「医療福祉エンターテイメント」を社会へ。母の死、一生拭えない後悔から歩み始めた道。

エンターテイメントを通じて医療や福祉を身近に感じてもらい、業界の活性化に繋げる岡さん。 自分のような「そのへんの人」に医療や福祉を知ってほしいと考え始めた背景にある「一生拭えない後悔」とは、どんなものだったのでしょうか。

岡 勇樹

おか ゆうき|医療福祉エンターテイナー
「医療福祉エンターテインメント」を通じてあらゆる人々の積極的社会参加を推進する、NPO法人Ubdobeの代表理事を務める。

2017年2月3日(金)岡勇樹さん登壇イベント「“SHARE”〜想いの繋げ方〜」開催!
【毎月更新】連載「another life. × 岡勇樹 〜私ガ社会問題デス〜」

分かり合えない孤独を、音楽だけが埋めてくれる


東京都国立市に生まれ、3歳からサンフランシスコで育ちました。日本の記憶は少ししかなく、小学生の頃から自分はアメリカ人だと思っていましたね。パールハーバーの時期になるといじめられたり、アジア人であることを馬鹿にされたりしましたが、周りと同じようにHIPHOPを聴き、ナイキのスニーカーを履いて一緒に遊んでいました。

ダンスやストリートパフォーマンスなども好きでしたね。非日常的で特別なものに感じ、憧れていました。それは勉強でも同じで、主要教科の勉強は嫌いでしたが、考古学のように日常とは離れた勉強にはのめり込みました。

11歳の時、親の仕事の都合で日本に帰ることになりました。「絶対に帰りたくない!」と、とにかく反発しましたね。

結局、抵抗は実らず、帰国して日本の小学校に通うことになりました。日本とアメリカでは勉強の進み方が全く違い、とても苦しみました。また、カルチャーの違いが大きすぎて友達ができず、いつも一人でいました。

HIPHOPも、ナイキのスニーカーも共感してもらえませんでした。もういいやと思い、毎日CD屋に行って音楽を聴いたり、新聞に出ていた考古学のニュースを切り抜いたりしていました。

高校に入ってすぐ、軽音部の新歓ライブを見て衝撃を受けました。ある曲を聴いた瞬間にバーンて全てがはじけて、感動して。ハードコアの轟音に包み込まれたんですよね。「この曲誰の曲だ?」ってなって。やられちゃって。軽音部に入った奴に、あの曲のアーティスト名を聞いてくれと頼んで、その日のうちにアルバムを全部買って、聴きまくって。自分でもバンドを組んでドラムを始めて。そこから人生が始まったような感覚がありましたね。自分が何年も蓄えていた音楽を外に出せるようになりました。

高校1年の時に、町田のライブハウスに初めて行きました。数々のアマチュアのハードコアバンド・パンクバンドがたくさんいて、暴れているのをみて、「なんだこの世界、最高だ」と思って、その中に飛び込みました。

はあはあ言いながらライブハウスの外に出ると、「どっからきたの?」と話しかけられて、音楽を語れる友達が初めてできて、「なんだこのライブハウスって、ヤバい」と。もうどっぷりハマりましたね。ずっと通い続けました。

高校2年から、米軍基地で働くアメリカ人の友達と一緒に、クラブにも通い始めました。そいつが結構な暴れん坊で。「お前クラブ行ったことないの?」と言われて、町田のHIPHOPのクラブに行きました。ちっちゃい頃から聴いてきたHIPHOPが、爆音で流れているじゃないか、と新歓ライブの時の衝撃がまた起きたんです。それから、一週間のうち曜日を決めてライブハウスとクラブに通いました。

昼間は高校でヘッドホンをつけて一人で大人しく弁当を食べ、夜な夜なライブハウスやクラブに出かける毎日でした。

母の死、一生拭えない後悔


大学生の時に、民族雑貨屋さんで「ディジュリドゥ」という長い棒のような民族楽器を買ってからは、おかしな音楽を演奏するようになりました。その店の店員と一緒に駅前でライブを始めると、ダンサーや写真家など様々なクリエイターに声を掛けられました。終いには、ストリートパフォーマンス集団「ウブドべ共和国」と名乗って一緒に活動するようになりました。

高校時代はライブハウスやクラブで、プレイヤーになれないことに悔しさを感じていたので、自分で演奏できるのは本当に気持ちよかったですね。

そんな風に、最高に充実していた大学2年のある日、母ちゃんが倒れて入院しました。がんでした。看病のため、家族で病院の近くに引っ越しました。

病気と分かってからも路上ライブは続けていました。将来は、音楽業界に進んで、レーベルを作るという目標を掲げていました。

入院して数ヶ月して、母ちゃんの容態が段々悪くなってきて。なんとなく、やばいのかなと思うようになって。抗がん剤で髪の毛がどんどん抜けていって、弱っていて。「もしかして死ぬのかな」と初めて感じました。でも、そういう話を家族とするのが怖かったんですよね。見て見ぬ振りをしていました。髪の毛も治療が終わればまた伸びてくると、信じてました。

母ちゃんは、これまで僕が何をしても許してくれていました。髪をモヒカンにしてピンクに染めて帰っても、笑って「パンクだねえ」と言ってくれて。そんな人が目の前で弱っていく。何もできることがなくて、申し訳なかったですね。唯一、僕がアホでいれば母ちゃんの笑顔に繋がるから、ひたすらアホな話をしたり、騒いだりしてましたね。母ちゃんはそれを聞いて笑ってくれて。

ある時、母が見舞いに来た友人に、僕のことを差して、「この子は本当に勉強をしないのよ。でも、この人がいれば世界は平和なの。一日一善を、理解して実践しているから、この子はこのままでいいの」と話しました。自分では気づいていなかったです。そういう風に見てくれていることを伝えてくれたんです。いきなり何言ってるんだろうと思ったけど、印象に残りました。

容態が悪くなってしばらくして、ベッドサイドで母ちゃんが頭を僕の肩にのせて、「疲れちゃった」とこぼした後、「勇樹に甘えちゃダメね」と言いました。でも、恥ずかしくて、なんて言って良いか分からなくて。「何言ってんだよ」と終わらせてしまって。

それからすぐ、母ちゃんは亡くなりました。結局、最後まで何もできませんでした。

お通夜や式などバタバタと日々が過ぎていく中で、母ちゃんには、「がんばってくれたね。ありがとう」と感じていました。でも、そこから家に帰って一人になって落ち着くと、後悔や哀しみがものすごく襲ってきて。朝飯が出てこないとか、「ただいま」と言っても「おかえり」がないとか。

遺品を整理する中で子ども一人一人に宛てた日記がありました。生まれた時からずっと成長の記録がつけてあって。1回だけ、最初から最後まで読んだんです。僕の生活が荒れてることが多くて、それに対する愚痴みたいなことが書いてありました。自分の病気が分かった後も、「今入院したら子どもが心配するから」と入院を拒否していたことも知りました。それを読んで、もうこれ俺のせいなんじゃないかと思いました。自分がしっかりしていたら、もっと早く病院で治療ができて、治っていたかもしれない。

自分の生活が、言葉が、行動が、一つ一つが人の命に関わっている。一生拭えない後悔が残りました。

人の命の役に立ちたい、音楽療法の道へ


大学卒業後は、音楽業界ではなく、リラクゼーションの会社に就職しました。就職活動の時、瞑想に関心があり、就職サイトで「瞑想」と検索したのですが、当てはまる会社は一社もありませんでした。そこで、ジャンルが近いと感じたリラクゼーション業界の中で、魅力的な社員がいた会社に入社したんです。

1年間現場で働いた後は、エリアマネージャーとして3店舗を統括しました。200人以上のスタッフをマネジメントすることになり、仕事に没頭して家には帰らない生活でした。新規店舗の立ち上げも担当し、営業系の子会社に異動になってからは、より一層忙しくなりました。47都道府県全てに出張があり、契約獲得のために各地でプレゼンをして周りました。

そんな最中、祖父が認知症にかかりました。見舞いにいく中で、自分が昔と同じことを繰り返していることに気づきました。

仕事を言い訳にして、大切なことに向き合わずに家族をないがしろにしている。契約だけを追いかける人間味のない仕事で身を削り、気づけば、まるでゾンビのような生活でした。「この仕事は、誰のためになっているんだろう?人の命の役に立ちたい」と、26歳で会社を辞めることに決めました。

次の進路が決まらないまま、毎日祖父の見舞いに行きました。ある時、昔よく一緒に聴いていた音楽を祖父に聴かせると、ものすごい反応を示したんです。音楽を聴いている時間だけ明らかに様子が違うんですよね。すごいことが起こっているなと思いましたね。

「これ、誰か取り入れてるのかな?」と思い、急いで調べてみると、「音楽療法」と呼ばれる手法だと分かりました。日本ではあまり知られていなかったのですが、これは確実に効果を生み出せると感じ、音楽療法を学べる専門学校に通うことに決めました。

自分のような「そのへんの人」に知ってほしいこと


専門学校生活はすごく楽しかったですね。座学の勉強には興味を持てませんでしたが、実習には力を入れ、様々な福祉施設を訪れて演奏しました。

ある時、離島の障害児施設で演奏する機会がありました。「障害児」施設なのに、入居している方のほとんどは、子どもでなく大人でした。なんだか子どもが少ないなと思って、話を聞いてみると、両親が施設に子どもを預けて、二度と迎えにくることがないような場所だと言われたんです。

「なんでそんなことが起きるんだ」と憤りました。誰のせいでもなく、障害を持って生まれてきただけで、一生離島で暮らさなければならないなんて。社会的な受け皿がないと説明されても、「だったら施設を増やせば良い!」と、怒りが収まりませんでした。

しかし、帰りの船で冷静になって考えてみると、「社会的な受け皿」とは設備の話ではないと気づきました。自分のような「そのへんの人」がこの状況を知ることが、最初の受け皿だと思ったんです。

そこで、専門学校の仲間に呼びかけ、イベントを開催することにしました。障害を持って生まれてくる子もいるし、健常に生まれる子もいるし、色々いるよねってことを伝える音楽イベントです。「KODOMO MUSIC & ART FESTIVAL(コドモミュージック&アートフェスティバル)」と題し、専門学校の地下のホールに、東京の福祉施設の子どもや健常者の子どもを集めて、一緒に遊ぶイベントを行いました。

中心になって準備を進めていましたが、イベント当日に祖父が亡くなり、遅れて参加することになりました。順調に進行しているか心配になりながら会場に到着すると、思い描いた光景が目の前に広がりました。感動しましたね。DJやVJやペインターがいて、音楽が鳴り響き、子どもが楽しんでいるんです。

自分がいなくてもイベントが成り立っている様子を見て、「この人たちと、もっと色々なことに挑戦したい。このイベントをもっと色々な場所でやりたい」と素直に感じましたね。

それからはイベントの幅を広げていき、卒業翌年には同じメンバーでNPO法人Ubdobe(ウブドべ)を立ち上げました。

医療福祉エンターテイメントで誰もが当事者に


現在は、KODOMO MUSIC & ART FESTIVAL(コドモミュージック&アートフェスティバル)に加え、医療福祉を学んで遊べるクラブイベント「SOCiAL FUNK!(ソーシャルファンク)」や、医療福祉従事者が所属や役職を飛び越えて繋がるトークイベント「Well CON(ウェルコン)」を運営しています。

エンターテイメントを通して、くだけた形で世の中に配信することで、学生時代の自分のように、医療や福祉に興味がない「そのへんの人」に、より身近に感じてもらいたいです。また、医療福祉業界で働く人がより幸せになれるよう、業界内の横の繋がりを作る活動にも展開しています。

他にも、医療福祉業界専門のクリエイティブ制作や、野外フェスでのキッズ&ファミリーゾーンのプロデュース、医療福祉業界で働く若者たちの素顔を紹介するフォトアルバム企画なども行っています。それらを総称して、「医療福祉エンターテイメント」と打ち出し、医療福祉の対象となる方だけでなく、業界従事者にも価値を届けていきたいです。

医療福祉は、誰でも当事者になる分野です。年を取れば介護を使うし、ケガをすれば病院に行く。後遺症が残れば障害保険を使う。でも、多くの人にとって縁遠いものでもあるんです。自分が母をがんで亡くした時も、それまでがんなんて良く知らなかったし、薬を飲めば治るものだと思っていたんです。

だからこそ、エンターテイメントを通じて、遊んでいるだけで医療福祉の情報が手に入れられるように、距離を近づけようとしています。そして、どんな人がどのような状況になったとしてもスムーズに自分の生活を送れるように、サポーターである医療福祉従事者がモチベーション高く働けるための仕組みも作っていこうとしています。

最近では活動に注目してもらえる機会も増え、政府主導の介護系の有識者会議に呼ばれたり、東京だけでなく全国で支部を開いたりと、活動の幅を広げています。今後は、より多くの人に医療福祉エンターテイメントを届けていけるよう、地域に根付いた活動を増やしつつ、個人としてはより発信力を高めていきたいですね。

2016.02.25

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