人と人、人と企業を繋ぐことが天職。仕事と育児、全ての幸せを手にいれる生き方を。
転職エージェントを軸に経営幹部や管理職の採用支援やキャリア支援などを行い、本質的な相性が合う方同士を繋いでいる森本さん。仕事も母親業も全力投球で、「人生一度きり、やりたいWILLは全部実現したい」と話します。ビジョンの実現のために森本さんが選んだ道とは。お話を伺いました。
森本 千賀子
もりもと ちかこ|人と人、人と企業のマッチング
株式会社morich 代表取締役社長兼オールラウンダーエージェント
転職・中途採用支援ではカバーしきれない企業の課題解決に向けたソリューションを提案し、エグゼクティブ層の採用支援、外部パートナー企業とのアライアンス推進などのミッションを遂行し、活動領域も広げている。また、ソーシャルインベストメントパートナーズ(SIP)理事、放課後NPOアフタースクール理事、その他社外取締役や顧問など「複業=パラレルキャリア」を意識した多様な働き方を自ら体現。3rd Placeとして外部ミッションにも積極的に推進するなど、多方面に活躍の場を広げている。本業(転職エージェント)を軸にオールラウンダーエージェントとしてTV、雑誌、新聞など各メディアを賑わしその傍ら全国の経営者や人事、自治体、教育機関など講演・セミナーで日々登壇する。現在、2男の母。
2012年にNHKプロフェッショナル~仕事の流儀~に出演。主な著書は「No.1営業ウーマンの「朝3時起き」でトリプルハッピーに生きる本(幻冬舎)」、「のぼりつめる男 課長どまりの男(サンマーク出版)」など。
もの分かりがよく、甘えない子ども
滋賀県高島市で生まれ、山、川、田んぼ、湖に囲まれた自然豊かな場所で育ちました。実家は兼業農家でした。
2人きょうだいで、一つ歳下の弟がいます。弟は2歳のとき、腎臓病を患いました。地元には、弟の病気を治療できるような病院がなかったので、遠方の大きな病院に入院しました。入退院を繰り返し、家族は彼にかかりっきりでした。
両親、祖父母の愛情は全て弟に注がれていましたが、やっかむ気持ちはありませんでした。弟はとても大事な存在でしたし、普通の生活を送れず、むしろ私は何をしてあげられるんだろうと思っていました。
両親が弟に100%集中できるような環境を作らなければと、物分りの良い子になるよう努めました。わがままは言わず、お手伝いもして、テストは常に満点、成績は常に最高位。読書感想文や習字で入賞して、家の壁には賞状が収まりきらないほど貼ってありました。「よく頑張ったね」って褒められたくて行動していたんだと思います。そんな背景からか、自分のことは自分で判断することが多く、誰かに相談したり、甘えたりすることには慣れていませんでした。
学校では、仕切りたがり屋な性格でした。学級委員や文化祭の実行委員を担い、リーダーとして人をまとめることが多かったです。
高校卒業後は、東京に出ることを決めていました。未知なる世界に対する好奇心が強く、今の延長線ではない、新しい出会いがすべてという世界に行きたかったんです。いつか海外も行きたいと思っていたので、英語を学ぶため外国語学部への進学を直感で決めました。
両親は反対しませんでしたが、条件を出しました。向こう見ずな性格を知ってか、見知らぬ土地でいきなり一人暮らしはさすがにリスクだと思われ、寮生活ができる大学を選ぶこと。受験の手配から移動まで全て自分でやること。小さい頃から全部自分で決めて動いてきたので、不安は全くありませんでした。それよりも、生まれて初めて東京に行けることにワクワクしていました。
受験前日に新幹線で東京に降り立ちました。大学の下見をするわけでもなく、憧れの地「原宿」に遊びに行くような受験生でしたが、無事に大学に合格。念願叶って上京することになりました。
進路を決めたのは1冊の本と父の存在
大学では、ラグビー部のマネージャーになりました。ドラマ『スクールウォーズ』の影響で、熱血にあこがれていたんです。マネージャーを務める中で、後方から支えるのも性に合っていることに気づきました。それまではリーダーになることが多かったのですが、「縁の下の力持ち」として動くことも自分の価値観にフィットしていたんです。
寮生活や部活動は充実していましたが、英語の勉強では自分の無力さを思い知りました。外国語学部には帰国子女が大勢いて、私より英語が得意な人は無数にいるという現実を目の当たりにしたんです。強みにしようと思ったら並外れた努力をしなければいけません。
英語は海外に行くためのツールであって、それを極めることが目的ではないという感覚もありました。『スチュワーデス物語』にあこがれ、キャビンアテンダントになりたいと思っていた時期もありましたが、一旦リセットして自分のなりたい姿や職業を考え直すことにしました。
新たな進路を考え始めたのは、大学3年のときです。図書館で1冊の本と出会いました。その本には、アメリカでのキャリアの捉え方が書かれていました。アメリカでは、職場を変えて自分の価値を上げる「転職」という概念が日本よりも浸透していることを知ったんです。
日本の会社は終身雇用が一般的で、年功序列の昇進制度が当たり前でした。調べてみると、日本にも転職支援の会社がいくつかある。これからは、日本でも「転職」という選択肢が広がっていくのではないかと直感しました。
そんな風に仕事について思いを巡らすとき、決まって父の顔が浮かびました。父は、私が小学生のときに脱サラし、総合インテリア業を営んでいたのですが、人材確保でいつも困っていたんです。
父のような中小企業で人材確保で困っている経営者は沢山いるはず。その手助けがしたい。そんな想いと、転職というマーケットに大きな可能性を感じ、「株式会社リクルート人材センター(現リクルートキャリア)」に就職を決めました。
成功したら、一度壊してゼロから創る
入社式には真っ黄色のスーツで出席しました。新入社員の待合室で場違いに気づきましたが、後の祭りです。とにかく記憶に残してもらおうという戦略でした。新入社員代表のスピーチでは、サラリーマンとして昇進して成功していた漫画の主人公を引き合いに出して「島耕作を目指す」なんて宣言したので、社内がざわつき、入社式の日から破天荒ぶりを発揮することとなりました。
営業の仕事は、とにかく楽しかったです。人材が必要な会社を求め、新規開拓をガンガン攻めました。営業先の社長と談笑して、対等なコミュニケーションが取れている感覚がありました。成果も出ていたし、怖いものはありませんでした。
考え方が一変したのは入社1年目の7月、私の誕生日でした。とても良くしてくださっていたお客様から、大きなダンボール箱が送られてきたのです。箱を持ってきた先輩が「これは、誕生日プレゼントに違いない。重いぞ!」と言って運んでくれました。なんだろうと思って開けてみると、20冊もの本と一通の手紙が入っていました。
手紙には辛辣なメッセージが綴られていました。「このままの森本さんだと、すぐに天井に突き当たるよ。あっという間に成長が止まって限界を迎えるよ」と。
読んで、愕然としましたね。勉強しなくとも、軽い調子でお客様と会話をして成果も出たので、「営業なんか楽しいじゃん!」と、正直舐めていたのです。新入社員だから許されていたという事実を目の当たりにしました。底の浅さをしっかり見破られていたんです。
「森本さんのキャラが許されるのは、1年目だけ。このままだと、すぐに賞味期限切れになるよ」「会話が浅い」「知識不足、勉強不足」とも書かれていました。悔しくて、トイレで泣きましたね。
それ以来、必死で本を読み、駆け込む思いで専門学校へ入学しました。まだ、社会人大学院やMBA取得が一般的ではなかったので、週末に財務やマーケティングを学ぶのがようやっとでした。必死で勉強し、経営のイロハを学ぶのに最適と言われていた中小企業診断士取得のための学習がおおいに役に立ちました。
努力の結果、経営の大枠を理解できるようになったことで、お客様と深い部分まで会話できるようになり、以前よりも成果が出せました。先輩方も避けてきたような、難易度の高い業界を担当する部署でも、地道な営業活動と努力で、3年目にはうまく立ち回れるようになりました。
本当の意味で仕事を楽しめるようになったそんな頃、突然、部署異動の内示が出ました。担当していた業界のマーケットは自分がゼロから創ってきたという自負があったので、理不尽だと思わずにはいられませんでした。ちょうど午前中に内示を受け、異動に対しての怒りが鎮まらず、そのまま家に帰りました。入社して初めて、本当にリクルートを辞めちゃおうかなと思うくらい、受け入れがたい内示でした。
その考えを変えたのは、リクルートの創業者である江副浩正氏の言葉でした。内示をもらったその日の夜、偶然にも江副氏と話をする機会があったんです。
異動について相談したところ、江副氏から課題が出されたのです。「『創る』という字にどういう意味があるか、調べてみなさい」と言われました。いろんな辞書を引っ張り出して調べると、ある一冊の中に、「創るとは、壊すこと」と書いてあったんです。
「何か新しいことを作り出したい、新しい自分に生まれ変わりたいと思ったら、過去の成功体験を壊さないと、より価値あるものは創りだせない」ということを教えていただきました。その言葉に納得し、新しい自分と出会うため、今までの環境を手放して異動を受け入れることにしました。
仕事も出産も諦めない生き方
異動先では、新しいマーケットであるベンチャー企業を担当しました。意思決定が速く、大胆で緻密、成長のために本気で人材を確保しようという心意気がありました。
一緒に仕事をしていて本当に楽しかったです。人材ビジネスが本当に大好きだと実感し、人と企業のよりよいマッチングを一件でも多く増やすことが自分の使命だと思って取り組みました。
しかし、時間や体力には限りがあります。この程度が私の限界なのかと悩みましたが、一件でも多くのマッチングの機会を作るために抜本的に仕事のスタイルを変えることを決意。そんな時、商社に勤める友人から聞いた、分業で生産性を上げる「アシスタント制」を会社に提案することにしました。
私にしかできないこと、私がやるべきこと、私がやりたいことにフォーカスし、それ以外の業務はアシスタントに任せるという働き方です。前例はありませんでしたが、役員会では快諾していただきました。目標は倍になりましたが、チームで動くことで2倍3倍の成果を出せました。
仕事が楽しくてしょうがない毎日でした。そんな中、29歳で結婚し、33歳で長男を出産しました。育児のために仕事を諦めるという選択肢は私にはなく、産後3ヶ月で職場復帰しました。
ただ、長男が保育園に入園した日ばかりは、深く考えさせられました。生まれてからその日まで四六時中一緒だった息子が、保育園に預けるときに大泣きしたんです。後ろ髪を引かれつつ仕事に向かったものの、泣き声が脳裏から離れませんでした。1日中泣き止まなくて保育園から電話がかかってくる程でした。
「ここまでしてやる仕事ってなんなんだろう、息子は自分の意志で保育園に行っているわけではない。なんのために仕事しているんだろう。私にとっての大義って何なんだろう」と戸惑いました。
そこで、「転職」という言葉に出会った時のこと、父のような中小企業の経営者の役に立ちたくて、一番困っていた「ヒト」を助けるために転職エージェントになったという原点を思い出しました。改めて自分の軸が定まり、そこからはぶれなくなりました。
迷いは断ち切ったものの、育児に関する葛藤は尽きませんでした。二人目になかなか恵まれず、不妊治療の末にやっとの思いで妊娠したものの、流産。それはそれは落胆し、立ち直るのにも時間がかかりました。
ようやく数ヶ月で心の整理がつき、「これからは仕事に生きよう」と決意した頃、「部長として新入社員100人をマネジメントしてみないか」という内示をいただきました。ぜひやりたい。ワクワクが止まりませんでした。
ところが神様は意地悪です。皮肉なことに、このタイミングで妊娠が発覚したのです。待望の妊娠でした。これも運命だと思い、部長職ではなく副部長的なポジションとして新たな育成モデルをプロデュースすることになりました。悔しくないと言えば嘘になりますが、それでも待望の妊娠だったので、現実を受け入れました。
ところが、その1週間後に2度目の流産をしてしまったのです。これほどのショックはありませんでした。1週間以上会社を休み、これでもかというほど涙を流しました。仕事にストレスを感じていたのではないか、流産は自業自得ではないかという自責の念にかられました。
それでも、何とかその現実を受け入れて、前を向いて歩みだしました。出産も諦めずに再度挑戦しようと気持ちを新たにしました。苦しみを乗り越えてチャレンジした新入社員の育成ミッションは本当に楽しく、やりがいも大きかったです。
自由なワークスタイルを求め、起業へ
39歳で念願の次男を授かりました。産休が明けたら、心残りだった組織マネジメントに挑戦しようと決めていました。
ところが、ちょうど復職する間際に、夫が平日はほぼ出張という部署に異動することが決まりました。夫の大きなサポートのおかげで仕事ができた長男の産休明けのようにはいかない。関西に住む両親からの日常的な支援も得られない。
ならば、時間のコントロールができる働き方ににするしかないと大きなキャリアチェンジを決意しました。チームマネジメントからは手を引き、転職エージェントとしてワークスタイルを自己完結型に変えたのです。
それでも、組織マネジメントへの情熱を持て余してしまい、その熱量を社外に向けようと、講演や執筆活動を始めました。活動内容は広がり、NPO法人の理事や、企業間のビジネスマッチング、人と人のご縁を紡ぐ婚活事業まで、私がやりたいこと、私にしかできないことが形になっていきました。この活動は、会社や家族以外に自分を必要としてくれる、存在価値を確認できる「サードプレイス」として、大切な居場所となりました。
そして、理想だったパラレルキャリアを実践する中で、会社員という肩書きが窮屈になってきました。働き方改革によって企業の労務管理義務が徹底される中、私のキャリアの理想像が組織の枠を超えてしまったんです。心がざわつきました。
リクルートから独立していく仲間を見送りながら「いつかは私も…」と思いながらも、大好きな同僚とお客様と働けることが楽しく充実しすぎていたため、無意識のなかで会社に残ってしまってチャレンジできずにいる自分に気づいてしまったんです。組織に属さなくても転職エージェントミッションは成り立つのだから、守られた環境から飛び出そうと決意しました。
苦手な事務処理や経費処理もサポートしてくれる優秀なアシスタントがいる、備品類だってなんだって全て揃っている。どんなに幸せな環境を与えられているのかを忘れそうになっていました。まさにゆでガエルです。もう一度裸一貫で初心に還ろう。純粋に仕事が好きで脇目もふらずに邁進していた頃を思い出したくなりました。
自分の足で地面の感触や温度を感じて、手触り感を持って歩かなきゃいけないと。「リクルートの森本」ではなく、ただの看板のない「森本千賀子」として挑戦したくなったんです。
そして2017年9月に、25年間お世話になったリクルートからの卒業を決めました。
存在価値を最大化するエージェントへ
2017年の10月からは、次男の誕生日3月3日に立ち上げた株式会社morichが私の新たな志事の舞台です。憧れの大手町で、仲間が繋げてくれた素敵なオフィスとのご縁もありました。
独立した日は柄にもなく緊張していました。初めての起業にかすかな不安を抱く一方で、リクルートの看板が外れても、ここまでついてきてくださったお客様は、新しい真っ赤な『m』のマークの「morich」にも変わらず期待を寄せてくださるに違いないと信じていました。だから、自分で選んだ人生に責任と誇りを持って歩いていこうと覚悟を決めました。
「転職エージェント」という業務内容は変わらないものの、今までと同じことをやるだけではリクルートを卒業した意味がありません。「オールラウンダーエージェント」として、採用領域にとどまらず、組織と人事に関するすべてを線や面での複合的な課題解決するのがmorichです。場合によってはブランディングやマーケティング、税務、財務から経営まで、目の前のお客様の困りごとに徹底してお応えしていきます。
企業だけではなく、ひとりひとりの個人にもしっかりと向き合います。組織と人のマッチングに命をかけてきたからこそ更に高いレベルで貢献できる、究極の「困ったときのもりち」を突き詰めたいのです。そうやって、期待を超えて感謝や感動を届けられるのが真のソリューションだと思うんです。
幸せなリクルート人生は幕を閉じました。大好きなリクルートの社員でいられたこと、本当に感謝しかありません。こうやって今、新たなスタートを切って走っていけるのも、リクルートで学び得たことが血肉となっているからです。
ここから先、どんなストーリーが待っているかは想像もつきません。何の制約もない自由の身になった一方で、組織が守ってくれることはありません。責任はのしかかってきます。古巣の看板の威力に圧倒されることもあるかもしれません。それでも変わらないのは「ワクワク・ウキウキ・ルンルン」を大事に人生を愉しむこと、人生を慈しむこと。ときめく気持ちを大事に、大好きな志事に巡り合えた事に感謝し、一人でも多くの「ハッピー」を創り出すため、幸せの赤いモリチはこれからもチャレンジを続けていきたいと思います。
2018.01.18