スクールカーストは底辺、ずっと自信がなかった私がフリーライターになった理由。
「バンギャルライター」として、コラムや小説の執筆を手がける姫野さん。「休日が楽しみで、月曜は会社に行きたくなかった」と話す状態から、ライター・作家として活動を始める背景には、自身に変化をもたらしたあるキッカケがありました。
姫野 ケイ
ひめの けい|ライター・コラムニスト・作家
ライター/コラムニスト/作家。
web、雑誌、スポーツ紙等でコラム、取材記事、インタビュー記事、小説などを執筆中。
Twitter:@keichinchan
公式ブログ
スクールカーストは底辺でした
一人っ子の私は、小さい頃から本を読むのが好きでした。学校の保健の先生をしていた親が、絵本や本をよく買って来てくれたんですよね。
そんな母の転勤に着いていき、小学6年生からは宮崎の田舎の、全校生徒が5人の学校に入学しました。
生徒数こそ少ないものの、作文教育に力を入れるという方針で、年に3回も作文コンクールに出すような学校だったんです。本が好きだったこともあってか、作文を書いているときは先生に褒められていたような気がします。
中学は、隣町のひと学年5人の学校に通ったのですが、どうしてもよそ者扱いされてしまい、嫌でしたね。刺激が少なく勉強ができる雰囲気でもなかったので、高校受験を見据えて、2年の2学期になるタイミングで私立の中学に編入したのですが、中3で大学センター試験の問題を出される学校だったので、勉強についていくのが大変でした。
周りは地元の開業医の子息も多く、スクールカーストは底辺でしたね。
イケイケの子たちからは、「なんでスカート短くしないの?」と聞かれるのですが、「編入したばかりだし、先生たちに申し訳ないし・・」という気持ちもあり、大人しく振る舞っていました。
それに、小学5年生の頃からGLAYが好きで、ヴィジュアル系にハマりだしたのですが、それをイケイケグループの子たちに言うと気持ち悪がられるので、そのまま高校でも大人しく過ごすようにしていました。
受験の時期になっても、将来のことはしっかり考えていなかったです。文学部に入れないなら大学なんて行かなくていい、というような考えで、苦難の末、東京の大学への進学が決まりました。
大学デビュー、V系バンドの追っかけに
そんな中高生活だったこともあり、親元を離れて状況してからは、完全な大学デビューでした。入学当初はたくさん希望があり、勉強は楽しかったし、学芸員などの資格も取りました。
テニサー等のノリはやっぱりついていけなかったのですが、同じくカーストの底辺ぽい人が集まっている民族舞踊のサークルに入ったりもしてみたんです。109で服を買い、エクステを付け、服装もかなり変わりましたね。
バイトは、大学で求人を見つけた出版社で働き、色々と勉強もさせてもらいました。
そして何より、ヴィジュアル系のバンドの追っかけに力を入れていました。たまたま入学式で隣に座った子がバンギャル(ヴィジュアル系バンドの熱狂的ファン)だったんですよね。その子にライブに誘われて、友達欲しさについていったのですが、東京のライブハウスで見たV系ライブをすごい!と思ったんです
女の子ばっかりで、みんなすごい頭を振っていて、一体感が楽しくて。
それからは完全にハマっていきました。
お客さんが少ないようなバンドが成長していく姿を追っていったり、全国のライブツアーを回ったり、とにかく全力で追いかけていました。
卒業式のわずか2週間前
楽しい時期も過ぎ去り、就職活動を迎えると、説明会に行くだけでも気が滅入ってしまいました。
父親がフリーランスだったこともあり、会社で働くことへの抵抗が少なからずあったのと、志望していた出版社のハードルが高いこともあり、受ける勇気が湧かなかったんです。
数学が苦手で適性検査は無理だと思い大手を諦め、中小も見たものの、やはりそれも諦めて、就職自体を辞めることにしました。
ところが、卒業が近づいていくにつれ、「この後どうやって生活していくんだろう?」という危機感を持つようになったんです。たぶん、初めてお金のことを真剣に考えた気がします。
そんな背景もあり、毛嫌いしていた就職課に通い、もう一度就職活動を始めました。なんとか中小企業の内定をもらったのは、卒業式のわずか2週間前でしたね。
自分を信じてみよう
苦労して入った会社は、中小の建設会社でした。社会人になってからは、定時で帰れるものの、仕事に面白さを感じられず、休みの日は大好きなライブに行って発散、月曜日は会社に行きたくない、という日々でした。
環境に対して「これは違うな」と思いつつも、資格も無いし手に職もない、転職サイトを見てみるものの、特にやりたい仕事がなく、条件欄だけ見ているという状況でした。3年は頑張ろうという気持ちで会社に行っていた気がします。
どうにかしたい、そんな気持ちで毎日を過ごしていた折、本屋で見つけた小説の公募ガイドで、南日本をテーマに扱ったマイナーな賞を見つけました。宮崎で育った私は、「これいいじゃん!」と思ったんです。
きっと出す人も多くないだろうと思い、あわよくば小説家になれたらいいな、という気持ちで、エントリーすることに決めました。そして、予想を超えて、その文学賞で最終選考まで残ることができたんです。
小さい頃から自信がなかった私にとって、本当に嬉しい経験でした。そこで、本気で物書きという仕事に向けて考えるようになったんですよ。
最初は小説家一本で考えていたのですが、知り合いのライターの方に相談したところ、確実にお金になる文章を書くことも勧められ、ライターも考えるようになりました。
それから半年間、仕事と並行してライターの養成学校にも通い、知り合いの方を介して少しずつ仕事を振ってもらえるようになっていきました。
ただ、やはり食べていけるのかは不安があり、会社を辞めるのには勇気がいりました。
それでも、最終的には自分を信じてみようと思えたんです。私は、フリーライターとして、独立することを決めました。
バンギャルライター
フリーランスになってから、もちろん暇な月もあり、営業もしました。悩んでも仕方が無いと思い、月収でなく年収で考えるようにもなりました。
幸い、周りの方に恵まれ、仕事が軌道に乗って来たのを感じています。今はコラムの連載も増え、小説の仕事も入ってくるようになりました。
フリーライターとして、なにか自分の色を持たねばと思ったところ、知人ライターから「バンギャルなんだからバンギャルライターでいいじゃん!」と言われ、「バンギャルライター」と名乗っていることもあります。
将来は、自分が深い人間関係まで身を以て体験してきた「バンギャル」をテーマに、小説を書いてみたいですね。
あとは、いち作家として、直木賞だとか、作品の映画化への憧れはあります。本当に、夢みたいな話ですけどね。
2014.05.27