「パデル」を通じて、笑顔を日本に広めていく。苦しんで見つけた人生の使命、40歳の再挑戦。

【株式会社Padel Asia提供】スペイン発祥のラケットスポーツ「パデル」の普及を行い、東京でのパデル専用コートの設立に取り組む玉井さん。プロを目指したテニスへの思いと、経営者として探し続けた自らの使命を形にする事業。「人生をかける対象をやっと見つけた」と語る背景にはどんな思いがあるのでしょうか?

玉井 勝善

たまい かつよし|ラケットスポーツ「パデル」の普及
スペイン発祥のラケットスポーツ「パデル」の普及を行う、株式会社Padel Asiaの代表取締役を務める。

とにかくエキサイティング!スペインの大人気スポーツPadelのコートを東京に設立
※この記事は株式会社Padel Asiaの提供でお届けしました。

テニス選手の夢を諦め、将来を摸索する日々


岩手県宮古市に生まれ、千葉県松戸市で育ちました。小さい頃から運動が好きで、サッカーや野球はもちろん、駅伝やバドミントンまで、幅広くスポーツを経験しました。中学校では野球部に入りました。レギュラーでしたが、正直そこまで上手い方ではありませんでした。ちょうど、お洒落に目覚めたこともあり、髪を伸ばしてもいいスポーツがしたいと考えていましたね。

そんな時、中3の夏休みにテニススクールに通っていた友達に「一緒にテニスをしよう」と誘われました。初めてのテニスは衝撃的でした。初心者にも関わらず、何年も習っている友人と対等に打ち合うことができて、「自分は向いている!」という手応えがありました。すぐに「これをやりたい」と思い、放課後は野球部と並行してテニスの練習を始めるようになりました。

高校受験では、硬式テニス部が強い学校に行こうと、全国大会に出場するレベルの学校を選択しました。しかし、無事合格して入学してみると、実は全国レベルなのは軟式テニス部で、硬式テニス部は弱小でした。「しまった・・・」と思いましたね。すぐにクラブチームへ方向転換して、プロのアスリートを目指すような選手と一緒に練習に打ち込みました。テニスをしている時間はとにかく楽しく、ずっと続けていたいと思っていましたね。

ただ、成績としては千葉県大会でベスト8という程度。高校から始めた割には良い成績でしたが、プロになりたいという思いに対しては、限界を感じるようになっていました。結局、競技としてのテニスは高校で終わりにすることに決め、卒業後は、私大の経済学部に進学しました。父が広告系の会社を経営しており、いつかは継ぐんだろうなと考えており、父から「大学だけは出ておけ」と言われたことで進学を決めました。

大学ではキャンパスライフを謳歌していました。テニスには週に1・2回、インストラクターとして関わる程度で、仲間と遊び回る日々を過ごしました。

大学3年になり就職活動の時期を迎えた時、説明会などに周りと同じように行くことに対して、気が進みませんでした。社会と関わるイメージが持てず、働く気持ちも固まっていない。友人が開いたパーティーで出会った外国人にたまたま薦められたのをきっかけに、直感を信じて、ニュージーランドにワーキングホリデーに行くことに決めました。

現地の語学学校に入学してみると、日本人ばかりのクラスで、正直あまり面白くなかったですね。一方で、一人でフラフラしていても、「なんで来たのだろう?」と寂しくなってしまう。一ヶ月程そうやって悩む期間がありました。その後楽しみ方を見つけて、充実させることができましたが。

自分だからできること、26歳で独立


帰国した後は、将来父の広告会社を継ぐ時の役に立てばと思い、トッパンエムアンドアイ(現:TMIソリューションズ)に入社しました。父の会社が大学卒業時に倒産してしまいましたが。印刷に関係があると思い入社したところ、PCやサーバー、ITソリューションの法人営業で全く関係がないという誤算はありましたが、顧客毎の課題をヒアリングし、提案書にまとめて、という中で、仕事の基礎を学んでいきました。

ただ、会社に対する違和感も感じていました。取締役の方に「おい新人」と呼ばれたことがあり、その時に「個人として認識されていないんだな」と悔しさを感じました。自分がやらなくてもいい仕事ではないか、とさえ思いました。

社外の交流会などに参加するようになり、同世代で起業を考える人などに出会い触発されていきました。父の会社の倒産から、会社経営を通じて人に迷惑をかけることがあると知っていましたが、自分の殻を破ってみたいと思い、、独立に関心を抱くようになりました。ワーキングホリデーで、サラリーマン以外にも生き方があると感じていたことも後押しになり、25歳までに独立しようと目標を決めました。

1年半ほど働いた頃、社内で圧倒的な成果を上げている方が独立することになり、「うちを手伝わないか?」と声をかけてくれ、創業に参画することを決めました。

大企業から一転、5名でのスタートでしたが、新しい環境では毎日本当に楽しく働きました。生意気な割に仕事ができないのにも関わらず、「気持ちはあるから」と認められ、新規事業を任せてもらいました。上手く行かずにもがくこともありましたが、充実感がありました。

その後、開発力や企画力のある会社と業務提携し、コミュニティサイトの新規事業を立ち上げ、その会社の副社長になりました。途中で自社事業から受託開発へ方針が切り替わり、当時営業の統括を担当していた私は貢献できる部分が少なくなり、社長の同意を得て、並行して自分で会社を立ち上げることにしました。目標からは1年遅れたものの、26歳での独立でした。

経営者としての苦しみ、自分が人生を捧げるテーマの摸索


独立してから、テニスを再び始めるようになりました。最初は痩せたいと思ったのがきっかけでしたが、次第にのめり込んでいき、自分の中での「第二次テニスブーム」が来ました。mixiでテニスのコミュニティを立ち上げたり、100人規模でテニスのイベントを開いたり、自らも選手として大会に参加したりするようになっていきました。

有限会社チアーズと名付けた自分の会社では、ITの営業代行やエンジニアの人材派遣事業等に取り組んでいました。やはり、自分の会社となると、思い入れはとても強かったですね。途中で、事業内容や強みを考えて、並行して副社長に就いていたもう1社と合併することになりました。株式会社SORAとして、自社事業を作ろうというの期待を胸に、再スタートを切りました。

しかし、実際に合併して走り始めてみると、企画・開発に強みを持っていた会社出身の社員が次々と辞めていってしまいました。離職届が自分の机に並ぶのを見て、「なぜ、人を不幸せにしてしまったんだろう」と胸が苦しくなり、次第に、会社にも行けなくなってしまいました。会社に行かずに、コーチングを通じて、自分の本音を語ることで気持ちを整理する、という日々を過ごしました。

なんとか出社できるようになってからも、ダイナミックな判断をすることへの不安は残っていました。ワンマン経営をしていた父が亡くなった時期も重なってか、周りの意見を取り入れることに偏っていくようになっていました。

周りの経営者仲間が人生をかけるようなテーマを見つけたという話を聞く機会が増えていきました。皆、生き生きした顔で本当に楽しそうに自分の夢を語る。それを見て、すごくうらやましく感じました。会社では新規事業を作っていこうと試行錯誤を繰り返し、私個人としても、人生を注ぐ対象を摸索する日々を過ごしました。

人生をかける使命との出会い


新規事業に集中できる体制を作ろうと、2014年の10月からは私含めた4人が固定で新規事業に取り組むことに決めました。人を笑顔にしたいという思いから、事業部を「emio(笑みを)」と名付け、複数のサービスをリリースしていきました。

それでも、リスクをとって取り組んだにも関わらず、大きな結果を生む事業を作ることはできませんでした。自信を持って始めながら、結果を出すことができなかったんです。会社自体は安定した収益を継続していましたが、成果が出せなかったことへの責任を感じて内省する日々。会社のフェーズとして、より成長させるために自分より適任者がいるのではないか、という思いを抱くようになりました。気づけば40歳を迎え、ビジネスマンとしての賞味期限が近づくことに対する焦りもありましたね。

そんな時、関連会社のテニス仲間の社員から、パデルというスペイン発祥のスポーツをしてみないかと誘われました。ガラスや金網で囲まれた中でテニスをするような競技ということでした。所沢にある専用コートでのイベントに招待され、正直、あまり前向きではなかったものの、一緒に開催されるBBQに惹かれ、参加することに決めました。

初めてのパデルは、テニスに出会った時以上の衝撃でした。ラリーが続き、プレーが非常にエキサイティング。初心者でも1時間後には熱中して楽しめるような、競技としての裾野の広さもありました。「これめっちゃすごいな」と感じると同時に、「なんで所沢にしかないんだろう?」と思いました。

東京にコートを作ったらいくらかかるだろうか、と考えていくうちに、頭の中で事業計画が出来上がっていきました。同時に、やっと自分がやりたいものが見つかったという感覚がありました。パデルと出会い、使命感のような気持ちが生まれたんです。「自分だったら広められるし、広めることを求めている人もいる」と。

純粋に、私自身が楽しかったことに加え、起業以来、人を笑顔にする事業を作りたいと考えていたこと、テニスに関する事業を作りたいと思いながら、中々「これだ」と思える事業が作れなかったことも重なり、パデルに人生をかけたいと思いました。

本気で打ち込むためには、二足のわらじではいけない。長年一緒に歩んだSORAの社員一人一人と話をし、快く送り出してもらえたことで、代表を退任することに決めました。

2015年10月、人生をかけてパデルを普及していくことを決め、株式会社Padel Asiaを立ち上げました。

人生をかけて、パデルで人を笑顔にする


現在は、パデルというスポーツを日本に普及すること、パデルの施設を運営することの2つに力を入れています。発祥のスペインではテニスの3倍の競技人口がいます。初心者でも楽しめるので、子どもから大人まで、対象年齢が非常に広いスポーツなんです。また、身体と頭を同時に使うので、健康のために高齢者の方がプレーすることもあります。私のようにテニスを経験している人は実際にやってみると魅力がすぐに分かると思うので、まずはテニス経験者から普及していこうと考えています。

東京にパデル専用の施設を作ろうと、今は物件探しや資金集めに奔走しています。テニス経験のある方に対してはレンタルコートとして貸し出し、初心者の方に向けてはレッスンを提供しようと考えています。日中はマダムやおじさま、夕方はジュニア、夜はビジネスマンなど、競技を楽しめる層が広いので、平日でも1日中コートが埋まるポテンシャルがあると感じています。

ゼロから市場を作り出し、事業を作ることは非常に大変です。それでも、それが気にならないくらい、やっと自分がやりたいことを見つけた感覚があるんです。これまで打ち込んできたテニスの経験、26歳から続けてきた事業作り、そして大切にしてきたみんなを笑顔にしたいという思い。「自分が人生をかけるものはこれだ」と本気で考えています。施設が完成したら、そこに毎日泊まり込みたいくらいですね。

今後は、東京から日本全国、さらにアジアに施設を拡大していきます。パデルとテニスが共存共栄する社会を目指し、人生をかけてパデルの普及をしていきたいです。

2015.12.15

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