじゃないかと考えていました。

福祉と向き合えない自分


父や主治医の影響もあり、将来の夢は医者になることでした。障害を持つ僕なら、患者さんに寄り添った医療ができると考えたんです。ただ、学力が伴わず、医学部合格には程遠い成績。医者がだめなら、医者と患者の間に入る医療ソーシャルワーカーになりたいと思い、高校卒業後は埼玉県にある福祉の大学に進学しました。

一人暮らしを始め、人生初の部活をしたり、彼女ができたりと、順風満帆でした。しかし、授業を受けてみると、福祉の世界は合わないかもしれないと思い始めました。

先生たちの話す内容が、どこか他人事の話をしているように感じられたんです。20年間、障害とせめぎ合いながら生きている僕からすると、上から目線というか、当事者意識が薄い気がして。参加する学生も「福祉なら潰しがきくから」といった態度で、授業を真剣に聞いてない人がほとんど。違和感がありましたね。

また、障害者の歴史や現状を学んでいると、障害を持つ大変さを突き付けられているような気持ちになるんです。それまで僕は、慣れと経験と勘を最大限使い、まるで目が見えているかのように演じることで、障害者という立場をごまかして生きてきました。例えば、体育でバスケットボールをするとき、体育館の床とボールが見分けがつかなくても、どんくさいふりをすれば障害をごまかすことができたわけです。

それなのに、障害者はいかに大変かという話をされて。障害を持って生きるのが、ものすごく大変なことに感じたんです。現実を見せつけられるようで、学問として勉強する気が起きませんでした。障害と真正面から向き合える気がしなかったんです。

それに、福祉の仕事って、寄り添って話を聞くことが求められます。思ったことをストレートに言うタイプの僕は、この業界には求められていないんじゃないかと思ったんですよね。

何もできなくても、愛してくれる人がいる


福祉に対して気持ちが離れたタイミングで、一科目「不可」の成績を取ってしまいました。視界が500円玉ほどの大きさまで狭まって、授業で使う図がよく見えなかったのに、プライドが邪魔して誰にも助けを求められなかったんです。

成績表を見て、「人生終わったな」と思いました。勉強すらできない自分には、もう存在する価値がないと。

それから、引きこもりになりました。しかも、引きこもっていることを周囲には隠し続けました。昼は出歩かず、両親や弟には大学に通っているかのように電話をして、彼女にも「今日は講義が休みになった」とばれないように嘘をつきました。

毎日、「明日は行こう」と思うのですが、次の日になるとやっぱり行けなくて。自分でもこの生活がいつまで続くのかなと思いながら、2年が過ぎました。

福祉の国家試験の日が近づくと、お守りやメールがたくさん届きました。学校に行ってない僕は、試験なんか受けられないのに。試験当日、さすがにもう隠し通せないと思い、みんなに「裏切ってごめんなさい」とメールを送り、ずっと嘘をついていたことを告白しました。本当は早く言いたかったんです。

怒られることを覚悟しました。僕に向けられている愛は、条件付きだと思っていたんです。「勉強ができる、努力している俊輔」だから周りが認めてくれるだけ。目が見えなくても、勉強ができたらプラマイゼロくらい。目が見えない上に、引きこもって、嘘をついていたなんてわかれば、失望されるだろうと思いました。

でも、誰も僕を責めませんでした。父には「俊輔もスーパーマンじゃなかったんだね」と言われました。その瞬間、条件付きなんかじゃなくて「成澤俊輔」そのものを愛してくれてるんだと感じました。僕は愛されてる。僕を愛してくれる人がいる。それが、すごく嬉しかったです。

人に求められる嬉しさ、人を頼る大切さを知る


大学に復帰した頃から、経営コンサルティングや採用支援をするベンチャー企業でインターンシップをはじめました。有給でしたし、結果を出したい気持ちも強かったので、他の人と同じルールで働かせてもらいました。

ただ、飛び込み営業をするときは、ビルを見つけるのも一苦労です。まず、「日陰が多いところはでかいビルだろう」と予測して、それっぽいビルを探します。ビルを見つけても、入り口の警備員に「飛び込み営業に来たから全部の階に行きたい」とは言えません。「きっと一番上だと思うんでエレベーターのボタンだけ押してください」と言って対応してもらい、上から順番に回っていくんです。

頑張りましたが、目が見えない中営業するのは苦労もあり、結果はなかなか出ませんでした。毎週、各事業部の報告をするときに、僕が数字を落としたことを上司が謝ってくれました。そのとき、自分のせいで上司が謝っているのに、涙が出るくらい嬉しかったんですよね。守られている。誰かに必要とされているって、はじめて感じたんです。

それに、経営コンサルティングの仕事は自分に合っていると感じました。会う経営者たちが口を揃えて「成澤くんと話して元気でたよ」「また会いに来いよ」と言ってくれたんです。

多分、経営者の持つ孤独と、目が見えない僕の孤独が重なったんだと思います。見えない中で、この生き方であってるのかな、この方向性であっているのかなと試行錯誤する様子が、経営者が暗中模索するのと似ているんじゃないかと。

次第に、結果も出るようになり、経営コンサルティングは天職だと思いましたね。コンサルティングは言葉を使う仕事です。僕は、最高の写真も最高のアートも最高の映画も、人と共有できませんが、言葉は共有できます。言葉は、目が見えない僕が、人と何かを共有するための数少ないソリューションなんです。それをいかせることがうれしかったですし、愛され、褒められ、必要とされることが幸せでした。

障害と向き合う


インターン先の会社で2年間働き、卒業した入社することも決まっていました。しかし、卒業間近になって、必修科目を落としてしまいました。卒業式を楽しみに上京してきた家族には、どうしても言えませんでした。

だけど、逃げ出したくても逃げられません。卒業式当日になって「本当は卒業できない」と伝えました。すると、母は「やっぱりね」と言ったんです。嘘に気づいていて、僕が言い出すのを待っていたんです。

2回の留年は、自分で勝手に選んで失敗したことです。それなのに、周りは僕を許し、変わらず支えてくれました。プライドが高く、見栄を張ったり嘘をついてしまう自分の生き方に、いつか限界がくると思っていましたが、やっぱり、人を頼らないと駄目だと思いましたね。人生って逃げ切れないから、自分の弱いところも認めて、人に頼りながら生きなければと。

その後、合計7年かけた大学を卒業し、インターン先の会社に就職しました。同期の中では常に成績トップで、楽しく働きました。

ところが、ある日体調を崩して会社に行けなくなりました。内科に行くと、精神科に行ってくれと言われ、精神科の先生には「必要なら鬱病だと診断を書くよ」と言われました。ただ、目の担当医には、「過労でもなんでもない。感覚だけで障害を乗り切るのはもう限界だよ。目が見えない中で仕事をする土台作りをしてないから、こうなってしまったんじゃないの」と言われました。

すでに僕の視界は完全に閉じ、感じられるのはかすかな光だけ。それでも、一般の人と同じように生活し、特に不自由なく暮らしていました。だけど、そのまま働くのは限界でした。それまでやってこなかった、視覚障害者として働く土台づくりが必要だったんです。

その後、会社をやめ、視聴覚障害者の職業訓練に通いました。そこで点字の読み方や白い杖の使い方、パソコンの音声ソフトの操作などを学びました。

周りは高齢の方ばかり。20代で、彼女もいて、ベンチャーでバリバリに仕事をしていた自分が、どうしてここに通わなくちゃいけないのか、ストレスを感じました。僕は企業で働いているべきなのに、と。

それで、訓練所と並行して、フリーで経営コンサルティングやイベント企画の仕事もしました。このままもう会社で働けないのではないかという不安や、訓練だけの生活から逃げたくて、気を紛らわすために働いていたようなものです。訓練所に通う回数はだんだん少なくなり、半年過ぎると行かなくなりました。

ただ、フリーの仕事は打ち上げ花火的に終わってしまい、そのまま続けていても、社会にインパクトを与えることはできないと感じていました。そんな時、障害者の就労支援をしている企業から声をかけていただきました。そこでは、障害者だけでなく、引きこもりやニートや鬱病患者など、さまざまな就労困難者のサポートをしていました。

その会社なら、いろんな人の手伝いができると感じたんですよね。僕自身、それまで様々な社会問題に当事者として直面してきました。目の障害、大学時代の引きこもり、会社員になってからのうつ病。そういった困難な状況にある人をサポートしたい。国内だけでなく、海外にも波及するような規模でやりたい。その考え方が一致して、経営幹部としてその会社に入ることにしました。

あなたの相手になる仕事


担当業務は、グループにおけるひきこもり支援を担うNPO法人FDA(Future Dream Achievement)の経営であり、当初は事務局長を務め、2016年には理事長に就任しました。障害者、引きこもり、ニート、ホームレス、鬱病患者など、さまざまな人の就労支援を行っています。就労に向けたトレーニングや働く場所の提供のほか、就労相談も受けています。FDAの職員や利用者は約100名で、そのうち90%は就労困難者です。

特徴は、利用者の強みを見つけ、一人ひとりの強みに合わせた仕事を紹介することです。ポイントは、強みを引き出すことや、幅広い仕事の種類を用意することです。これまでに依頼された仕事は、約90種類。たくさんの選択肢があるので、一人ひとりの強みをいかせる仕事が何かしら見つかります。

たくさんの仕事を用意するために、企業に提案するときにもコツがあります。例えば、「障害者ができる仕事ありますか」と聞いても、データ入力など単純作業しか出てこないので、「負荷が高い仕事はなんですか」「時間があったり、人がいたらやってほしい仕事はありますか」と聞いて、仕事を切り出してもらいます。そうすることで、多彩な種類の仕事を確保できます。

就労困難な人が多様な業界で活躍できる環境をつくるために、クライアント企業は一業界一社を基本としています。また、思いに共感してもらえる企業と仕事をすることで、より良い雇用環境をつくることができるので、経営者と直接会うようにしています。

企業からすると、障害者を受け入れても生産性が上がらないと思われるかもしれません。でも、職場に一人障害者がいるだけで、職場のチームワークがぐんと高まるんです。例えば、それまで使っていたマニュアルに対して「このままでいいのかな?」「見づらいんじゃないかな?」と改善されたりします。また、障害者ができない部分を助けようという気持ちが生まれて、部署全体に助け合いの文化が広まったりもします。

「おせっかい」ができるようになるのって商売の本質だと思います。個人的には、業務効率化の研修を1回やるよりも、1時間でも障害者を部署に受け入れたほうが、よっぽど生産性が上がると思いますね。それは、会社にインターンシップ生が来た時に風通しが良くなるのと近い現象かなと。企業にとっても、就労困難者にとっても、双方に価値のある仕組みなんです。

これからも、今やっている事業を通して、困難な状況にある人の“相手”になり続けたいと考えています。僕の目は、およそ10年前に見えなくなりました。視界がなくなっても、日常の生活にはほとんど影響はありませんでした。だけど、唯一困ったのが、鏡の前で自分の存在が確認できなくなったことでした。

それまでは、勉強をしたり、仕事で頑張ったり、プレゼンテーションの力をつけたり、武器を身につけて、自分の価値を示そうとしてきました。でも、自分が見えなくなった瞬間、どんな武器を手にしてもドキドキが止まらなくなりました。その頃から、自分の手をかく癖がつきました。自分を探していたんです。僕はどこに行ってしまったんだ?自分の存在って何だろう。誰か教えてくれよと思いながら、毎日血が出るほど手をかくようになりました。

でも、ある時気づいたんです。自分の存在は人が示してくれていると。ずっと自分で自分を示さなきゃと思っていましたが、そうじゃない。笑って話しかけてくれる人、講演会で拍手してくれる人、名刺交換してくれる人、そういう相手が自分を示してくれるんだなって。僕が笑顔でいられるのは、僕を示してくれる相手がいるから。それがわかってから、手をかく癖は止まりました。

自分の存在がわからなくなっている人って、目が見えない僕だけじゃないですよね。僕と同じように、生きづらさや孤独を抱えて、自分の存在を探しあぐねている人がいる。だったら僕の仕事は、そんな誰かの相手になることなんじゃないかと思います。

だから、働けるか不安だったり、悩んでいたりする人に、「僕が相手にいるから大丈夫」と伝えています。僕が不安でたまらなかった時、人に自分の存在を示してもらって自分自身を見つけ出せたように、出会う人一人ひとりの存在を示す相手に、僕がなろうと思っています。

ただ、僕はいつか死にます。そうなっても「大丈夫」と言い続ける存在を社会に残すために、組織が必要だと考えています。人は死ぬけど、組織の理念や哲学は死にません。僕の使命は、経営者としてこの事業、理念をしっかりと継承していくことです。存続する組織を作るために、後継者を作ることは急務。2020年4月には次期経営者にトップの座を譲ると決めて、色々動き始めたところです。

目が見えなかったり、引きこもった経験があったり、鬱になったりと、これまでいろんなことがありましたが、目の前で僕の存在を示してくれる人がいる限り、これからも笑顔で明るく生きたいですね。

2018.04.19

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