日本酒と漫才で多くの人に笑顔を届ける。迷った時に道を正してくれる、人との出会い。

【KURAND協力:日本文化チャンネル】きき酒師の漫才師「にほんしゅ」として、日本酒とお笑いを掛けあわせた活動をする「あさやん」こと浅浦さん。サッカー選手を目指して裸足で駆け回っていた少年が、なぜお笑い、そして日本酒の道に進むことにしたのか。お話を伺いました。

あさやん(浅浦 史大)

あさうら ふみひろ|きき酒師の漫才師
日本酒のきき酒師の漫才師「にほんしゅ」として活動する。

※日本文化チャンネルは、KURANDの協力でお送りしています

どんなことでも後から笑いになる


僕は、大阪府東大阪市で生まれました。小さな頃から人を楽しませるのが好きでした。というよりも、自分としては一生懸命なのに、周りからはふざけて見えるようで、何をしても笑われていたんです。カッコつけようとしても失敗して、「なんでだろう?」と思っていましたね。

将来の夢はプロサッカー選手で、中学卒業後はブラジルにサッカー留学に行こうと考えていました。そこで、「ブラジル語」の勉強本を探して回りました。

しかし、かなりの数の本屋に行っても、どこにも売ってないんですよね。「神様が行くなと言っているんだ」と思い、ブラジル留学は諦めることにしました。ブラジル語なんて存在しなくてブラジルではポルトガル語が使われている、それすら知らなかったんです。

ある日、「高鉄棒の下を全速力でくぐったら、何か見えるんじゃないか」と、ふと思うことがありました。そこで、鉄棒に向かって全力で走り始めました。しかし、鉄棒の手前にしゃがんでいる人が見えたので、急いで方向転換。すると、横にあった背の低い鉄棒に、喉を思い切りぶつけてしまったんです。

意識はしっかりとしていました。しかし、いくらしゃべろうとしても、声が出ないんです。病院に行くと、気道がかなり狭くなっていて死の危険があり、「今夜が山です」と言われ、そのまま入院することになりました。

突然、死ぬかもしれないという事態になって、わけが分かりませんでしたね。ところが、両親はベッドの側で、「これって、自分からぶつかったから、自殺なんかな。鉄棒にぶつかったから、事故なんかな。自殺になったらいややなあ。」と話しているんです。自分の息子が死にそうになっている時に、この両親はいったい何を考えているのかと思いました。

でも、怪我が治りしばらくしてからは、それが笑い話になりました。「どんなしんどいことでも、後から笑いになるんだ」と、考えるようになりましたね。

負けたくないからお笑い芸人に


高校生3年生の時に、サッカー選手の夢は諦めました。サッカー部の部員は7人しかいなくて、試合に出るために他校との合同チームで出場。しかし、直前に集まったチームは全く機能せず、大敗。キーパーの僕は、後ろから指示を出してもメンバーに全く届かないことに、頭がパニックになってしまいました。ペナルティエリア外でボールを掴んで反則を取られても、一瞬なぜだか分からないほどでした。

15年もサッカーをしているのに、ルールすら頭に入らないのでは、プロにはなれない。そう考え、サッカー選手になる夢は諦めました。

ただ、大学に行く学力もないし、だからといって就職もしたくはなかったので、進路に悩みました。親には、車の免許だけは取っておけと言われたので、とりあえず教習所に通いながら、進路は卒業までにゆっくり考えようと思っていました。

そんな時、教習所で、お笑い芸人と出会いました。彼は、周りの人から話を引き出して、場を笑いに変えるのがすごくうまく、僕もその人と話すのは面白いと思いました。一方で、「こいつに負けたくない」とも感じていました。

そして、気がつくと、手にはお笑い芸人養成所の入学願書を持っていました。教習所を出た後の記憶がなくて、我に返った時は、何十分もかけて願書を取りに行った帰りの電車の中でした。

「いったい何をしていたのか・・・」と自分でも思いました。でも、教習所で会った芸人に負けたくない気持ちが強く、サッカーとは違うところで何か勝負したいとも思い、お笑い芸人を目指して養成所に入ることにしたんです。

1年の養成所生活では、人前に出られる人間になるために、様々なことを学びました。その中でも、売れている先輩芸人から、芸人としてどうあるべきかの前に、人としてどうあるべきかを、その姿勢から学べたことが何よりの収穫でした。

オリンピックと同じ4年のくくりで


僕は、場を仕切って面白くできる芸人になりたいと思っていたので、ツッコミを学んでいました。しかし、養成所時代に組んだコンビでは、ツッコミが下手なことを怒られて解散。その後、卒業してから1年は養成所のアシスタントをしていたので、お笑い活動はあまりできませんでした。

卒業後2年目の時に、養成所の同期とコンビを組んで、漫才コンテストに出ることにしました。コンビ名は、居酒屋で「次に聞こえた言葉にしよう」と決め、「にほんしゅ」にしました。ノリで決めた名前で、日本酒に関係する漫才をするわけでもありませんでした。

しばらくは、漫才もコントも全くウケない時期が続きました。初めて出場した漫才コンテストでももちろん予選敗退。悔しくて、絶対にウケるまでこのコンビで続けようと思いましたね。

ある時から、漫才で僕がボケを担当することになると、それまでとは反応が少し変わりました。それでも、事務所が運営する劇場のオーディションを受けるも、選考には一向に通りませんでした。一方で、テレビの中では、同世代の選手がオリンピックで大活躍していました。その姿を見て、「4年後も同じ位置にいたら解散だな」と相方と話し、そうならないために努力を続けていきました。

その後、劇場に出演するようになっても、たくさんいる芸人の中では埋もれていました。アルバイトもしながら、ごくたまにテレビや営業の仕事がある程度。相方は、普通の漫才以外の武器も作りテレビでも使ってもらいやすい芸人になろうと、コンビ名にちなんで日本酒ナビゲーターの資格を取りました。

それでも、仕事が増えるわけでもなく、またオーディションの位置まで落ちてしまいました。気づけば、約束の4年。しかし、相方は約束を全く覚えてなかったんですよね。「そんな気持ちで4年間過ごしていたのか」と、怒りが湧きました。ただ、漫才のレベルは少しずつ成長しているのは明らかで、もう少し続けてみることにしたんです。

フリーを続けるのか、それとも事務所に戻るのか


しかし、一定以上の芸歴があると劇場に出演できないことになり、僕たちもその対象に入ってしまいました。同じ頃、相方が日本酒ナビゲーターの資格を取った時の講師から、日本酒を学ぶために、酒販店で修行しないかと誘いがありました。「にほんしゅ」と言う芸名なんだから、もっと日本酒を知りなさいと。

ちょうど日本酒関連でテレビに取り上げてもらったこともあり、事務所を辞めてフリーになって修行することに、相方は前向きでした。でも、僕は日本酒のことは良くわからないし、何より今の事務所を辞めるなんて考えられませんでした。先輩や同期、後輩芸人が大好きだったので、その繋がりを切りたくなかったんです。

しかし、そのことを先輩芸人に相談すると、怒られてしまいました。「事務所が同じだから繋がっているわけやない、人として繋がってるんやろ」と。その言葉にハッとしました。確かに、そうだったと。事務所を辞め、フリーで活動する覚悟が決まりました。

そして、事務所を辞め、期間は半年間と決め、千葉県にある酒販店に住み込み、日本酒を勉強しながら修行することにしました。ただ、酒販店での仕事をする中では、単純な肉体労働もあり、「自分はいったい何をしているんだろうか」と、疑問に感じることもありました。

それでも、日本酒の知識は次第に磨かれていき、お店に併設されたバーで、「日本酒漫才」を披露するようになり、そこでのご縁が世界を広げてくれました。イベントの司会に呼んでもらったり、不動産屋を紹介してもらい、格安で東京に住み始めることもできたんです。

ただ、半年間の修行が終わる頃には、フリーで日本酒関係の仕事を中心にするのか、どこかの事務所に所属してお笑いに力を入れるのか、悩んでいました。ご縁で日本酒の仕事はもらえるけど、まだまだ勉強を続ける必要がある。一方で、事務所から漫才コンテストに出て優勝したいとも感じていました。

前の事務所から戻らないかと誘われていたことも、心が揺らぐ原因でした。しかし、先輩にその状況を相談すると、「何考えてんねん」と怒られてしまいました。事務所を辞めた時の覚悟を忘れたのかと。

その覚悟と、辞めた後の活動が間違っていなかったから、今声がかかっている。それなら、コンテストで優勝するなんて小さなプライドにこだわるよりも、今目の前でやっていることを積み上げたほうが、カッコいいじゃないかと。

その言葉を聞き、フリーを続ける覚悟を決めました。多くの芸人の中で埋もれてしまう可能性のある事務所に入るのではなく、フリーでも、目の前の縁を大切に積み重ねていき、自分たちだけの立ち位置を確立しようと。

漫才を通して、楽しく日本酒の知識をつけてもらう


現在は、東京を中心に、きき酒師の漫才師として、日本酒に関わる様々なイベントで、日本酒を取り入れた漫才を披露しています。日本酒を飲み始める人に、どんなお酒が飲みやすく、どうすれば悪酔いせずに楽しめるか、知識をつけてもらえるような漫才です。

また、相方はきき酒師の上の資格である、「日本酒学講師」を持っているので、日本酒ナビゲーターの認定授業も行う予定です。授業自体はいたって真面目なのですが、その中でも楽しく学んでもらえるように、僕も一緒にやっていく予定です。

今は、お酒の仕事に集中するために、お笑いライブなどにはほとんど出ていません。また、目の前の仕事を積み重ねると決めてからは、短期的な目標は、あまり持たなくなりました。色々と考えることもあるけど、なるようになるし、流れるように身を任せたらいいかなと思うようになったんです。

一方で、将来的には、酒蔵でお祭りやお笑いライブを開催したいと考えています。小さい頃からお祭りの雰囲気が好きで、あの空間を自分で作り出したいんです。酒蔵で開催することで、その地域自体の知名度を上げたり、人に来てもらったりして、日本酒に恩返しもしたいですね。

また、個人的にはたくさんの人と会っていきたいです。毎晩、その日に会った人のことを思い出して、「こんなこと話したなぁ」と考えるのが好きなんです。そういう時に、次のネタが浮かんだりするので、キャンピングカーに住んで、色々な人と会う放浪生活をしたいとも思いますね。

これからも、人とのご縁を大切にして、目の前のことを積み上げていきます。そして、きき酒師の漫才師として、みんなの笑顔を引き出していきたいですね。

2015.12.11

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