大学ではラグビー部に入りました。小学生から高校生まで野球を続けていたのですが、野球部はあえて選びませんでした。自分のレベルと比べ、大学の野球部はあまり強くなかったので、これ以上は成長できないと感じたんです。ラグビーは、ほとんどの人が大学から始める初心者なので、頑張り次第でいくらでも上を目指せると思ったんです。

「常に上を目指せる環境にいたい」というのは、私の行動原理のひとつで、勉強でも同じです。医学の勉強は奥が深く、やってもやっても天井にたどり着きませんので、頑張り続けることができます。最終的には、医師国家試験の模試で、学年3番、全国で30番になりました。嬉しかったですね。同時に、学年で3番にもかかわらず全国で30番ということは、自分の大学は優秀な人が多いのだと分かりました。優秀な人の近くで切磋琢磨できることにも喜びを感じました。

6年間の大学生活を終え、医師国家試験に合格。三重県の総合病院で研修が始まりました。現在は2年間の研修が必修となり、様々な診療科を回る総合診療方式ですが、私が医師になった頃は違いました。ですが、自治医科大学は、総合的に医療を提供できる医師を育てる大学なので、卒業後2年間は、様々な診療科での研修が義務付けられていました。

内科を中心に、外科や小児科、麻酔科などで多くの臨床研修を行いました。内科では、がん患者をはじめ、病気で亡くなるたくさんの方をお見送りしました。初めて見送った時、こみ上げてくる感情を抑えきれずに、涙が流れるのを精一杯耐えました。冷静に看護師に指示をしたり、ご家族に気を遣ったりすることはできませんでした。

現場での経験を重ねるうちに、次第に、医師として人が亡くなることを受け止められるようになりました。命を軽んじているわけではありません。人は誰しも、いつか亡くなる日が訪れます。その日までに、できることを全て尽くすこと。その上で、人生最後の死を演出するのが、医師の仕事。感情に流されずに、冷静に死の時期を見つめ、ご家族にお別れをする機会を作ってあげる。それが、医師としての死への向き合い方だと考えるようになりました。

それでも、子どもの死には耐えられませんでした。ある時、病院内で夜中にすすり泣く声が聞こえました。それは小児科病棟からで、子どもを亡くした家族の泣き声でした。その様子は、他の大人の方が亡くなった時と何かが違うように感じました。人の死に慣れているはずの私でしたが、この時、自分の担当でもない子どもの死に対して感情が抑えきれなくなり、ただただ茫然とするしかありませんでした。

この時、命の重さには、差があるように感じました。子どもの命を助けたい。ちょうど、世の中では小児科医不足が叫ばれていました。小児科医になることこそ自分の使命だと感じ、2年間の総合研修を終えてからは、小児科での専門的な研修を受けることにしました。