障がい者の方々の「自己決定」をお手伝い。「何でも屋」プロジェクトがもたらしたもの。

障がい者施設にて、新しいカタチの就労支援に取り組む本間さん。自身の大病経験から福祉の道を志し、現場で働き障がい者の方々が自分で物事を決められる環境の必要性を強く感じることとなります。その根底にはいったいどんな思いがあるのでしょう。お話を伺いました。

本間 雄次

ほんま ゆうじ|障害者の就労支援
社会福祉法人伊勢亀鈴会(いせきれい会)の「きれいサポートステーション」にて、何でも屋事業の「まかせ太君」を担当する。

※本チャンネルは、株式会社ティスメの提供でお届けしました。

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小学5年生で病気が発覚


生まれも育ちも三重県鈴鹿市です。兄弟は4つ上の兄がいます。冗談をしょっちゅう言ってるような子供でした。

バスケットボールを始めたのは、小学校5年生の時。担任の先生が、クラス対抗で行われる球技大会へとても熱心に取り組まれる方だったんですね。それで私も、すっかりチーム競技としてのバスケの魅力にとりつかれたんです。この時からバスケ選手になることが、自分の夢でした。

ですが、病気が発症したのも、同じく小学校5年生の時でした。ある時から、便をした時に血が混じるようになったんです。それを母親に報告すると、病院へ連れて行かれました。母と一緒に待合所で待っていると、看護師さんに「雄二君は待っててね」と言われ、母だけが中に呼ばれたんです。私は「何か重い病気なのかな」と思いながらも、ただ待っていました。

その後、母から泣きながら、病名とその深刻さを告げられたのですが、その時の私は、わりとあっけらかんと構えていたのを覚えています。病名は、潰瘍性大腸炎。厚生労働省が特定疾患として指定している難病の一つです。

これはポリープ状のものが大腸に複数できるんです。症状は人によって個人差があり、ポリープの数が少ない人もいれば、腸全体にできる人もいます。原因は今もって不明で、症状がひどい場合は、ステロイドで無理やり抑える、といった処置をします。手術の選択肢もありましたが、私はとりあえず投薬のほうで、ずっと様子を見ていました。

その後、多少風邪を引きやすい面はありましたが、体は普通に動くので、自分の病気に対して深刻になることはなかったです。中学でもそのままバスケを続け、「高校でもバスケをやるんや」と、張り切ってましたからね。

中学の時に所属していたクラブチームは、正直あまり強くなかったんです。ですから、高校では通用しないのかな、という懸念はありましたが「チャレンジしてみたい」という気持ちは強くありましたね。

父の教育方針としては、兄には勉強、私にはスポーツ、というのがあったみたいです。父としては、私に病気があるからこそ、私が元気で体を動かせていることが、嬉しかった部分もあったかも知れませんね。「高校はバスケの強豪校へ行きたい」と言うと、「そうせえそうせえ」と言ってくれました。

2度目の発病でバスケを断念


高校は四日市の四日市工業へ行きました。全国大会の常連で、三重県では一番バスケの強い高校です。ダメ元で入部したのですが、やはりさすがにレベルが高く、練習について行くのが精一杯でした。

当時、1個上の先輩には今、全日本で活躍されている有名選手もいましたし、同期にも三重県でオールスター選手に選ばれるような人たちがゴロゴロいました。しかし、そうした人たちのそばで刺激を受けながら、1日1日ちゃんと努力していけば、いつの間にか結果はついてくるものです。1年生が終わる頃には、何とかベンチに入れてもらえるようになりましたね。

練習はめちゃくちゃハードでしたけど、やっぱりバスケが好きでしたから、それを超越しちゃうんですかね。それにチームで闘うことも性に合っていました。個人レベルで言ったら私なんてそんなに強い人間ではないですから。そういう環境があると打ち込みやすいというか、居心地がいいという部分はありますね。

ですが、2年生になりたての時に、また炎症が激しくなり、入院せざるを得なくなりました。症状は、お腹の痛みと38度以上の高熱、それと下血です。ものの数週間で60キロ台後半あった体重が48キロまで落ちてしまいました。

「オレはもう生きとれんのか」と思いましたが、薬で何とか抑えることができ、夏休みを挟んだ2ヶ月ほど入院生活を送ると、学校へ戻ることができました。医者も私が高校生であることを当然知っていましたし、手術をしてしまうと、卒業の可否に関わってくることを考慮したようです。それもあって手術ではなく、薬での治療を推し進めてくれたんです。

でも、もうそこからバスケットという選択肢は自分の中から消えてしまいました。とりあえず、普通に生活する、それ以上のことは望まなくなってしまいましたね。当たり前のように就職して、普通の生活ができるようになればいい、ただそれだけでした。

卒業すると周囲はみな、四日市の石油コンビナートや、鈴鹿の工場関係に就職していきます。私も特に強い希望はなく自動車メーカーの工場に就職が決まりました。

手術へ踏切り、そこで感じたこと


そこの工場では、ライン作業で車のシートを作っていました。とりあえずそこには、望んだ通りの、普通の生活が待っていました。病気のほうは、病院へ通うことで症状を抑えており、体調も安定してきたので、社会人バスケをやるようになりました。その時は、「このまま病気とうまく付き合いながら過ごしていけるんちゃうかな」という気がしていました。

ですが、ちょうど成人式を終えた後のタイミングでした。また炎症がひどくなってしまったんです。この病気は発症してから10年ほど過ぎると、大腸ガンの発症率が一般の人に比べると何割か増すんです。炎症が治まっても潰瘍の痕がガン化してしまうんですね。

その時、最初の発症からちょうど9年。これから10年目にさしかかるという時だったので、いっそ手術をしてしまうおうかと、ドクターを交えた両親と私とで、話し合いました。その結果、体力のある若いうちにやってしまおう、ということになり、私も覚悟を決めました。手術とは大腸の全摘出です。

工場勤めのほうは、お休みを頂きました。ありがたいことに、籍を残してくれたんです。ですが、何ぶん大手術でしたから、復帰するまでに半年以上の時間がかかってしまい、その後も、入退院を2ヶ月おきに繰り返す時期が続きました。体が安定するまでは、たびたび腸閉塞が起こり、その合併症に苦しめられたんです。

会社の温かい対応もあり、職場へ復帰することが目標だったのですが、いざ手術を経ると、自分の心の中に変化が生まれてきました。

入院中、私は管まみれで少しも動けませんでした。食事も排泄も、人の手を借りなくてはいけませんでした。自分が情けない気持ちもありましたが、自分の力だけではどうにもならないので、ナースコールを鳴らして人呼び「助けてください」って言わなきゃいけない。すると助けてくれる人がいる、そのありがたみが、本当に身に沁みていたんですね。何か人に直接携われる仕事をしたい。そんな思いが芽生えました。

その後、職場には戻れたものの、そうした気持ちがどうしても自分の頭から離れなかったので、思い切って上司のほうに退職を申し出ることにしました。しかしこの時はまだ、自分が何をやりたいか、はっきりとは見えていませんでした。無計画といえば無計画です、本当に。

福祉施設で指導員の職に就く


そこから情報収集を始めました。自分が、病院で人のお世話になったということで、医者になる、看護師になるといったことも頭をかすめましたが、勉強をやり直すにはお金も時間もかかります。そこで介護の分野に目を向け、目ぼしいところを探し続けました。3ヶ月ほど経った頃でしたかね、ある福祉法人の求人が目に止まったんです。内容を読むと障がい者の就労支援をする指導員とのことでした。

なぜそれが目に止まったかというと、もちろん「これなら資格のない自分でもできるんじゃないか」ということもありましたが、自分は工場で就労していたので、他で就労経験のない職員の人が、持っていない強みがあるだろうと思ったからです。

仕事に就いて一番に思ったのは、「障がい者の人たちってこんなに何でも自分たちでできるんだ」ということです。仕事を始める前は、障がいがある人たちはできることが少ない。自分が助けてあげなきゃいけない。なんて思っていたんですよね。

自分が大変な思いをしたからこそ、弱っている人たちを助けてあげられると思っていたし、同時に、心のどこかで、それによって自分が優越感に浸れるイメージを持っていたんです。ですが、そう思っていた自分が少し恥ずかしくなりましたね。むしろ彼らのほうが、精神的にも強く、何でも真面目に、素直に取り組みます。タオルの畳み方だって、指導員の私が彼らに教えてもらったくらいですから。

こうして2年目までは工場などの下請け作業を中心に行う就労支援センターに籍を置いていましたが、3年目には、同じ福祉法人の中で、障がい者の生活介助を行うセンターへ異動となりました。

そこは知的障害というよりも身体の障がいがある方が多く、比較的年齢層も高齢の方が多かったので、最初私が、それまでと同じような接し方をしていたら、えっらい目に遭いましたね。(笑)「何言うてんや、お前みたいな若いもんが」みたいに。それもまたすごく勉強になったというか、自分が持っていた偏見にまた新たに気付かされましたね。

そこでの仕事は生活介助をしつつ、センター内にある就労施設で、就労支援をしました。3年ほどすると、また以前いた就労支援センターに戻り、今度は理事長推進による「何でも屋」プロジェクトに、理事長から直々に指名がかかったのです。それまでは、工場の下請け作業が来るのを待っていたんですが、自分たちから営業して仕事を取ってくることにしたんです。

最初は戸惑いもありました。「本当にできるんかよ」と。「何でも屋」として、庭掃除の仕事などを取ってきても、当然、利用者さんたちに対して「○○さん家の草刈りの依頼です、行ってきてください」では済みません。私たち指導員も一緒にお邪魔し、引率しながらお仕事をします。ですから、それぞれの障がいを抱えた利用者さんたちが、どこまで作業が可能か、それもしっかり見定めた上で、工程を決めなくてはいけません。仕事内容も、草刈りであったり、不用品回収、空き家の片付けであったり多岐に渡るのです。

おばあちゃんからの感謝


そうした不安を抱えて始まった「何でも屋」プロジェクトでしたが、まだスタートして間もない時、知的障害のある利用者さんを含めた3名の班で、不用品回収の仕事に行ったことがあったんです。向かった先は、耳が不自由な一人暮らしのおばあちゃんのお宅でした。

作業が完了すると、そのおばあちゃんは筆談と精一杯のジャスチャーで「なかなか相談できなかったんですけど、やっときれいにすることができました。ありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えてきました。

筆談の紙にはこのように続いていました。「神様に出会えたような気がします」と。こんな表現で感謝をされたのは、私は初めてでした。おばあさんは参加した知的障害の方たちにも、一人ひとり手を取って感謝の気持ちを表していました。するとそれを受けた男性の一人が、満面の笑みで「いやいやいや」とやってるんです。きっとこの時、言葉にせずとも彼は「ああ、自分の仕事っていうのは、こうして人に喜んでもらえるものなんだ」と思ったのだと思います。

「何でも屋」をやることで、何より、人との交流が多くなりますし、こうした喜びは彼らにとって、施設の中の仕事では味わえないものです。私にとってはこのことは、もっともっと障がい者の方が外へ出て行く環境を作っていってあげなきゃいけないのかな、と考えるきっかけになりました。それに、特に夏場には苦労することの多い仕事ですが、こうした場面があると、すごくがんばろうという気持ちにもなりますね。

障がい者の方々の自己決定をお手伝い


当初、私を含め職員2名でスタートしたこの「何でも屋」事業も、現在では、職員9名が携わり、関わっている障害者の方々も30名ほど。常時、みんな、チームで動いています。

世の中にある仕事というのは、時代と共に変化します。その変化に対応していかないと、私たちは障がい者の方たちへ提案できる仕事の選択肢を狭めてしまいます。そうならないように、時代を先読みする力をつけていきたいですね。

私は障がい者の方でもやはり、自分で物事を決めていく環境が必要だと思っています。最初は「何でもしてやらにゃいかん」という思いがありましたが、彼らにもちゃんとした意思があります。ですから私たちは、障がい者の方々が自己決定をするためのお手伝いというか、道標のような存在でいれたら、と思っています。

自己決定をしてもらうためには、選択肢を増やすことが大事です。いつになるか分かりませんが、私が50歳、60歳になった時には、自分がそういう施設運営を任される立場になれる事が私の夢でもあります。そのために、就労支援の枠にとらわれず、障がい者支援全般の知識を身につけていくよう、生活介助のほうも段階を踏んで知識をどんどん身に付けていきたいですね。

また、利用者さんが稼げるお金の部分もしっかりとサポートしたいと考えています。現在、障がい者の方の月の平均工賃は1万5千円程度です。それで生活は安定するのでしょうか。今は国の福祉の予算で賄われているかもしれませんが、それが永遠に続くとは限りません。仕事の質を上げて、工賃を高められるようにしていきたいです。

ただ、全ての施設がそうなるべきだとも思っていません。障がい者の方も働いて工賃をしっかりと稼ぎたいという人がいれば、そうではない人もいます。あくまで選べる状態にすることが大事なんです。

大変な部分も多い仕事で、例え仕事が上手く行かなく落ち込んだ時でも、この職場はそんな気持ちを忘れさてくれる環境です。朝出勤しても、難しい顔してる人なんて一人もいません。障がい者の方々は真面目に毎日やってきて、与えられた仕事に喜んで取り組み、挨拶もいつも元気に返してくれます。ああいった姿を見ていると、暗い感情を持つこと自体が馬鹿らしくなります。(笑)

私が働く福祉法人が掲げる方針は「一生涯支援」と「自己実現」。私も就労支援だけでなく関われる障がい者皆さんの人生の最後まで寄り添い携われるような職員になりたいと思っています。就労支援についても、仕事の選択肢を用意し、障がい者の方々に少しでもその人らしい生き方を選んでもらえるよう、引き続きがんばっていきます。

2016.08.11

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