30年後もプロフェッショナルであり続けたい。人と企業、徹底して向き合う先に見える未来。

【アクシスコンサルティング株式会社提供】人材紹介会社として初の100年企業を目指し、グループ企業のトップとして経営に携わり、キャリアコンサルタントとしても、求職者と求人企業に寄り添い続ける荒木田さん。突然の父との別れから町工場を継ぐ中で、中小企業の経営の難しさを痛感。いつまでもいきいきと働ける環境づくりや、企業の経営課題の解決に込める想いとは。お話を伺います。

荒木田 誠

あらきだ まこと|キャリアコンサルタント
株式会社ケンブリッジ・リサーチ研究所代表取締役社長。アクシスコンサルティング株式会社執行役員・キャリアコンサルタント。

【2018年2月8日イベント登壇!】【2/8】another life.「人生100年時代に輝き続ける働き方づくり」| キャリアコンサルタントとして活躍する荒木田誠さん・組織と個人の関係のデザインに取り組む石川貴志さんをゲストにトークセッション・ワークショップを開催

※この記事はアクシスコンサルティング株式会社の提供でお届けしました。

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町工場を営む父の姿を見ていた


東京都墨田区で生まれ育ちました。小さい頃から末っ子として姉と兄の姿を見ていたからか、要領は良かったですね。こうすれば周りが笑ってくれるとか、物事をどうするとうまくいくとかいつも考えていて、自分のポジショニングもうまかったと思います。

実家は銅合金鋳造業の小さな町工場を営んでいました。溶かした金属を土の型に流し込み、製品をつくる工場です。小学生のときは積極的に父の仕事を手伝っていました。

中学に上がる頃に反抗期が始まり、父とはほとんど口をきかなくなりました。よそのお父さんたちは外に出て働きに行くのに、自分の父は一日中家の工場にいる。昼間にはテレビを見て、夕方の6時頃には早々に仕事を引き上げて浅草まで飲みに出かける、そんな父の姿がなんだか嫌でした。働かない父はろくでなしだと思っていたんです。

母がとても教育熱心だったこともあり、中学一年生から受験のために塾に通わされていました。納得感もなく何かをやらされるのが嫌で、勉強が大嫌いでしたね。学校と塾を往復する毎日に、「何のために学校に行ってるんだろう」と感じていて。部活もせず、彩りのないグレーな毎日でした。

反対に、高校では部活でソフトボールに熱中しました。そこで初めて物事に打ち込む楽しさを知りましたね。ソフトボールのために学校に通っていた感じです。1,2年生ではキャッチャーを、3年生ではキャプテンかつエースピッチャーとしてチームを率いました。

大学への進路を考え始めた頃、世間はF1の全盛期でした。テレビのレース中継では、日本人のエンジニアたちが世界を相手にトップを競い合っている。そんな姿に憧れて、将来はF1のエンジニアになりたいと思いました。その頃は、家業を継ぐことはいっさい考ませんでしたね。父は自分の代で工場を閉めると言っていたし、仕事の様子を見て、従業員の年齢の高い製造業や町工場って大変だなと思っていましたから。

その後、内部推薦試験で良い点が取れず、目指していた電子工学分野でなく、情報処理の分野に進むことに。道は絶たれたと思って、F1のエンジニアへの道は絶たれてしまったと思い、諦めることしました。

大学に入ってからは、アルバイトを複数掛け持ちしていました。とにかく働くことが楽しくて、朝4時半から8時まで宅配会社で荷物の仕分けをしてから、1限を受けに大学へ向かいキャンパスで授業を受ける。そのあとは夕方6時から夜の0時までピザの配達、という毎日でした。バイトでは、業務をとことん効率的にして、他の誰よりも成果を出すことがとにかく気持ちよかったんですよね。どのバイト先でもリーダーになったり、MVPに選ばれて表彰されたりして、学生ながらに月20万近く稼いでいました。

突然やってきた父との別れ


大学3年生になり、周りの誰よりも早く就職活動を始めました。スキー場の公衆電話からセミナーの予約を取るくらい熱心でした。普段から家業の町工場の現場を見ていたこともあって、経営が安定している大きな会社に進もうと考え、IT系の会社を片っ端から受けて回りました。最終的に、銀行系のシステム開発会社から内定をもらい、食いっぱぐれはなさそうだし、良い会社だなと感じたので、入社を決めました。

そんな折、大学4年生のある日の夕方、家でバイトに出る準備をしていると、下の階から母の声が聞こえてきました。「誠、誠、お父さんが!早く来て!」。降りていくと、母に抱えられ、苦しそうに胸を抑えながら真っ青になって倒れている父の姿が目に入りました。

家族が救急車で運ばれるなんて、全く想像していませんでした。病院に着いた直後は、父はかろうじて話せる状態。ところが、30分も経つと意識がなくなり会話ができなくなりました。父は解離性大動脈瘤と診断され、緊急手術をすることになりました。大動脈が裂けてしまうというものなので、手術のためには輸血が必要です。父と同じ型の血液が足りなくて、親戚や近所の人たちや友人、バイト先などにも片っぱしから電話して。20名以上が駆けつけてくれて、輸血を頼んで。

手術後、夜の0時頃に、医者から「今夜が山場です。親戚を呼んでください」と伝えられました。

「人間ってこんなに早く死んじゃうの?」って、呆然としましたね。それまでは病院に行きさえすれば助かると思っていましたから。

手術のかいもなく、父の容体は良くなりませんでした。先生が「最後のお別れです」って言って呼吸器を外すんです。

すると、母が「今までありがとう」って言って、親族もいる中で、死にゆく父に口づけをしたんですよね。それを見て、ああ、この夫婦ってすごく仲良かったんだな、見かけによらないんだなって思いました。父と母が口づけをしてるシーンなんて人生で見たことが無かったし、昔ながらの夫婦で、いつも喧嘩してたところしか見てなかったから。子どもって、見えてないものがいっぱいあるんだなって。

それ以来、自分の中で変化がありました。それまで家業を継ぐ気はなかったのに、父のかわりに母と一緒にこの工場をなんとかしなきゃいけないと、気持ちが切り替わっていきましたね。

父を継いで知った「中小企業の現実」


父の死という一件があってから、家業を継ぐという意志を決めました。大学の教授に頼み込んで、学校に行かなくても家で研究と卒業論文の執筆ができるようにしていただき、バイトもすべて辞めて、昼間は母と二人で工場の経営を始めました。

ところが、いざ現場に入ると、工場のマネジメント一つもロクにできないし、知識や経験がないから取引先ともうまく話せない。父と同じことすらできませんでした。

売り上げが立たない中で従業員に給料を出すことも大変で、陰口を言われることもありました。とにかく人手が足りなくて、新しい人を雇ってもすぐに辞めていってしまう。中小企業や町工場の経営はこんなに大変なのかと、初めて父の苦労を知ったんです。

以前は疎ましいと思っていた、事務所でぼーっとしているように見えた父の姿も、実は仕事のことを考えていたんじゃないか。私は何も知らないで、父にあんな態度をとってしまっていたのかと、後悔するばかりでした。

もともとは父の代で事業をやめる予定だったので、本当は工場の経営を続けなくてもよかったんです。でも、自分が頑張らなきゃという勝手な使命感のみで意地になって続けていました。そんな状況を見かねてか、大学4年の冬を迎える頃には、家族や親戚、周囲の大人たちから「もう無理しなくていい。就職しなさい。」と言われました。それを聞いて、正直、ほっとしましたね。

これらの一連の経験を通して、年上の従業員たちに指示することはできなかったし、社長業の大変さを痛感して、自分には経営業は無理だって痛感しました。周囲の心配もあって、ようやく自分も他の学生たちと同じように、サラリーマンとして社会に出ていける。そんな安心感がありました。


その後、内定の出ていた銀行系のシステム開発会社への就職を決めました。そして、実家の荒木田鋳造所は閉じることになりました。

もっと突き抜けたところで成長したい


入社後は、システムエンジニアとして、要件定義、プログラミング、テスト、納入の一連の仕事を担当しました。テクノロジーの変化が大きい時期で、メインフレームという大型機によるシステム開発から、パソコンをサーバーとして周辺機器やオペレーティングシステムなどを自由に組み合わせるオープン系システム開発へと変化していました。

その後は、企業のヒト・モノ・カネ・情報などを活用して企業経営を考えるERPパッケージの導入に関わることにもできました。たった2年でIT業界の変化の前線で仕事ができたのは、貴重な経験でしたね。

ただ、自分のキャリアとして、このままでいいのかモヤモヤを感じる部分もありました。

そんな時に客先のプロジェクトルームで外資系コンサルティングファームのコンサルタントに出会いました。私たちみたいなシステムエンジニアと違って、コンサルタントは、接する人たちや話のレイヤーが全く違うんですよね。彼の仕事ぶりがすごく眩しく格好よく思えました。同じ年代なのにこうも違うのか。自分ももっと突き抜けたところで、ビジネスマンとして自分を成長させたいと思いました。

それからは彼らの働くファームの会社の情報を調べたり、経営雑誌を読み漁りました。そうするうちに、客先で出会ったそのファームのパートナーから転職の誘いを受けたんです。これはチャンスだと思い、外資系コンサルティングファームへの転職を決めました。普段から真面目に仕事はしておくものだと思いましたね。誰が見てくれているか分かりませんから。

実際に働き始めると、入社した日の午後には、客先でプロジェクトのリーダーとしてお客様に紹介されて、ものすごいスピード感に圧倒されましたね。互いの知識や情報を共有し合う文化があり、別のプロジェクトの人も分け隔てなく色々教えてくれる。まさに望んでいた通りの環境でした。

コンサル業界から人材業界への挑戦


製造業を中心に業務改革やシステム導入のコンサルティングをする中で、役職が上がっていき、4年目にマネージャーになりました。責任者として、契約を取り交わし、他の社員をマネジメントする。現場での仕事はメンバーに任せるようになりました。

ただ、私は現場に入り込み、お客さんを励ましながら一緒に変革をサポートしたかったので、マネージャーの仕事にモヤモヤしていました。一緒に肩を叩き合いながらお客さんと困難を乗り越えるようなプレイヤーとして働きたいのに、会社の立場を守ることばかり考えないといけない。それに、社内の他のマネージャーは本当に優秀で、「自分じゃこの人たちには勝てない」という思いもありました。

同業者に転職しても同じ状況になるので、意味がない。せっかくなら、ベンチャー企業のようにもっと全体を把握できる規模の会社で、プレイヤーとして大車輪となって働きたい。そんなことを考えている時に、コンサル業界に精通した人材紹介事業を行う、アクシスコンサルティングの代表に出会い、キャリアコンサルタントにならないかと誘われました。

人材紹介業について詳しく話を聞いて、すごく興味が沸きましたね。立ち上がったばかりの会社で、5人という規模もたまらなかったです。それまでの会社ではマネージャーには経験と実績が求められるけど、その会社は全くの未経験からでもいいと言ってくれて。ここならプレッシャーを感じずに、のびのびとできそうだと思いました。

人材紹介の仕事なら、中小企業の課題解決に貢献できると思ったのも後押しになりましたね。コンサル時代に中小企業診断士の勉強をしていて、多くの中小企業の経営者が人材の採用に本当に苦労していると知ったんです。私自身、父の町工場の経営を経験したことで、人材採用の困難さは身をもって感じていました。

29歳なので、2年間やって失敗すればまた元の業界に戻ればいい。だったらもうチャレンジするしかないと思い、2003年の8月に、キャリアコンサルタントへの転身を決め、6人目の社員としてアクシスコンサルティングへ入社しました。

はじめの数ヶ月は、とにかく辛かったですね。1日に100件くらい「転職しませんか?」って電話をかけて、やっと1人つかまるみたいな。こんなことやる仕事って人生で初めてで、凹みました。もっとキャリア相談にたくさんのるイメージだったのにって。お盆でみんな夏休みとってる間も電話して、なんで俺こんなことしてんのかなって思ってました。

ところが、慣れてくると、電話に抵抗がなくなるんです。当時は名簿を買って電話でスカウトすることが多く、会社名と部署名くらいしか分からないんですが、その中で、きっとこの人はこういう職種だろうっていう仮説をいくつか立てて電話をかけるんです。これがはまると、最高に楽しいんですよね。1年目の目標は5人の転職をサポートすることでしたが、あっという間に決まっていって。結果的に15人ほどご支援することができました。

軌道に乗ってからは、お客さん一人一人に徹底的に向き合い続けることに神経を尖らせました。お客さんへの情報提供メールを1日に100通以上出し、求人提案には何時間もかけて準備をしました。そういった小さな努力の積み重ねから、結果的に2007年には個人で人材担当・企業担当両方ともに年間1億円以上の売上を達成することができました。

その後は、キャリアコンサルタントのプレイヤーと並行して、2年目には求人企業管理、企業開拓の責任者などを任されました。自分の成長に合わせて役割やミッションが変わり、マネージャー、事業部長、執行役員と役職が変わっていきました。

経営者、プロフェッショナルとして


現在は、アクシスコンサルティング株式会社でキャリアコンサルタントの仕事を続けながら、グループ会社の株式会社ケンブリッジ・リサーチ研究所の代表を務めています。

グループ会社の社長に就く話を受けたときは、すぐには回答できませんでした。家業の経験から、自分はプレイヤーとして成果を出す人間で、経営者タイプではないと思い込んでいたからです。それでも、これからのキャリアにさらなる深みをもたらしてくれる機会だと思い、チャレンジを決めました。

私が社長になったケンブリッジ・リサーチ研究所は、中堅からエグゼクティブクラスまで幅広い層の人材紹介事業を展開する、半世紀を超える歴史がある会社です。そして、日本のHR業界の中でもっとも歴史ある55年の老舗人材会社として、国内初の「100年続く企業」となるという大きな目標を掲げています。

私に任されたミッションは、同社の100年企業に向けた組織の改革です。「CAMBRIDGE REBORN」というテーマで、企業のブランド再生施策、人材採用やあらゆるインフラの再構築に取り組んでいます。

その中でも、注力しているのが、社員一人一人との対話です。私がキャリアコンサルティングを始めた頃、上司が毎日仕事の振り返りをしたり、疑問点に答えてくれたり、徹底的に向き合ってくれました。そこで仕事の土台をしっかり築くことができたんです。だから私も同じように少なくとも週に一回は社員一人一人と話し合っています。

どうしても、立場的に厳しいことを言う場面もあります。私個人は、もっと和気あいあいとして、リラックスしていいよって言いたいところですが、100年企業となるための変革を決めた以上、徹底して変えようとしています。会社として、個人として、立場をわきまえて人格を使い分けていく覚悟ができました。

方針を伝えるだけでは、浸透しないこともあります。徹底的に向き合うことで、最近では私の本気が伝わったのか、現場の雰囲気が変わってきた感覚があります。まだまだこれからですが。

経営者を務める傍らで、プレイヤーとして、キャリアコンサルタントの仕事も続けています。担当するすべてのお客様に、これから先もずっと寄り添い続けることが私の喜びであり、天職だと思っているからです。コツコツ続けてきた努力が、結果として10年以上、億を超える売上に繋がっています。プレイヤーとして成果を出し続けることは大変ですが、全く苦痛ではないので、本当に向いているのだと思います。

これから70歳、80歳になっても仕事を続ける時代がやってきます。私自身、70歳になってもキャリアコンサルタントのプロフェッショナルでありたい。その環境がケンブリッジであってほしいと願っています。シニア世代でも転職がしやすく、いきいきと働ける世の中を作るためには、社会、求人企業、求職者から必要とされるプロフェッショナル人材が集まる企業にすることが大事です。

いくつになってもプロフェッショルとしていきいきと働ける環境をつくること、それが経営者として企業の変革を進める大きなモチベーションになっています。

また、個人的に次のテーマとして考えているのは、中小企業の事業承継や人材採用などの経営課題の解決ですね。大学時代に父の町工場を継ごうとして見えた中小企業の経営の困難を解決したいという想いがあります。まだ広く知られていない中小企業の経営者と、肩を叩き合いながら、一緒に課題解決に取り組んでいきたいですね。

2017.12.18

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