クリエイティブ・コミュニティから新たなワクワク、ドキドキを創出したい。

「やりたいことをやるのがイチバン」と語る青木さん。現在は、自ら立ち上げた企業の経営とTEDx のカンファレンス活動を手掛けています。いずれにも共通しているのは、新たな価値創造を行うコミュニティを生み出していくこと。”空間そのものを活用し新体験を創出する” ソニーのLife Space UXの取り組みに対し、共創活動「Life Space UX Lab.」や体験イベントのデザイン、メディア運営など、多岐にわたり関わる青木さんに、コミュニティ作りをするようになったきっかけや、これからの活動について伺いました。

青木 竜太

あおき りゅうた|コミュニティデザイナー・プログラマー
VOLOCITEE Inc. 代表取締役社長、TEDxKids@Chiyoda 創立者/キュレーター。

※本チャンネルは、Life Space UX(Sony)の提供でお届けしました。


Life Space UX
Life Space UXは、今ある空間をそのままに、新しい体験を創出するコンセプト。
それぞれが心地よく過ごせる大切な場所、それが居住空間。私たちはその空間をもっと快適にするために、空間のあり方そのものを見つめ直し、「LED電球スピーカー」「グラスサウンドスピーカー」「ポータブル超短焦点プロジェクター」など、空間そのものを最大限に生かした製品を提案しています。

コミュニティで出会う人が先生だった


東京都目黒区の生まれです。両親は海外生活が長く、「好きなことをやりなさい」というスタイル。自由奔放な家でしたね。

小さな時から空想という妄想というか、何かひらめくと、そのことを考えたり、何か作ったり、その世界に没頭する時間が本当に大好きでした。テレビゲームを参考に、自分でキャラクターを考え、体力などのパラメーターを設定し、自分なりのゲームを紙で作っていたのをよく覚えています。自分の作った世界観で、そこからいろんな物語が生まれていく。そこに入り込んでいる自分が好きだったのだと思います。

今は新しい発想を求められることが多いので、その妄想癖はある意味とてもありがたいのですが、小さな時はそれでいろいろと問題がありました。授業中に新たな知識や刺激が入ってしまうと、妄想が始まってしまうことがあり、先生のことはそっちのけで、自分のやりたいようにやってしまうんです。

ある算数の授業で、先生が三角形の面積の求め方を教えてくれた時だったと思います。「教科書に書かれたやり方以外でも解けるんじゃないか?」とふと思ってしまい、指示された問題集をまったくやらずに、独自の方法を模索し続けた結果、とても怒られた記憶があります。(笑)

結局、自分なりの解き方が何か見つかったわけではないのですが、自分が思いついたことをやり続けている時間や、こんなやり方がないか、あんなやり方はどうだろうと試行錯誤している瞬間が大好きでした。なのに、なぜか先生は否定し、強制してくる。なんだか違和感を感じていました。

そんなこともあり、徐々に先生たちとの間に距離が生まれていきましたね。反抗心からか小学校にヘッドフォンをしながら登校したり、特に嫌いな先生の授業の時は駄菓子屋でさぼったり、学校に行かない時もありました。

そんな時に毎日のように見ていたのが、ケーブルテレビで放送されていた「ディスカバリーチャンネル」でした。学校では教わらない世界の広さや怖さ、ワクワク感などをそこから沢山学んだ気がします。想像もしてなかった話を聞ける宇宙や考古学に関連する番組をよく見ていました。新たなことを知る喜びと誰にも邪魔されずに自由に空想の世界にひたれる、そんな時間がたまらなく好きでした。もっと学校もこうだったら良いのにと思っていました。

そんな私にとっては、学校よりも実生活で出会う人からの学びの方が大きかったですね。小さな頃からよく引越しをしていて、小学校で3回、高校時代の留学など含めると10代で計14回、引越した経験があります。その度にそれまでとは異なるコミュニティに入り、考え方、捉え方、生き方が違う様々な人たちと出会ったんです。

出会った人たちの考え方や経験値が、ちょっとずつ自分の中に取り込まれていき「自分」が作られていく。そんな感覚がありました。「人は環境によって、大きく変わる」と自分のことながら思っていましたね。

残念ながら、私は今まで恩師と呼べる人や心から尊敬できる先生は一人もいません。年上だろうと年下であろうと、どんな立場にいる人間であろうと、それぞれのコミュニティを通して出会った一人ひとりが、様々ことを教えてくれる、私にとっての先生だったのかもしれません。

人生を変えた道端のCD-ROM


高校時代に留学していたオーストラリアから帰国した後は、千葉県佐倉市にある祖母の家で、田舎暮らしを満喫していました。ある日の帰り道、祖母の家の近くの道で落ちているCD-ROMを見つけました。どうやらパソコン雑誌の付録についていたものらしく、「無償OS」などと書かれていました。小学生の頃から家にあったNEC製PC-8801で、ゲームや簡単なコマンドの組み合わせで遊んでいたので、コンピューターは親しみのある存在でした。直感的に「これって面白そうじゃん」と思い、そのまま家に持って帰りました。(笑)

同梱されていた手順ファイルに従って何度かインストールしてみたのですが、中々できず、とても苦戦しました。それでも、その未知な感じにとてもワクワクしていたのを覚えています。その後、コンピュータ関連の書籍を読み漁り、独学でプログラミングを学び続けました。

もっとコンピューターに関わることがしたいと思い始め、家の近くでやっていたパソコン教室でアルバイトを始めました。半年ぐらい経った頃に、一つ年上のアルバイト仲間たちから会社を立ち上げる計画をしていると聞き、ちょうど20歳になる年に一緒に立ち上げことを決めました。

私は主に、Webサービスの開発を担当していて、i-Modeのリンクから電話をかける機能を活用して、名刺を管理するシステム、今で言うクラウドサービスを自前で開発していました。ただ、「良い製品だ」という自負があったのですが、全く契約できませんでしたね。(笑)営業力の無さもさることながら、当時はソフトウェアも売り切りが当たり前で、月額で支払うという習慣もまだ一般的でなく、学生ベンチャーに重要な顧客情報を預けるということは理解できなかったようです。当たり前と言えば当たり前なのですが、当時はまったく分かっていませんでしたね。

そんな大失敗のかたわらで、日本でパソコンが一般に普及し始めた頃と重なり、パソコン教室運営やサポートセンター業務は徐々に拡大していきました。私自身は経営というよりも、もっと深い技術や高度な技術に触れ新しいものを作りたいという思いが強くなり、新しい道を歩むことにしました。

プログラミングに没頭した20代


次に何をしようか考えていたところ耳にしたのが、「これから日本でデジタルTVの時代が来るらしい」ということ。触発されるものがありましたね。各国で既に配信されていたデジタル波を受信するTVを開発する外資系企業があり、入社することを決めました。

その会社で、プログラミングの基礎を徹底的に学びました。デジタルTVは通常のパソコンと違い、処理能力は貧弱だし、蓄積できる情報量も極端に少ないので、必要な機能だけが搭載された最適なサイズに調整した様々な独自ソフトウェアをゼロから作ることができました。

特に、数万台の製品に搭載される基盤システムやアプリケーションの実行環境の設計・実装を一人で担当させてもらえたことは本当にラッキーでした。私が構築した環境の上に、みんながアプリケーションを実装してくれて、便利だとか早いとか言ってくれることや、バグを回避してうまく使いこなしてくれている様子を見て、本当にうれしかったですね。この時の設計手法や思想、経験は、コミュニティを設計する今でも色濃く残っています。

恵まれた環境だったのですが、自分の知識や経験を再利用するような案件も増えてきていて、徐々に刺激が足りなくなっていきました。その頃、世の中の最先端の技術として、複数のCPUを使い、計算処理を飛躍的に引き上げる動きが実用段階で始まっていました。その一つである、PS3に搭載された「Cell(セル)プロセッサ」を雑誌が特集していて、それを見た瞬間に「名前も設計思想もやばい」と感じ、早速それを専門とする技術者集団の会社に転職しました。

転職した先ではハイレベルなプログラマーたちと高度な技術を使い、ソフトウェアを開発する日々は本当に楽しかったです。画像認識を使用した製品を開発する事業部をまかされるようになり、昼間はビジネス、夕方からプロジェクト・マネージメント、夜中までプログラミングという尋常でないくらい忙しい日々でしたが、ものすごくやりがいを感じていました。

技術の進歩が余りにも早くて、必死に追いついても振り落とされてしまうほどのスピード感で、掘っても掘ってもまだまだ出てくる。まるで底のない世界でした。「ヤバいな、この技術。世の中を変えるぞ」と感じられた時の感覚は本当に楽しかったです。どっぷり浸かっていました。

癌の宣告と友人の自殺で死を意識


そんな忙しい日々を送るなか、ちょうど30歳になった夏頃に「何だか体の調子がおかしいなあ」と下腹部に違和感を覚えました。9月になると徐々にその違和感の頻度と広がりを感じ、保健師の仕事をしていた妻に相談したところ、「すぐにでも病院に行った方がいい」と促され、その次の日に病院へ行きました。

診察に行ったその日にうちに、医者から癌の可能性が高い、体に異変感じ始めてから時間が経っているし、まだ若いので癌の成長も早く、全身に転移している可能性もあると言われました。もし全身に転移していた場合、余命数ヶ月ということもある。万が一のことを考えて、検査結果が出る2週間の間、自宅で家族で過ごされたほうが良いと勧められました。

もちろん最初は驚いたのですが、正直言って「あっそうなんだ」という程度。転移の可能性があると言われても、そこまで実感が湧いていなかったのもあり、あまり焦りませんでした。ただ、妻や子どもたちのことは考えましたね。「家族はどうなってしまうんだろう」と。

2週間の休暇の間、子どもたちと久しぶりに沢山遊びました。そんなある日「パパと一緒にいる時間が一番幸せ」と言ってくれたんです。刺さりましたね。何しろ、それまでは平日も週末も、朝から夜まで働き尽くめ。子どもたちとそんなに遊べていませんでした。「今まで子どもたちに、何を伝えて来れたんだろう、もっと世の中のワクワクやドキドキを教えてあげたい」と考えさせられました。

もし自分が死んでしまったら、伝えてあげることもできない。その時に宣告の意味の重さをやっと理解できました。

2週間後、診断結果は、初期の癌。手術と放射線治療でほぼ完治するだろうと言われた時は本当にほっとしましたよ。

手術も成功し、放射線治療が始まる頃、もう一つ悲しい出来事がありました。新しい道を歩むにあたり心から応援してくれた親友が自殺してしまったんです。言葉では表せないぐらい物凄いショックでした。後から分かったことなのですが、彼はすごく才能があったのに、ビジネス的なプレッシャーを感じて鬱になってしまっていたようです。そんなプレッシャーを与えてしまった環境を許せないと思いましたし、「死はいつも隣り合わせで、いつか人は死ぬ、時間に限りがあるなか、どう生きるのか?」と考えさせられました。

この二つの出来事は、大切なギフトですね。本当に大切なことを気づかせてくれました。

日本初のTEDxKidsを開催


子どもたちに向けて何か活動しようと決意したものの、自分にとってつまらないことは絶対にしたくない。子どもに何か良い影響を与えながら、自分のなかにも興味関心が湧くものを意識して見つけようとしました。

NPOとかも色々あたりました。でも、いずれもグッと来るものはなかったですね。もともと「社会のために頑張ろう」的なスローガンは個人的に好きじゃないんです。思いも大切なのですが、それだけでは本当の意味で世の中は変えられない。人の欲求と社会の課題をリンクさせなければいけないと思っていました。

ちょうどそんな頃に、国際会議「TED」からライセンスを受け、東京で「TEDxTokyo」が開催されるとネットで見つけ、これだ!と思いました。TEDの、人の知的好奇心を刺激し、惹きつけて、新たな行動を喚起するやり方が、小さな頃に好きだったディスカバリーチャンネルのリアル版じゃないかと。すぐボランティアに応募したんです。

TEDxは自分の人生にとって大きな意味を持つ活動でしたね。社会問題に対して、今までとは違うアプローチで取り組み、必死に挑戦している多くの人たちと出会い、感化させられていきました。

活動を始めて1年ほど経つ頃、「自分はなぜこの活動を始めたんだろう」と考え直す機会がありました。子どもたちに世の中のドキドキ、ワクワクを自分の言葉として伝えたいということではなかったか。そろそろ自分が学んだことをアウトプットすべき時期なのではと考え、2011年に日本初の子ども向けTEDx「TEDxKids」を立ち上げました。

一方で、TEDx の活動は想像以上にかなり忙しく、ずっと続けるためには働く時間を自分でコントロールする必要があり、独立を考え始めていました。どんな仕事で生計を立てようかと考えている時、「コミュニティを通したマーケティングや商品開発が、これからの時代で求められる」とネットで見つけました。この領域は面白いかもしれない、自分の経験とスキルを活かせるかもしれないと感じたんです。

そこで、TEDxの仲間と共に、クリエイティブ・コミュニティの創出と運営を専門とするデザインファーム「VOLOCITEE Inc」を創業しました。TEDxの知見や手法をビジネスで活かす。ビジネスで培った関係性や実績をTEDxで活かす。そんな一石二鳥のアプローチを目指したんです。

起業する前は、「そもそもそんなことがビジネスになるのか?」「プログラマーがそんなことを出来るの?」などと心配されました。でも、TEDx での活動を通して感じたことは、新たな価値創造するコミュニティをデザインすることと、コンテンツやアプリケーションを生み出すプラットフォームのソフトウェア設計には多くの共通点がある、ということでした。

例えば、ハードウェアとコミュニティ、OSやAPI と共創活動プログラム、アプリケーションとプロジェクト、データの流れとアイデアの流れなど、置き換えて考えられる部分は多々あるんです。もちろん「人」とコミュケーションすることが多いので、コンピューターのように予想通りにいかないだろうけども、不確定要素が多く、先が読めない感じがまた楽しいとも感じ、起業することにしました。

クリエイティブ・コミュニティから新たなアイデアを生み出す


不慣れなことをしていたので失敗も多々あったのですが、イベントデザイン力を評価いただき、単発のワークショップから文科省が主導する革新的イノベーション創出プログラム「COI」初のカンファレンス開催など大小問わず、様々なオファーを頂くようになりました。

その中の一つが、ソニーの「Life Space UX」の仕事です。Life Space UXは「空間そのもの」を活用して新しいユーザー体験を実現するというコンセプトの元「LED電球スピーカー」「グラスサウンドスピーカー」など、空間そのものを最大限に生かした製品を作るプロジェクトです。ソニー社外のクリエイティブ・コミュニティと共に、新製品のアイディアを考えたり、製品の新しい活用方法を考えたりするお手伝いをしています。

また、最近では、クライアントワークだけでなく、自社プロジェクトにも力を入れています。年間1万人が参加する人気音楽フェス「TAICOCLUB」と共同で立ち上げた、新たな音体験を生み出すリサーチ機関「TAICO Lab.」。年間50万人が訪れる中学校をリノベーションしたアートセンター「3331 Arts Chiyoda」と共同で立ち上げた、分野横断型の新たなアート集団やアート系スタートアップを生み出すアクセラレーター「3331alpha」の企画・運営。そして新たな茶の体験や空間をプロデュースするアート集団「The TEA-ROOM」のプロデュースなど、新しい試みに挑戦しています。

今年の7月には、東京大学の池上高志教授や筑波大学の岡瑞起准教授らと共に、「人工生命研究者コミュニティ」と他分野との共創を目的としたオープンイノベーションプラットフォーム「ALife Lab.(仮称)」を立ち上げる予定です。その他、友人の会社と新しいサービスを立ち上げるべく、水面下で開発しています。

それぞれの領域は異なりますが、根底に流れるやり方と思いはほとんど同じです。様々なコミュニティに潜む「まだ見ぬ才能と知識」を最大化させ、外部からアクセス可能にする。そして複雑な問題の解決方法や予想もしないアイデアを生み出す。結果として、ちょっと大きな話かもしれませんが、人々の行動を変革し、人類の進化に少しでも寄与できたらと思っています。

ここ数年は、様々なコミュニティと共同で立ち上げたプロジェクトを軌道に乗せるために、じっくり育てていきたいと思っています。一つひとつそれなりのボリュームなので、私と一緒に活動してくれる仲間を探し始める予定です。

あと個人的に、TEDxや自社活動で培ってきた経験やノウハウを他の人たちも活用できる形落とし込み、一般公開していきたいと思っています。特に人々の交流からアイデアの交配を生み出すやり方など、コミュニティを通した価値創造の部分をまとめたいと思っています。

自分自身の整理のためでもあるのですが、自分の作ったものが新しい何かを作ることに活用されて、もっとワクワクする世界が生まれたら最高ですね。プログラマーとしてプラットフォーム開発をしていた時と気持ちは同じかもしれません。

さらに、VOLOCITEE Inc. を起業した時も挑戦していたのですが、コミュニティ運営をサポートするツールを再度開発したいと思っています。コミュニティ x テクノロジーという領域ですね。

今でも複数のコミュニティを運営していく上で様々なWebサービスを活用しているのですが、どうも使いにくいんです。一つひとつはシンプルで、個々を使う分には十分なのですが、各作業を行うたびに違うUIと仕様のツールに切り替える必要があり、一連の流れを細切れにされてしまうんですよね。

また、活動してくれる人が100人を超えると一人ひとりのケアもできないですし、誰がコミュニティに対して貢献してくれているかもなかなか把握できません。しかもコミュニティ活動は、企業活動と比べると出入りが激しいので、アクセス権管理なども本当に大変。それらを統合したWeb サービスを開発したいなと。

子どもと一緒に爆発的成長を遂げたい


TEDxKidsも形を変えていきたいと思っています。4回目となる2014年のTEDxKidsを終えた時に、楽しんでいる子どもたちもいたのですが、親に無理やり連れてこられて、イヤイヤ聞いている子どもたちもいたように感じました。本当にこのままで良いのだろうか。子どもたちに本当に価値あるアイデアを届けられているだろうか。やり方を変えてみようと思い、昨年は一旦お休みしました。

これからは、改めて「広める価値のあるアイデアを共有する」というTED のミッションに立ち戻り、イベント運営だけではない部分にもっと注力していきたいと思っています。例えば、TED が開発した子ども向けスピーカーコーチングプログラムの活用、登壇映像をさらに広げるためのメディア運営強化、登壇者のアイデアを推し進めるためのTEDxKids Lab. の再開などを考えています。

TEDxKids という子どもたちのアイデアを発信する装置を、東京以外でももっと広げていくため、地域で主催してくれる仲間も見つけたいですし、活動をサポートしていきたいとも思っています。既にある地域では開催することが決まっています。とっても楽しみです。

全てを一度にはできないのですが、徐々にシフトしていきたいと思っています。

今、私の13歳と9歳の二人の子どもは、妻と一緒にマレーシアのペナンで暮らしています。妻は、中華系マレーシア人を母にもつ日本人です。子どもたちに自分たちのルーツの一つを知ってほしい。世界の多様性や複雑さを当たり前のこととして学んでほしい。そんな思いで数年前から計画していたマレーシアへの移住が、今年の2月、とうとう実現したんです。

子どもたちは、最初は見知らぬ土地で色々思い悩むでしょう。言葉も通じないですしね。でも彼らには予想もしない、当然親の私たちも予想できない爆発的成長が必ず待っていると思います。

私も人生で20回目の引越を終え、180人が住むシェアハウスに引越し、高校以来のシェアハウス生活を始めています。今まで一緒に活動してきた人たちとはまた異なる人たちが多く、自分が気づいていないことや視点を貰えそうな予感があります。あと数年で40歳ですが、子どもたちの成長に負けないように、私ももっともっと進化していきたいです。

2016.07.08

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