中途半端なまま逃げ出したくない。未来の選択肢のため、事業に込める想い。

ケニアの最西部、ミゴリという地域で大豆を扱う商社を経営する薬師川さん。農林中金から青年海外協力隊を経て現地で起業へ。「中途半端なまま逃げ出したくない」異国での挑戦を決めた背景にある思いとは。お話を伺いました。

薬師川 智子

やすしがわ ともこ|ケニアで、大豆商社経営
ケニアのミゴリにて契約栽培による大豆の生産から、加工メーカーへの卸売までを包括的にマネジメントする、サプライチェーンサービスを行うAlphajiri Limitedの代表を務める。

好きなものを嫌いになる前に


奈良県の生駒市で生まれました。2つ違いの姉が1人います。母がとても教育熱心で、小学生の頃から授業以外に自由研究もしていました。山に行って葉っぱの葉脈を見比べたり、郵便局に行ってインタビューしてみたり。母自身、学生時代に勉強をしたくても方法がわからず悩んだからこそ、子供には興味があることをたくさん勉強して、羽ばたいてほしいと考えていたらしいです。ピアノ・書道・絵・水泳・英会話など、習い事もたくさんさせてもらいました。

そんな背景から、新しく知ることや挑戦することが好きで、特に国際協力の分野に興味がありました。元々、母の叱り方が極端なんです。例えば私が苦手なトマトを残すと、「地球の裏側のアフリカには、食べ物がない人たちがいる。あなたが残すトマトすら食べられないの。」と言われます。自分が恵まれているということだけでなく、地球の裏側の人が私のことを知ったら悔しいだろうなと思いましたね。小中学校の授業で貧困国について知ってからは、もっと関心が強くなりました。

高校に入ってからは美大の予備校に通い始めました。両親の家系に職人や芸術家が多く、私も生まれつき絵を描くことが好きで得意でした。小学2年生の頃から将来の夢は絵描きさんでした。でも、予備校に通い始めてショックを受けました。課題に対して先生が評価をつけるんですが、私はC-とかC+とか。周りにはもっと評価が高い子がたくさんいて。わたし下手くそなんだって思ってしまいました。

昔から絵に関しては才能があると思っていました。絵には正解がない。これだけは私が唯一、世界に一つしかないものを作れるジャンルなんじゃないかって。でも、評価は低いし、志望校に合格できるかもわからない。予備校で人と比べながら描くことを続けるうちに、インスピレーションがなくなってきて、絵が好きじゃなくなってくる。これはやばいなって思いました。自分の湧き上がる感情を絵にぶつけることを仕事にしたいのに、そのイメージが持てなくなってしまって。

最終的には、私が苦しむ姿を見て親に美大進学を止められました。「あなたの絵に才能はあると思う。でも、絵こそ今やらなきゃいけないことじゃない。あなたが別の道を歩んでいったら、その経験から深みが絵に現れると思うから、それを今無理矢理やることで、素晴らしい絵の才能を潰さないで」って。それで、もっと違うことを考えてみることにしましたね。

中途半端人間にならないために


高校卒業後は、アメリカに留学することに決めました。何をしたいか考えて、自分の中でのキーワードをつなげていったんです。姉がアメリカに留学していて楽しそう。英語が好きだし、国際協力にも興味がある。世の中にもっと選択肢を作れる仕事をしたい。そんな感じです。国連で働くことに憧れていました。

心の中で、絵を最後までやりきらなかった中途半端感があったからこそ、アメリカでは高い目標を定めて絶対達成しようと決めました。成績でオールAをとって、就職して、国連に入る。そう決めていました。

アメリカでは姉と同じ大学に進学し、国際協力を専攻しました。授業についていくことが本当に大変でしたね。毎日とにかく勉強。ここでは絶対に成果を出さなきゃっていう危機感が強かったです。勉強は楽しいけど、プレッシャーの方が大きいです。

結果的に、なんとかAを取り続けて、一番良い奨学金をもらうことができました。でも、いざ卒業を控えると、将来のイメージが全く具体的に持てなかったんです。国連に勤めるといっても何がしたいのか明確じゃない。就職のためには修士過程か職業経験が必要だけど、専門的にこれをやりたいというものがない。ダメじゃんと思いましたね。勉強ばっかりした結果、自分が何をしたいのかわからなかったんです。

とりあえず、もっと視野を広げなければという思いが強かった。「世の中のことを何も知らずにどうやって社会の役に立つの?」という感じです。それで、アメリカから日本企業への就職活動をして、農林中央金庫に入社することにしました。日本の農林水産に資する仕事に魅力を感じたのと、少数精鋭の社風が良いなと思いました。

鉄は冷めたら終わりだから


実際に入社して働き始めると、仕事が苦しかったですね。長崎で地元の農協の後方支援をしていたのですが、日常業務は銀行の事務作業。1円でも間違えられない、クリエイティブとは対極の仕事で、私に全くあっていませんでした。農協や農業法人の発展をサポートしていくというミッションに共感して入ったのですが、普段の業務の中にそれを見出すことができず、すごく苦しみました。

それまではいつも「これをしたい」という目標があったんです。でも、農林中金の環境ではこの先どうなりたいかが描けなくて、なんでこの1日を過ごしてるんだろうって思ってしまう。理想とのギャップに葛藤しました。

仕事のない土日は、姉に連絡して愚痴ばかり言ってました。すると、ある日の連絡中、姉から青年海外協力隊にいってみればと提案されたんです。親戚が協力隊の経験者だったんですね。Skypeで姉と通話をしながら協力隊について検索してみたら、丁度その日に長崎で説明会があって。何かの縁だと思い、すぐに説明会に行くことに決めました。

元々、中学生の頃に協力隊の人が授業に来てくれたことがあり、選択肢として興味はありました。ただ、新卒ですぐに協力隊に行ってしまうと現場で役に立ちにくいし、その後の就職イメージも持ちにくいので考えていなかったんです。それが一度就職して悩みを抱えている中で説明を受けてみると、すごく魅力的に感じましたね。小さい頃から自分の目で現場を見ることを大切にしてきて、それができずに会社で苦しんでいるからこそ、途上国の現場で働ける機会に惹かれました。最後は、説明会の人に言われた「鉄は熱いうちに打てですよ」という言葉で退職を決めましたね。本気になってその日のうちに応募用紙をもらいました。それから応募締め切りまでの一ヵ月、土日はずっと家の中にこもって用紙を書いていました。

結果的に第一志望だった、アフリカのケニアでの大豆のマーケティングを行う職種に合格することができました。元々、配属先は絶対にアフリカがいいなと思っていました。大学時代にフランスに留学していたことがあり、そのホストマザーがアルジェリアの移民支援をしていて、アフリカを身近に感じていたんです。ケニアの職種はミゴリという地域の大豆農家組合とともに大豆の普及を目指すというもので、これまでの経験が生きるんじゃないかという思いもありました。

人ってぽっくり死ぬ


ケニアのミゴリでの活動はとにかく楽しかったです。農業組合といってもびっくりするほど小さくて、電気のないオフィスに家族経営でちょこっと人がいるみたいな感じです。組合長さんとよく喧嘩してました。

例えば、きなこをアフリカ料理に組み込むためのプロモーションをやってくれ、「智子任せた!」って言われるんです。それでいて予算があるわけでもない。いやいやいや、それじゃできないよって。いつも喧嘩してましたね。でも、喧嘩しながらも、組合長さんが熱意に負けて、ちょっとお金を出してくれたりして。

そんなことをしながら5ヵ月くらい経ったとき、組合長さんが突然亡くなってしまったんです。56歳だったかな。突然脳梗塞になってしまって。

最初は、「身体がしんどい」って言ってたんです。マラリアかなって思って特別気にしないでいる。そうしたら、次の日に、「やっぱり調子が悪いから病院行くわ」って言って。それでもそんな深刻だとは思わなかった。その日の夜中、12時に同僚から電話かかってきて、“Chair man has passed away. ”って言うんです。「え?」って。悲しいと言うよりも驚きでしたね。昨日会って会話をした人が、突然ぽっくりいってしまったんです。悲しいとかよりもまず、人って突然死ぬんやって思いましたね。

同時に、これからは私一人で全部やらないといけないんだと思いました。現地の人は基本的に保守的で、隣と同じことをうちもやろうみたいな感じなんです。そんな中、新しい施策を一所懸命やっていた組合長さんは、本当に素晴らしい人だった。私はその遺志を継いでやらなきゃって考えるようになりました。

2年の任期のうち、最後の10ヶ月自分で大豆の加工会社を立ち上げて大豆の普及に挑戦しました。自分できなこを作って売ることで、ミッションを果たそうとしたんです。ただ、簡単にうまくはいきませんでした。初期投資が大きいしマーケットもない。毎日きなこを作っても、販売ができずに苦しみました。

やろうと決めたことを中途半端に終わらせたくない。その一心でケニアの首都ナイロビの市場をとにかく観察して回りました。どうすれば会社を大きくして農家の方に利益を返せるだろう。私がここで会社を経営するにはどうしたらいいだろう。そんなことを考え続けて協力隊の任期を終えました。ここで逃げずにやってみよう。そう決めていました。

未来の選択肢のため


協力隊の任期終了後、2016年の1月にケニアのミゴリでAlphajiri Limitedを設立しました。新しい会社は契約栽培による大豆の生産から、加工メーカーへの卸売までを包括的にマネジメントする事業にしました。協力隊で活動していく中で、大豆農家の人はよく売り先がわからないと言っていました。。収穫後、集荷や選別作業をして発送をしてクライアントとやり取りをして、というのを農家一人ではできないんです。一方で、大豆の加工業者は安定した量と質の仕入先の獲得に悩んでいる。生産者と消費者の両方の状況を理解してサプライチェーンを作ることができていなかったんです。日本の農協の仕組みや商慣習を知っている自分だからこそ、信頼できるサプライチェーンシステムを作ることに挑戦しようと思いました。

正直、最初は自信がなかったです。事業プランを作ってみたけど、まったく売れないなんてこともあるんじゃないかって思ってました。でも、実際に始めてみると経営者として他社ときちんと取引をすることができたんですよね。特に、ケニアでは「大手企業だから」「中小企業だから」とかいう意識がなくて、企業規模問わず相手にしてくれる。それで自信が持てましたね。

とはいえ、事業を黒字にして収益を投資に回して会社を大きくしてというのはすごく大変です。会社を経営する以上、農家側の視点により過ぎてもうまくいきません。会社として収益を立てて回るように、今はマーケットの知識をもっとつけていこうとしています。会社の成長に合わせてビジネスモデルもこだわらずに変えていこうと考えています。

まずは現実的に自分と家族が食べられるようになることを目指します。自分がしてもらったように、子どもにもたくさん教育をしてあげたいんですよね。何かやりたいと言われた時にダメって言いたくない。そのためにも事業で稼ぐことにこだわりたいです。

あとは、従業員にたくさんお金をあげたい。従業員にも家族がいます。その人たちから「子どもがこの大学に来年通うのよ」って話すのを聞きたいですよね。

まずは5年を目処にその状態を目指して、それから先はもっと大きなことを考えていきたいなって思います。

2016.09.30

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