年間1000人以上の経営者におせっかい。相手のためを思い、生涯現役で仕事をしたい。
年間1000人以上、延べ約5万人の経営者に会い、経営課題を解決すべく、人と人を繋げる杉浦さん。誰かのためになる「おせっかい」をし続ける杉浦さんにとって仕事とは?お話を伺いました。
杉浦 佳浩
すぎうら よしひろ|人と人を繋げる人
代表世話人株式会社 代表取締役。世話人業とは、
「代わりが居ないような世話役を目指し」
「表から裏から斜めからお話が出来る関係性を」
「世の為 人のためにを 肝に銘じて」
「話が尽きないオモシロイ話題性を持ち合わせ」
「人と人を繋げる人でありたいと願っています!」
考えるより行動が先
大阪府東大阪市で生まれました。姉が1人います。父は親戚と一緒に会社をやっていました。カフェなどの店舗設計をしている会社で、社員は20人程。専務兼営業の父は根っからの商売人で、休日は私の手を引いて取引先に行くことがよくありました。普通、日曜日にお客さんのところに営業に行ったら怒られるじゃないですか。だから営業ツールとして子どもの私を連れて行き、仕事をしていたんです。出かける前に、父から「頭を撫でられたら笑うんやで、ええことあるから。」と教えてもらって、実際そうすると、お菓子をもらえる。それが嬉しかったですね。
小学校2年生の時、スイミングスクールに通い始めました。生まれつき体が弱かった私のために、親が申し込んでくれました。当時はスイミングスクールがほとんどない時代。裕福な家庭ではなかったですが、月謝3500円を払って通わせてくれました。家から地下鉄に30分乗ってスイミングへ、自分のエリアから出てみて、新しい世界を知りましたし、学校以外の友達ができました。
中高生時代、将来のことは何も考えていませんでしたね。情報はテレビやラジオくらいであまりなかったですし、「どこかの会社に入るのかな?」という程度。会社を継ぐことも考えましたが、父から「お前は無理だから、とりあえず大学に行ってこい。」と言われて、関西の私大の経済学部に進学しました。バブルの時代に流されて行った感じもあります。自主性があるタイプではありませんでした。
大学にはあまり行かず、お金がなかったのでアルバイトをしていました。北海道に牧場のアルバイトで行ったこともあります。運転免許を持っていなかったので、移動は歩くか走るだけ。行ってみたらえらく広い牧場で、1週間で7キロも痩せてしまったんですよ。北海道で運転免許が必要だなとか、免許がないと牧場は大変そうだなとか判断するよりも、行動が先になってしまうんですよね。これでは倒れてしまうと思い、申し訳ない気持ちがありながらも、泣く泣く親にお金送ってもらって、大阪へ帰ってきました。これを機に自分のお金で旅行に行くと決めて、翌年には、北海道を一周。北海道だけでは物足りず、海外に行きだしました。当時珍しかったバックパッカーです。グアムや中国、スペインからジブラルダル海峡を船で渡ってアラブアフリカにも一人で行きました。
他にも、周りに先駆けて、中国に船で行きました。自由旅行がスタートした翌年です。その帰りに、日本へ帰るのにちょっとだけお金に余裕があったんです。A寝台という高価な寝台列車に乗ったんですが、北京駐在のトヨタの方と同じ部屋になったんですよ。多分偉い人だったんじゃないかと思います。トヨタが中国に進出する中、最前線で頑張っている日本人でした。夜通しお酒を飲みながら話した時に、「君みたいな人がトヨタに来て欲しい。」と言われたんです。「え、俺でもトヨタいけるの?」と思いましたね。海外で企業戦士の話を聞いて、めちゃめちゃおもろいなと思ったんですよ。それで将来は海外で仕事がしたいなと。海外に一人で行っていたし、なんとかなるんちゃうかなって。当時は証券会社に力があって海外に支店を作る時代だったので、証券会社に就職を決めました。
仕事が旅行化する
海外に行くためには、まず東京で働こうと、赴任先は東京を希望しました。でも赴任地希望の面接の当日、旅行でスペインにいたんです。なので、スペインから人事部長に絵葉書を送りました。「赴任地は東京を希望します」と書いて。帰国後、鹿児島勤務を言い渡されました。正直嫌でしたね。先が見えなかったです。
そんな背景もあり、会社に入って2週間で辞表を出しました。証券会社のことを何も知らずに、なんとかなるわという根拠のない自信だけで勉強していなかったんですよ。同僚はいい大学を出た頭のいい人たちばかり。俺無理だわと思って、相当打ちひしがれました。でも上司がいい人で。「お前、旅行好きだろ?鹿児島って田舎でいいところだろ?旅行気分で半年だけ居たら?」と言われました。単純で楽天的な所があるので、あっさり納得して気持ちが楽になりました。
仕事が旅行化して、給料をもらえる。考え方を変えることで楽しめました。名刺を100枚渡されるんですよ。「渡し終わるまで帰ってくるな。」と言われて。旅行気分で仕事をして、名刺は人に会える道具だと思って、とりあえず外を回り始めたんですね。会社に帰ったら、「何千万円分、お金入れといたから。」って受注の電話があったりして、外回りしている間に勝手にお客さんが増えていったんですよ。そしたら評価されて、社長表彰されました。
ただ、お客様の中には資産が減ってしまう方もいて、悩むこともありましたね。どこか、実態のないものを売っている不安がありましたし、株が高騰し始めて、もし暴落したら迷惑を掛けるのではないかという心配もあったんです。そんな時、新聞で有力企業の人材募集を見てとりあえず転職エージェントに登録してみました。すると、エージェントからは「大手企業どこでも行ける。」と言われたんです。「じゃあ難しいとこどこですかね?」と聞いて、教えてもらった会社は、日本一給与が高いと噂の関西系モノづくり企業。証券会社にいたから、すごさがわかるわけですよ。調べたら面白そうだし、とりあえず受けてみることにしました。
ところが、最終面接で口喧嘩になってしまったんですよ。ジャンパー姿のおじさんが突っ込んだ質問をしてきて。どうせこんな会社行かないからもうええわと、やけになって口答えをしたら「あなたはなんでそんなに自信があるのか?」と言われました。が、結果は即採用。実はそのおじさんが社長だったんです。よく入れてくれたなと思いました。こいつは、歯向かってでも何かやってくれると思われたのかもしれません。採用が決まった後に証券会社に辞意を伝えると、ありがたいことに副社長にまで慰留をいただきましたが、やっぱり業界の頭打ちへの懸念があって、最終的には転職を決めました。日経平均最高値の2ヶ月前に証券会社を退職しました。
25歳で新しい環境に飛び込んで、とことん頑張りましたね。自信があって大きなこと言っちゃったから引けないし、それなりの成果を残しました。有力会社流の働き方が学べたのは本当に大きかったですね。営業の効率化など仕事のやり方もそうですけど、1日に何人も会うようなタイムマネジメントもここで学びました。
転職して2年目の時、証券会社時代の同期で、大阪にルーツがある財閥系グループで働く友人に、人が足りないと相談を受けました。関西人の私は、その会社は昔から格が違うと感じてました。ただ、自分は有名大学出身でもないし、選考を通過するのは難しい。それでも、行動が先の性格だから、話を聞いてすぐに受験しちゃったんですよ。それで、営業だから面接は強いじゃないですか。合格して後から履歴書を出したら、友人が出身大学を間違えて伝えていて。転職初日に、人事の方に「杉浦さんの出身大学でうちに就職した方は後にも先にもあなただけです。」と言われて、また燃えましたね。(笑)
車80台を売って見えたもの
新しい職場では研修無しで、いきなり営業として働き始めました。名刺だけが変わった感じでしたね。必死に営業した結果一定の成果は出していました。ただ、周りを巻き込めていない孤独感があったんです。次第に思い悩むようになりました。そんな時、松下幸之助さんや中村天風さんの本に出会いました。「いかに相手に喜んでいただくか、感謝してもらうかが大切」、その考え方が自分には抜けていたなと気がつきましたね。そこからスイッチが変わりました。周りの人のおかげで自分がある。自分が能力が低くても、いい人と巡りあえばいくらでもレバレッジが効いていくんだと知りました。
そんな時、取引先と社内の課題の話をしていたら、「社有車を買い換えたい」という話を耳にしました。試しに「安くなったら買います?」と聞くと「安くなるの?」と返ってきたので、取り引きがあったディーラーに見積もりを取りにいきました。すると、価格が予想外に安かったようで車を買ってもらえることになりました。同じようなことがもう1社あって、2社合わせて80台売れたんです。ディーラーでも80台売る人っていないと思います。何より、ディーラーの方や社内の偉い人が飛んできて「ありがとう」って言われたことに驚きましたね。普段の仕事でこんなにありがとうって言われたことあったっけなって。そう思うくらい色んな方からお礼を言ってもらえたんですよ。
それ以来、本業に繋がらなくても、会社の色んな悩み事を聞くようになりました。そうしたら自然と経営課題が集まってくるようになって、人を紹介してくれと言われるようになって。景色が変わり始めました。その時は数字が出なくても数ヶ月後にぼんと伸びる。ある日何人分かの成績を出せるようになって、認められるようになりました。
そんな仕事の仕方を続けた結果、最終的には社内フリーランスとして働くことになりました。会社のライン業務からは外れて、自由に会社のためになることをする。教育研修企画や営業推進、社員教育を行うようになりました。経営課題を見つけて解決することや外に出て人と会うことが加速しましたね。
転職して20年を迎えた時、知り合いの社長さんが「めでたいから、お祝い会をしよう。」と、ホテルを貸し切ってパーティーを開いてくださりました。すると、全国から200人の経営者が集まってくれたんです。みなさんそれまで私が会って回った方でした。一社員の転職20周年記念なんて、こんなことをしてもらえる人はなかなかいない、ここに生きる道があるなと思いましたね。
10年後の姿が見えなかった
50歳を前にした頃、社内の体制が変わりました。信頼の置ける役員が退任して、後ろ盾がなくなったんです。さらに新しい上司がやってきたんですが、僕とは全く考え方の違う人でした。僕のやっていることが通じない。そんな上司の元で働いていると、10年後、60歳になった時に社内フリーランスとして働いている自分の姿が見えなかったんですよね。30代、40代の時は10年後の姿が見えていたんですけど。社内フリーランスって僕以外にいなかったんで、どこかで破綻するなという思いもありました。先の自分が見えない不安は大きいですよね。そんな時に会社で倒れて救急車で運ばれてしまったんです。
病室から色々な経営者の方に電話をして「会社を辞めようかなと思っているんですよ。」と相談しました。そしたら「辞めてくれ。」と言われて。病室から連絡しただけでも、何十社か応援してくれそうだとわかりました。それで独立を決意しましたね。司法書士の友達に会社登記を相談し始めました。病室では完全にわくわくしていましたね。お客さん目線で見ると、自分がやっていることは多分正しい。うまくいく予感がして、これからが楽しみで、1週間以上早く退院したんですよ。
上司や周りに決断を促して貰ったと感謝しつつ、辞表を出したのが倒れた3ヶ月後の10月。その2ヶ月後、1月1日に代表世話人株式会社を設立。51歳でした。実は3月まで在籍すれば相当額の退職金が上乗せされたんですけど、それをもらわずに辞めました。「それぐらい稼ぎますから。」って、ある意味意地を張って退職しました。独立したのが元日だったため、「みんな応援すると言った割に仕事の連絡が何もこないぞ。」と不安になりましたが、20日過ぎから声をかけてくれて、目標だった30社以上の世話人契約が取れて売り上げが立つようになりました。
おせっかいをし続けたい
現在は、代表世話人株式会社の代表として、年間1000人以上の経営者にお会いし、経営課題を聞いています。これだけ色々な方に会うと、顧問先にとって有益な出会いが必ずあるんですよね。課題解決に直接繋がるよう、人と人を繋げています。何か細かい契約で縛られたカタチではない、50社近くの企業に、まるでお布施の様にお金を頂いて、好きなように動かせて頂いている有り難い環境です。これはサラリーマン時代とやっていることは変わりません。感謝あるのみです。
こだわりとして、紹介以外では経営者に会わないと決めています。ホームページにも問い合わせ先を載せていないんです。日々初めましての連続ですが、紹介者を信頼してお互い会っているので、10分も経たない内に本音が出てくるんですよね。悩みを聞いて、その人が喜んでくれることは何か考えることが楽しいですし、ご本人も気づかないことを言い当てた瞬間が生きがいなんです。
個人的な考えですが、日本はおせっかいの国だと思います。今の時代、おせっかいをするような「世話人」があんまりいない。僕は経営者に対しても本気で怒るし、相当厳しいことを言っている時もあると思います。でも本当にその方のためになることを言っています。
将来の目標は、福井福太郎さんのように生涯現役で働くこと。福井さんは97歳の時、会社に辞表を出したのですが、社長から「頼むからやめないでくれ。あなたが必要だ。」と言われ、104歳を超えても、なお働き続けていらっしゃいます。僕にとって働く事は生きること。食べることを止めないのと一緒です。数字的な話でいうと、今、社長個人と仲良くしている会社が1000社以上あって、1社の売上平均がおそらく5億円くらい。1000社の総数だと5千億。JALを再生した稲盛さんは1兆円の会社を2つ作ってたんですが、今の1000社への取組を継続し1社平均100億円に成長すると、10兆円になる計算なんです。10兆円のマーケットと仲良くしているおじさんになれるんじゃないかと思っています。そうなったら雇用も創出するでしょうし、関与している会社の社員数も増える。できるんじゃないかと思っているし、できるように頑張ります。
2017.05.08