東京都の離島、青ヶ島で生まれました。弟と妹がいる長男です。青ヶ島の当時の人口は210人。同級生は5人しかいませんでした。ただ、みんな長男長女だったので、遊ぶ時は兄弟など、年下の世代も巻き込んで、遊び相手はたくさんいましたね。野球やサッカー、バスケットボールなど、集団でやる遊びもできました。

小さい頃から小児喘息を患っていました。島外の病院に行こうと思っても、当時船は週に3便程で、欠航も多いので、簡単には島外に出られません。また八丈島で一泊しなければ本土まで渡れませんでした。島に診療所はあったのですが、十分な治療は受けられず、発作が起きても自然に治まるまで何日も苦しみました。

15歳の時に自治医大からお医者さんが来てくれるようになりましたが、それまでは本当に大変でしたね。だから、将来は医師免許を取って、医者になって青ヶ島に帰って来たい
と考えていました。

青ヶ島には中学校までしか無いので、15歳になると必ず島外に出ます。高校生になって島を出ると頻繁には帰って来られないので、上の先輩たちも夏休みとか正月に年に一度戻ってくるくらい。島の外での生活がどんなものなのか、全く想像できなかったですね。特に、僕たちの同級生はみんな長男長女。上に参考にできる兄弟もいないので、何もイメージできませんでした。

でも、島を出る覚悟は自然とできていました。期待や不安が入り混じりながらも、島で育つと15歳の時にはそうなるものなんです。僕の場合、島の中だけの狭い世界で暮らしていたという感覚があったので、とにかく広い世界に出て新しい経験をしてみたいと思っていましたね。

それで、高校は人数の多い大きいところに行きたいと思って、千葉県の私立高校に進学しました。同級生は500人以上いて、青ヶ島とは全く違う世界。東京の叔父の家に居候させてもらって通学したんですけど、何をするにも緊張しましたね。満員電車にもあまり乗ったことがなかったので。最初の数か月は学校に行くだけで精一杯でした。

勉強に励む一方、部活は、部員0人の太鼓愛好会に入りました。大人数の中で、自分にしかできないこと、自分が一番になれるものを見つけようと思っていたところ、入学案内に太鼓愛好会があったんです。で、行ってみたら部員は0人でいきなり一番になっちゃったんです(笑)。

太鼓は、昔から慣れ親しんだものでした。青ヶ島には「還住太鼓」という郷土芸能があります。古くから伊豆諸島南部の郷土文化の中で、太鼓は、島唄、島踊りと同様に重要な位置にあったんですね。青ヶ島では神事の時に叩くために発達していったんですけど、より楽しみながら叩けるようにしたのが「還住太鼓」です。

ただの娯楽ではなく、青ヶ島の歴史を伝える意味も込められています。青ヶ島は1785年の噴火によって、全島民が八丈島へ避難しました。それから50年の歳月をかけて島に戻った人たちがいて、それを「還住」と呼びます。その還住の歴史も伝える郷土芸能にしようということで、父と当時の村長さんがはじめたのが、「還住太鼓」です。

太鼓は僕のルーツ。都会での生活に必死になりながらも、太鼓だけは叩き続けていました。