逃げずに自分を信じて進む。 ハンドボールをメジャースポーツにするために。

ハンドボールをメジャースポーツにするため、ビジネスの観点で様々な活動に取り組む東さん。日本代表主将も務めた東さんが感じた、ハンドボールの課題とは。ビジネスに携わるようになった思いとは。お話を伺いました。

東俊介

あずま しゅんすけ|ハンドボールをビジネスにする
藤商取締役。サーキュレーションパートナー。

絶対に逃げない


石川県で生まれました。小さい頃から体は大きかったのですが、運動が苦手でした。でかいのに運動音痴ということで、いじめられっ子でしたね。小学校に入ると、いじめはなくなりましたが、体育は全然だめ。通信簿で2を取ったこともあります。逆に勉強は得意で、テストはいつも100点でした。

ただ、やんちゃな子が多い地域だったので、しょっちゅう喧嘩をしていました。僕は体がでかかったので喧嘩も強くて、小学4年生の時、6年生をやっつけたこともあります。ところが、中学1年生になった時、その先輩が当時のことを覚えていて、復讐に来ました。体格の違う3年生の先輩たち10人くらいに囲まれたんです。「土下座したら許してやる」と言われて、僕は怖くなって土下座をしてしまいました。

次の日からそのことを言いふらされて、散々からかわれました。ものすごく悔しかったです。土下座したことを思い出すと、なんであの時立ち向かえなかったんだろうと胸のあたりがぐっと苦しくなりました。その時に、もう逃げるのはやめようと決めました。理不尽なことから逃げて後悔するくらいなら、殴られても絶対に引かない。そう誓ったんです。

中学では、「一番楽そうな運動部だから」という理由でハンドボール部に入りました。運動は苦手でしたが、モテないイメージがあった文化部には入りたくなかったんです。練習に来ない人が多い部活で、僕も週1回しか練習に参加しませんでした。

ところが、試合でバンバン活躍できて、市の大会では2位になりました。自分がうまい立場になったのがうれしくて、少しずつハンドボールにのめりこんでいきました。県大会にも出場することができ、高校はスカウトされた学校に進学しました。

できるようになるにはやるしかない


高校入学時は自信の塊で、「日本一の選手になる」と豪語していました。ところが、周りとの差が大きすぎて、練習に全然ついていけませんでした。グラウンドを一緒に走ると、僕が10周する間に7回くらい抜かされるんですよ。自分とは違う人間だと思いましたね。

すぐにやめようと思いましたが、ハンドボール推薦で入学したようなものなので、部活をやめたら高校にも行けなくなると言われて。さすがにそれは困るので、ハンドボールを続ける覚悟を決めました。

しかし、1か月経っても、相変わらず練習にはついていけず、ある日、同級生に「お前は口だけでだめだな」と言われました。かちんときました。でも、殴ってもどうしようもないじゃないですか。「だめ」と言われないためには、うまくなるしかないと思いました。それには練習するしかないんだと。

本気で練習するようになると、できなかったことができるようになりました。はじめはできないことも、やってみると少しずつできるようになる。できるようになると楽しくなる。楽しくなると好きになる。好きになるともっと頑張れる。そんなサイクルがあるとわかったんです。

指導者にも恵まれました。先生は命令するのではなく「こういう時どうする?自分が動いた結果どうなる?」と問いかけてくれ、何でも自分の頭で考えさせてくれました。それも合っていたんだと思います。

徐々に試合に出られるようになり、新人戦ではチームの得点王になり、チームも優勝。その後も絶好調でした。「俺は日本一うまい」と思いましたね。U18の日本代表にも選ばれて世界のレベルを知り、いつか日本代表になって、世界の強豪と戦いたいと思うようになりました。

ただ、高校卒業後は、進学ではなく就職を考えていました。家が裕福ではなかったので、学費を払うのは難しいと考えたんです。でも、高校最後のインターハイで1回戦負けしてしまって。それが悔しくて、ハンドボールをもっとやりたいという思いが強くなり、奨学金を出してくれた千葉県の大学に進学を決めました。

立ちはだかる世界の壁


大学でも、日本代表を目指してハンドボールに打ち込みました。インカレでのベスト8や、東日本インカレで準優勝した実績もあり、3年生になる頃には、いくつもの実業団からスカウトが来ました。日本一のチームからも誘われたので、迷わず入社しようと思いました。

ところが、別のチームのスカウトの人と話しているときに「お前なんかいらないよ。日本一のチームで、“お前の力ではない力”で日本一になればいい」と言われたんです。確かにその通りだと思いました。自分がいてもいなくても、日本一のチームは変わらない。それだったら、日本一のチームを作って見返したい。それが決め手になって、そのスカウトがいた大崎電気に入社しました。

会社に入ったというよりも、「会社の持つハンドボールチームに入った」という感覚が強かったですけどね。半日は工場で仕事をして、残りはハンドボールの練習に費やしました。

最初の3年は試合に勝てず、ハンドボールをやめようと思いましたが、4年目に廃部になった実業団から3人の選手が来て、楽しくなりました。実力がある選手が入ったことで、個人もチームもレベルアップして、勝てるようになったんです。新しい世界を見せてもらい、やめようと思っていた気持ちは吹き飛びました。

入団から5年目、初めて日本代表に選ばれました。アテネ五輪出場をかけて戦い、2年後の世界選手権でも、日本代表の最終選考合宿まで残りました。最終選考では18名の中から、16名の選手が選ばれます。選考の感触的に、僕は選ばれるだろうと思っていました。

しかし、メンバー発表のミーティングの前に監督に呼び出されて、落選したことを告げられました。まさかと思いました。悔しくて泣きそうになりましたが、部屋に帰るまでは耐えようと思って我慢して。とにかく、呆然としながら部屋まで戻りました。

部屋に戻り、同室だった先輩に落ちたことを話しました。この人だったら「気にするなよ」くらいに明るく言ってくれるかなと思ったら、先輩は何も言わずに涙をこぼし始めました。嗚咽するくらい泣いてくれたんです。尊敬する先輩が自分のために泣いてくれる姿を見て、自分にはまだやれることがあると気づきました。出なくていいと言われた選手発表のミーティングに出席して、代表選手たちを激励して見送ることにしたんです。

帰国後、会社からは数日休むように言われましたが、休むことなく練習を再開しました。落選したのには何か理由があるはずで、練習をしなければその差は埋められないと思ったんです。

すると、数ヶ月後には、日本代表の主将に選ばれました。僕を落とした監督から、「つらい時に仲間のことを一番に考えられる人間だから、主将としてチームを引っ張ってほしい」と言われたんです。選ばれてからはやる気に満ち溢れていましたね。世界大会で日本初のメダルを取ってやるぞと、張り切っていました。

しかし、翌年迎えた世界選手権のアジア予選は「中東の笛」に阻まれました。何をしても反則を取られてしまい、あきらかにフェアなジャッジではありませんでした。いくら頑張っても、審判を買収されてしまったら勝ち目はありません。

ハンドボール自体に絶望してしまいました。さらに日本代表の主将からも外され、やけになって酒におぼれるようになりました。かろうじて練習には出ていましたが、毎日何をしているのか、自分でもわかりませんでした。

スポーツをビジネスにする


飲んだくれの生活が数ヶ月続いたある日、妻のお腹に新しい命が宿りました。エコー写真を見せられながら「しっかりしなさい、父親になるんだよ」と言われて。その瞬間に気持ちを切り替えて、酒を断つことにしました。

復帰後も日本代表を目指しましたが、若い選手も活躍していたので、僕は選考のラインからは外れていました。試合に出られる限りは現役を続けようと思っていましたが、入団10年目、試合に出られないことがありました。ちょうど翌年、石川県で全日本選手権が開かれることになっていたので、地元に錦を飾って引退することにしました。

引退後は、指導者になる道もありましたが、社会人向けの大学院でスポーツビジネスを勉強することにしました。というのも、ハンドボールを存続させるには、チームを強くするよりも、ビジネスとして成り立たせる必要があると考えたんです。

現役選手としてプレーする中で、強豪チームが廃部するのをたくさん見てきました。強かった僕の会社の女子チームも、日本リーグで6連覇したチームも廃部になりました。会社の持ち物である以上、儲からなかったら継続できないんです。

それは、ハンドボールに限らずスポーツ全般で言えることです。オリンピックで金メダルを取ってもそれだけでは食べられず、バイトをしている選手もたくさんいます。ビジネスにしないと、ハンドボールもいつまで経ってもマイナーなまま。だったら、指導者ではなく、スポーツビジネスができる人間になろうと決めたんです。

大学院で各界で活躍している人たちと一緒に学べたことは、貴重な経験になりました。スポーツビジネスには、「勝利・普及・資金」の3つが不可欠なんですね。勝つことでファンがついて、多くの人に知ってもらえるようになり、スポンサーがついてお金が入る。それでまた環境や設備が整ってチームが強くなるという、いい循環ができるわけです。

業界の中から変えられる人間でいたい


卒業時、僕はハンドボールのビジネス課題について書きました。論文は学内で優秀論文賞を取ったのですが、ハンドボール業界の人からは反感を買ってしまいました。ハンドボールの課題に対して書いたものなので当然といえば当然かもしれません。大学院で学んだことを実践しようとしても、チームに居場所がなくなってしまったんです。

他のスポーツ界の人から何か一緒にやろうと誘われることもありましたが、ハンドボールから離れる気はありませんでした。僕は、ハンドボールのおかげでまともな人生を送れるようになったという感覚が強くて、ハンドボールに恩返しをしたいと思っていたんです。

自分のやっていることは必要とされるはず。見る人が見たらわかってくれるはず。そう信じて、自分ができることに注力することにしました。ハンドボールの体験会をやったり、子ども向けの講演会をやったり、スポーツ選手のイベントを手伝ったり。仕事でも手を抜かずに必死にやりました。

2年ほどすると、講演活動を通してできたご縁で僕の夢を応援をしてくれる人が出てきて、再びハンドボールに関われるようになりました。日本ハンドボールリーグ機構に入り、マーケティング部を設立したり、ハンドボールをビジネスにするために試行錯誤を繰り返しました。

しかし、何をやっても提案は通りませんでした。40歳になるとき、ハンドボールリーグもちょうど40周年を迎えたので、「これがハンドボールが変わるチャンスだ!」と思ってプロジェクト案を作って提出しました。しかし、「いいけど、50周年の時にしよう」と言われてしまいました。

意気消沈して、周りに愚痴ばかり言うようになりました。でも、提案が通らないのも、ハンドボールをビジネス化できないのも、周りが悪いわけではないんですよね。大企業の創業者のようなすごい人が本気でやったら、すぐにメジャースポーツにできるはず。つまり、僕に力がないことが原因なんです。

このまま会社で働き続けても、ハンドボールを変えられません。ビジネスパーソンとしての力をつけなければならない。そのために、独立起業することにしました。

不安はありましたが、妻からの後押しで吹っ切れました。いずれ振り返ったときに後悔しない、面白いと思える選択をしようと思えたんです。

会社をやめてテーピングの販売代理店や講演の仕事を始めたのですが、すぐに、知り合いから「プロフェッショナル人材を企業に紹介する事業」を運営する会社を紹介されました。そこの社長が、働かないかと言うんです。

力をつけるために勇気を持って会社をやめたのに、またサラリーマンに戻るのには抵抗がありました。ですが、その会社がやっていることは、スポーツ業界に必要な事業だと感じたんですよね。スポーツ業界には、広報や集客プロモーションなどの、プロフェッショナルが圧倒的に不足しています。このサービスがスポーツ界で広まれば、急速にビジネス化できるのではないかと思ったんです。加えて、社長の情熱に圧倒されたこともあって、その会社でコンサルタントとして働くことにしました。

ハンドボールへの恩返し


現在は、プロフェッショナル人材の紹介を行うサーキュレーションでパートナーとして働きながら、藤商という総合物流企業でハンドボールチームの指導をしたり、様々な会社やNPOに関わったり、いろいろなことをしています。

一番時間を使っているは、藤商でのハンドボール指導で、月に10日くらい働いています。指導といっても、選手をうまくするだけのためにやっているのではありません。働きながらでも一生ハンドボールができる環境を作りたいという思いで関わり始めたんです。

ハンドボールって、働きながら続けるのが難しいんですよね。別々の会社で働いているメンバーだとなかなか集まれないので、一人でスポーツジムに行ったり、みんなができるスポーツに走っちゃう。でも、一緒の会社だったら集まれるじゃないですか。会社で体育館も予約すれば、すごくやりやすい。せっかく高校や大学でハンドボールをやってきたなら、一番好きで得意なスポーツを一生続けてほしいじゃないですか。

それに、会社からすると、「ハンドボールができるならこの会社で働きたい」と思ってもらえたら採用に繋がります。物流・運送業界は採用に課題を抱えているので、新たな解決策の一つにできればと考えています。

しかも、物流・運送業は独立する人も多いので、今ハンドボールをやりながら働く若い世代が独立したときには、同じようにハンドボールができる環境を作ってくれるんじゃないかと思うんです。そういう可能性も見据えて、サーキュレーションの時間を減らして、藤商で働くことにしたんです。

ほかにも、ハンドボールの普及と促進のためにさまざまな活動をしています。たとえば、世界ゆるスポーツ協会と協力して行っている「ハンドソープボール」。初心者がいきなりハンドボールをするのは難しいので、手にハンドソープを塗ってプレイする競技です。ボールを握りにくいので、速く投げられないどころか、つるつる滑って落としてしまう。運動神経に関係なく、誰でも楽しむことができます。

ハンドボールをメジャースポーツにしたい、しっかりとビジネスにしたいと思ってきましたが、自分がやりたいと思っているだけではダメなんですよね。「東に頼みたい」と思えるような人間に、僕が成長する必要があるんです。「東の夢を一緒に叶えたい」と思われるように、たくさんの信頼を集めることが大事だと思います。

まずは、しっかりとビジネスを生み出せる人間になる。そして仲間をつくること。自分が尖っていれば、いろんな業界の尖っている人と出会えるようになります。そういう人と仲間になって、win-winの関係を超えた、お互いが楽しいfun-funの関係で仕事をしたいと思っています。

2019年には熊本で女子世界選手権、2020年には東京五輪があります。ハンドボールを大勢の人に見てもらえるチャンスですが、本当に大事なのは五輪の後。これまでのスポーツ業界の流れからすると、五輪の後に苦しいタイミングがきますから。その時に、求められる人間になるため、地に足をつけながら、やるべきことを一つひとつやっていきます。

それが、僕の人生を素晴らしいものにしてくれたハンドボールへの恩返しだと思います。

2018.03.12

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