ミスエッセンスMAYUMIさんストーリーのトップへ
なりたくなかった美容師の道へ
3ヶ月ほどロンドンで過ごした後、親に内緒だったことが叔父にばれて、親元に連れ戻されました。父はカンカンで、「修道院に入るか、美容学校にでも行ってしまえ」と言われました。勘当寸前です。修道院に入って坊主にするのは嫌で、仕方なく、美容の専門学校に行くことにしました。
「美容師になるなら、おすすめの専門学校がある」と叔父に言われ、寮に入り、東京の美容学校に通いました。ただ、美容師になりたいとは思っていませんでした。大変な仕事だと思っていましたし、変な話、勉強ができない人が就く仕事だと、馬鹿にしていた節があります。高校では進学校に通ってそこそこ勉強ができたこともあって、すぐに一番になれると思っていました。
しかし、いざ専門学校に通い始めてみると、挫折の連続でした。どんなに頑張っても一番になれないんです。色々な美容技術の実技試験だけでなく論文形式の試験もあったのですが、論文でも一番になれません。生徒の中に、10歳位年上の医者の人がいて、その人に全くかないませんでした。馬鹿にしていた仕事で自分が一番になれないのが悔しくて、美容の勉強に打ち込むようになりました。
専門学校卒業後は、美容室で実務経験を積む必要があります。サスーンのカットを日本に導入した美容室があったのですが、そこは男性美容師しか雇っていなくて、面接すら受けることができませんでした。
別の美容室で働き始めると、当時は、美容室で働く人のために食事や洗濯などの仕事も任されたのですが、家事が得意でなかった私は、カット以外、食事の準備や洗濯などの雑務でつまずき、2軒続けて美容室をクビになりました。実家に戻り、叔父の美容室で実務を積みました。
叔父の美容室で働き始めた頃に、美容師として生きる覚悟が固まっていました。私の母は、結婚してからも仕事を続けていました。小さい頃から、母に「将来は何の仕事をするの?」とよく聞かれていました。女性が自立するために仕事を持つことは普通のことである、というのが母の教育。むしろ、働かないことの方が、ありえない選択でした。
周囲の友人たちが医者や大手企業への就職などそれぞれの道に進む中、私には美容師になるしか仕事を続ける選択肢はありませんでした。もう後戻りはできない。美容師として生きる覚悟を決めました。
馬鹿にしていた美容師の仕事でしたが、実際には簡単にこなせるものではなく、私は毎日右往左往していました。どんな仕事も、大変なことはあるし、努力を続けて乗り越えていかなければなければいけないのは同じ。そう気づき、それなら、美容師として頑張ろうと考えました。
下積みのような生活でしたが、目の前でできることに一生懸命取り組みました。私が通っていた専門学校はパーマに力を入れていた学校だったのだ、働き始めてからもパーマを巻く勉強を続け、ワインディングの全国大会で2位の成績を収めました。
ただ、いくら日本で勉強しても、サスーンのように綺麗なラインのカットを自分の手では表現できませんでした。日本の美容室とはカットに対する考え方が合わず、働きたいと思える美容室はほとんどありませんでした。地元の有名店での面接では、「日本の美容業界を変えたい」と熱く語ったところ、「美容業界にいるひとりとしてはあなたを応援するけど、うちじゃ手に負えない」と言われて、不採用になる始末でした。
22歳で結婚して、結局、パートタイムで美容室で働きました。夫の実家は会社を経営していて、朝早くから家族と夫の会社の従業員のお弁当を作り、昼間は美容室に行く生活。他にも、茶道や華道、習字の先生をするようになったり、エアロビクスのインストラクターなどもするようになりました。昔から、趣味で習い事はたくさんしていたのですが、人生をかけて美容師の仕事に取り組むようになると、そういった習い事が感性を刺激してくれと分かったんです。
ただ、肝心のヘアカットでは、技術を教えてくれる人がいませんでした。納得のいくカットを提供するため、サスーンの技術を体系的に勉強したい。日本の美容室でパートとして働きながら、年に2回イギリスに渡り、サスーンの学校で勉強しました。