絵を描く時の気持ちは、恋の初期衝動と同じ。愛されたくて描いた絵が、誰かの救いになれば。

幸せな家庭に育ち、小さい頃は描いた絵をお母さんに褒めてもらうことが嬉しかったという福井さん。15歳の頃から、絵を描くことが自分にとっての救いとなったそう。自分と向き合って辿り着いた絵を描く意味とは?大学在学中からゲスの極み乙女。、さめざめなど多くのアーティストのアートワークを手掛けている福井さんにお話を伺いました。

福井伸実

ふくい のぶみ|恋する絵描き
恋する絵描き。音楽アーティストのCDジャケットや歌詞カード等一式のアートワークデザインをはじめ、ノベルティやライブツアーのグッズ、ポスターなどのイラストからデザインまで一人で制作。ゲスの極み乙女。やさめざめ...ほかインディーズのバンドなどの、CDジャケットや歌詞カードなど。自身でも展示を開催、グッズ制作展開、トークやライブペイントのイベント開催など多岐に渡った活動を続けている。

家族に愛されて育った天使みたいな子


北海道札幌市で生まれました。親の仕事の関係で生まれは北海道ですが、東京で育ちました。2人姉妹の妹で、姉は結構強い性格。私は天使みたいな子だったと思っています。小さい頃から家族に愛されて育って、すごく幸せな家庭でした。特に、私は父親っ子で、一緒にキャッチボールしたり、家族で温泉に行ったら、結構大きくなるまでお父さんと一緒に男湯入っていたり。距離の近い親子でした。

小さい頃は、母曰く、自分の好きなことしかやらない、嫌いなことは意地でもやらない性格だったらしいです。好きなのは絵描くこと、絵本を読むこと。絵は漫画のキャラクターが中心です。小さい頃から自然に描いてました。描いた絵を誰かに見て欲しいというのがあったんだと思います。幼稚園で描いた絵を褒められたり、通信簿でいつも絵が上手って書かれたり。おばあちゃんの家に行った時に、カレンダーの端とかにちょこちょこって描いて、ほんとに上手だねって喜んでくれたり。元を辿るとお母さんが褒めてくれるのが嬉しくて、それで描くのが好きになりました。

反対に、人前に出るのはあんまり好きじゃなかったですね。緊張してしまって。あと気にしいなんで、どう思われているかが気になっちゃう。多分小さい頃からプライドが高かったので、自尊心が傷付くんじゃないですか。大人しい、ヘラヘラした子どもでした。

小学校を卒業した後は中学受験をして、地元の中高一貫の学校に行きました。中学ではバレー部に入りました。結構厳しい部活で、タイヤを引いたりして、頑張ってましたね。スポーツは得意で、リレーの選手に選ばれたりもして。スクールカーストで上位が運動部じゃないですか。一緒にいた子が運動部の子が多かったから、クラスの中心グループにいましたね。中心の端にいる方。

絵が感情を吐き出す場所に


15歳のときに私は天使じゃなくなりました。父が家族を裏切っていることが発覚して、家庭の破滅です。父はその前から広島に単身赴任していて、たまに帰ってくる生活でした。父の異変に最初に気付いたのは私だったんです。久しぶりに会った父が携帯の写真を見せながら、この前行った場所の話をしてくれて。何も考えずに携帯を借りて他の写真を見ていたら、「この人誰?」みたいな写真があって。女って恐ろしいっていうか、夜に父の携帯をこっそり見たら、いろいろ出てきて、やばいと思って姉に共有して、そこから発覚しました。

そこまですごい幸せに生きてきて、そこでブチって切られた感じですね。予期していなかったので、最初は驚きで...。それから「許せない」ですね。すごい父親っ子だったんで、裏切られたみたいな。世界の色が変わるような感じだったんですね。なんでも当たり前じゃないんだって。そのことがあって以来、「汚れた」というか、天使ではなくなりました。そこから絵が感情を吐き出すための場所になって、絵を描く行動の意味が変わりました。

ちょうどその頃から、将来は美大に行きたいと漠然と考えていました。美大を出て何になりたいとかは全然なかったんですけど。母からは、大学で興味のないことをやるんだったら好きなことやった方がいいんじゃない?って提案されて。

高校では、部活をやりながら、美大受験の予備校に通いました。志望校は武蔵野美術大学。学校の雰囲気が好きで、行きたいなと。専攻は油絵です。予備校に通って、いろんな課題やっていく中で、一枚の絵をネチネチ完成させるのが心地いいというか。物事を立体的に見るのが苦手で、彫刻とかは向いてないなって。思考回路が運動部で、真面目だったので、絶対受かるみたいな感じで努力して、現役で合格しました。

拒絶から愛にシフトしていった


大学は楽しかったですね。深夜にコンビニへ行くとか、朝まで飲んで居酒屋から出た時の朝焼けとか、そんなことさえもキラキラしていました。私にとっては新鮮で、大事な瞬間でした。大学、特に油絵科は今まで出会ったことのないタイプの人がいっぱいいて面白かったです。

作品の制作も力をいれていました。フラストレーションをぶつけたような絵を描いていましたね。寂しい、孤独といったネガティブな感情をネガティブなまま、傷ついた過去を背負って生きているのよ、みたいな感じで作品に出していました。周りの人からは怖い絵だねって言われましたけど、自分では気づいていなかったですね。でもその絵を良かったと言ってくれる方もいて、大学1年生の時からバンドのCDジャケットを描く仕事をしていました。一番仲良かった子がライブ好きで、よくライブハウスに連れていってもらったのがきっかけです。

いわゆるロキノン系のバンドが好きでよく通っていたんですけど、そこでイベンターさんに声をかけられて、絵を展示したら、アーティストの方からなんかやろうよって言ってくれて。そういうのが増えていって。ミクシィ時代だったので、友達の友達がアーティストだったりして。本当運が良かったし縁があったというか、ただただ恵まれた環境でした。

卒業制作では大きな絵を3枚描きました。自分と姉と、自分と飼っていた犬と、自分と母をアクリル絵具で描いたんです。テーマは「絶対的なもの」。絶対的に許せるとか、愛し切れるとか、自分から離れないとか、形が変わっても本質は変わらないもの。そのテーマに行き着いたのは、やっぱり父のことがあったからです。裏切られたときに、なんで「裏切られた」と感じるのか考えたら、信じていたからなんです。信じたかったみたいな。じゃあ信じられるものって何なんだろう、信じるってなんだろうと。それで愛にたどり着きました。

裏切られた経験への拒絶から、愛したい愛されたいという気持ちにシフトしていった感じですかね。私は天使じゃなくなった。でもそれがネガティブから一周回ってポジティブになったっていうか。作品として扱えるようになって、やっと自分のアイデンティティになりました。

卒業制作が完成してみて、すごい力強いものが描けたなと感じました。時間をかけて磨いて磨いて磨いてっていうやり方をしたんで。周りの反応も良かったですね。そんな高い値段じゃないですけど買ってくれる人も見つかりました。

卒業後は、フリーのイラストレーターとして働くことにしました。漠然とですけど、それまでの経験からやっていけるんじゃないかと思っていたんです。ほんとにご縁に恵まれて、ゲスの極み乙女。とか有名なバンドに携わらせてもらって。自信もありましたね。どこにいっても、絵描けますって公言していて。母親には、とりあえず2年間やってみてダメだったら考えてとだけ言われて、後押ししてもらいました。ありがたかったです。

周りのおかげで描く意味がわかった


フリーのイラストレーターとして活動を始めてみて、仲間が全くいなかったので、寂しかったですね。孤独で、社会から取り残されている感じがしました。歯車になれていないというか。自分の無力さにも気づきましたね。数年後、どうなっているのかわかんないし、どうなりたいのかもよくわかんない。絵で生活していけるかという不安より、その気持ちの方が大きかったです。

私が描く絵についても、絵画を描くとイラストっぽいと言われて、かといってイラストレーターとしてちゃんと描ける実力もなくて、結構悩みました。「イラストっぽいって言うけど、どうすればいいんだろう」って感じです。すごくイライラしていました。イラストっぽいからダメなの?じゃあどうして欲しいの?って。でも、最終的には、イラストかどうかは相手が決めるものだから、気にしていてもしょうがないと割り切りましたね。それまで過剰に反応していたんだと。

フリーとして仕事はありましたが、正直心の中ではずっと辞めたいという葛藤がありました。「これから絵描きとしてどうしたいの?」みたいな話になると、わからなくて。描くことも嫌いになっていました。

それでもしばらく絵を描かないでいて、数日ぶりに描いたら、あーやっぱすごい楽しいなって思うんですよね。展示して褒めてもらえたら、やっぱり嬉しいと感じるんです。そういう一瞬の気持ちを大事にするようになって、少し気持ちが変わりました。周りの人に「好きだから辛いんじゃない?」と言われて、「確かに」と納得しましたね。

ライブペインティングや展示会などのイベントをやるようになったのも大きいです。それまで、絵を通じて何を伝えたいのか定まらないのが辛かったんです。コンプレックスだったり、自分にとって絶対的なもの、個人的なことを描いているから、伝えたいことなんてなくない?って。じゃあ何ができるんだろうって思って、ずっと考えていました。

それが、イベントをするようになって、来た方から「すごい救われました」とか、「これで明日も頑張れる」って言ってもらって。私が絵を描くことで救われたのと同じだ、すごいことだなって思いました。自分のためにお金出して絵買ってくれる人を裏切っちゃいけない。10年後に私の絵を見た時に、昔そういえばこんな人いたなじゃなくて、今もまだ好きだなって思ってもらえるように続けなきゃって思えたんです。周りのおかげです。

絵が誰かの救いになれば


今は「恋する絵描き」と名乗っています。理由は女子の恋とか愛とかの感情を作品に盛り込んでいるから。それに、絵を描く行為自体に恋をしていたい、恋の初期衝動のような気持ちをもって絵を描いていたいという願いを込めて、名付けました。名乗り始めた頃から、自分の中での迷いが消えて、だんだん開き直ってきましたね。

今は、CDジャケットを始めとするイラスト系のお仕事と、油絵だったり、アクリル絵の具で描いて製作して展示する絵画製作との、2種類の活動をしています。イラストに関しては、クライアントの方の要望に応えた絵を提示できるように努めています。自分を表現する絵画製作では、以前に比べて絵が柔らかくなりましたね。母がギャラリーをやっているので、こういう絵だと買いやすいとか飾りやすいとかの話をされるのも大きかったです。より周りに愛される形でいたいと意識していたんだと思います。小さい頃から、私が絵を描く根源には、人から愛されたいという思いがあるのは変わらないですね。

最近一番テーマにしているのは、絵を描くことで、ほんと少しでいいんですけど、誰かにとっての救いになればと思っています。私に世界は変えられない。そんな大した人間じゃないから。でも、ほんと少し、ささやかにでも、誰か一人の救いになりたいなと。

今後も絵を描くことを続けていきたいですね。きっとまた環境が変わるとか、いろんなことがあってもちゃんと続けたい、真摯に。自分にとって絵を描くことは絶対的というか。絶対的なものがなくなって葛藤したこともあったけど、今、絵は絶対的なものとして自分とともにある。これからも、自分の人生を通して絵を描き続けたいです。

2017.05.11

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