もう一度、働く人が輝く社会に。父と兄の意志を継ぎ、主婦から2代目社長へ。

東京都大田区に拠点を構える精密金属加工メーカーの2代目社長を務める諏訪さん。自身の生まれる前に亡くなった兄の代わりとして育てられ、卒業後は自動車部品のエンジニアに。その後、家業への入退社を繰り返しながら、専業主婦として働いていた32歳のタイミングで社長に就任。不安の中、新たな挑戦を決めた覚悟とは?

諏訪 貴子

すわ たかこ|精密金属加工メーカー経営
東京都大田区に拠点を構える精密金属加工メーカー、ダイヤ精機株式会社の2代目社長を務める。

※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、諏訪 貴子さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年12月6日(日)18時30分から放送されます。

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兄の代わりとして育ち、自動車部品のエンジニアに


東京都大田区に生まれました。私には8個上の兄がいたのですが、私が生まれる2年前の6歳の時、白血病で他界しました。父は兄の病気の治療費のために独立して精密金属加工メーカーを作り、次に生まれてくる子どもに会社を継がせたいという思いを抱えており、そんな思いを持って育てられたのが私でした。そのため、小さい頃から会社に遊びにいき、社員の方と一緒に遊んでもらう機会が多く、何をしているのかは分からないものの、会社を身近に感じて育ちました。

父からは「兄の代わりとして生まれた」と言われ続けていましたが、直接会社を継いでくれとは言われずにいました。私自身、それを尋ねることで将来が確定することに怖さもあり、質問することもせずにいました。正直、幼い時は生まれる前に亡くなった兄の存在をイメージしにくかったのですが、中学生になって行った法事の際に、分骨していた兄の骨を納骨することがあり、真っ白い小さな骨を見て、自分の中で兄の存在が確実なものとなりました。また、その骨壺を抱いて父が号泣していたことにも衝撃を受けました。いつも面白くニコニコしていた父のその姿を見てからは、「兄の代わりとして生きなければ」と強く考えるようになりました。

そして、高校生になり将来について考え始めると、兄が亡くなった理由を知りたくて医者になりたいと考えたのですが、父から工学部に進むよう指定されたんです。「もし兄だったらどうするか」と考えた結果、父の勧め通り私大の工学部への進学を決めました。

大学に進学してからは、バブル真っ盛りということもあり、周りと遊びながらも、研究にも力を入れていました。男の子のように育てられたので、車やバイクが好きで、大学にもバイクで通学していましたね。

ところが、ちょうど就職活動を迎えたタイミングでバブルが崩壊。一気に市況が悪くなりました。私自身、ぼんやりとですがアナウンサーの仕事に憧れを抱いていたのですが、実際に資料請求をしてみると、工学部ということもあり、テレビ局でも技術職の資料しかもらえなかったんです。そこで、「チャレンジしたけど、ダメなんだ」という思いから諦めがつき、父の言う道に進もうと、紹介された一部上場の自動車部品メーカーの秘書の面接を受け、内定をいただきました。


しかし、実際に入社をしてみると、新卒社員の写真撮影のために渡されたのはつなぎの制服でした。父から秘書と聞かされていましたが、それは嘘でエンジニアの職種だったんです。とはいえ、もしかしたらと予感もしていた私は、「やっぱり・・・だよね」という感覚でした。

結婚出産を機に肩の荷が下りるも、入退社を繰り返す日々


実際にエンジニアとして働き始めると、上下作業着の女性は一人だけなので、周りから面白がって見られていましたね。また、父の会社はその会社の取引先でもあったので、特別扱いの社員のように思われ、あまり良く思われていないように感じました。それでも、同じ部署の先輩が親身になって守ってくれ、少しずつ仕事を学んでいきました。父からは、立場上誘いは断るなと言われていたため、毎日何かしら会食に行き、週末はゴルフにも行き、ものすごい貧乏生活を送ることになりました。生のお米を食べてお腹を壊したり、通帳が残り2桁になったり、とても大変な日々でした。

それでも、実際に仕事をしてみると、父の会社や業界自体を理解することにもつながり、非常に勉強になりました。ただ、どうしてもエンジニアに必要になる体力の部分では男性でないと厳しい部分もあり、限界を感じる面もありましたね。

その後、2年働いた後、結婚・出産のタイミングで会社を退職しました。しかし、子育てを始めてみると、元々憧れていた専業主婦に3日で飽きてしまったんです。世の中から取り残された感覚があり、子育てをしながら仕事をしようと考え、夜中にブラインドタッチの練習をするようにもなりました。何より、子どもが男の子だったので、この子を会社の2代目にしようということになり、自分の中で肩の荷が降りた感覚がありました。

それからは、自分が本当にやりたいことを考えて、結婚式の司会等の専門学校に通い、フリーランスとして司会業をするようになりました。しかし、驚いたことに、実際に司会を務めてみるとモチベーションが続かない状況に。司会に「なる」ことが目的となってしまっていたため、結局2年弱で辞めることに決めました。

また、父から依頼を受け、並行して実家のダイヤ精機でも働くようになりました。そして、総務の仕事に就き、社内分析を行ってみると、業績に対して社員超過であることが分かったんです。そこで、父にリストラ施策を提案してみるも、「明日から来なくていい」と、私だけリストラされることになりました。社員の方からは引き止めてもらったものの、社長の言うことだから仕方ないと思い、退職を決めました。「なんでわかんないんだろう?」と感じましたね。その後も、また入社して、方向性の違いで再びクビになってということを繰り返しました。

32歳で訪れた突然の事業継承と社長就任


それからは主婦業を中心に、週一回だけスイミングのコーチとしてパートで働く生活をしていました。そして、夫がアメリカ転勤になったため、1年間私も一緒に付いていく準備をしていました。

ところが、そんなタイミングで父が肺がんであることが分かったんです。そして、「もう一回会社に入ってくれ」とお願いされました。正直、創業者の家族が出たり入ったりすることはあまり良くないという思いがあったのですが、父からの期待もあり、「3度目に入社する時は、骨を埋める覚悟でやります」と伝えました。

すると、その後すぐに父が亡くなりました。そして、残された社員から、とにかく全力で支えるから社長になってくれと伝えられたんです。もしかしたら、いつか社長にならなければいけないのかもしれないという感覚はありました。しかし、まさか32歳でなるとは夢にも思ってもいませんでしたし、社長の仕事等全く分かりませんでした。

そこで、色々な人に相談をしてみるも、周りの人は誰もアドバイスをしてきませんでした。そして、私は今まで自分が自ら決断をしてこなかったことに気付きました。これから先は、自分で決断をして責任を取らなければいけない、と。

そして、社長不在の状況に決着を付けられるのは兄の代わりの私だという思いから、社長に就任する覚悟が決まりました。上手くいったらラッキー、ダメだったら関係者全員に土下座する覚悟を持とう。大きな不安を感じながら、社長としての仕事を始めました。

最初に行ったのは、やはりリストラ施策でした。町工場で30代の創業一族が経営者となると、対外的な信用はゼロです。事業の状況も良くなかったため、なんとか結果を出さなければという思いがありました。社員は私に社長になってほしいと頼みながらも、それは役職のみの話で、実質の会社経営は他の人が行うという想定を持っていたため、最初は私とぶつかることばかりでした。

それでも、コミュニケーションを続けることで相互の理解が深まっていき、年上の社員とも、少しずつ分かり合えるようになっていきました。また、2004年からは業界に神風のようなプチバブルが訪れ、事業は順調に回復していきました。まるで父の置き土産のように感じました。

働く人が輝く社会になるために、私ができること


父は生前、大田区の商工会議所のリーダーを務めており、これ以上大田区のものづくりを悪化させてはいけないと語っていました。私もその意志を継がなければという思いから、自社で取り組んでいたITを用いた生産管理ノウハウを公開することに決めました。

元々、会社自体は自動車の部品メーカーを顧客に測定具を作る、多品種少量生産の精密金属加工メーカーなのですが、一ヶ月の出荷点数が1万点、図面が7千点もあるのに、それら全てを紙で管理して毎日探し回っていました。その上、どんぶり勘定で原価の計算も曖昧な状況でした。

そこで、バーコードを利用して生産管理をITで行うことで、社員の頭の中にあった情報をデータベース化する試みを行ったんです。高度経済成長期とは違い、考えるものづくりが必要だという思いがありました。

自社での効果があったのにも関わらず、業界全体のためにと公開したそのノウハウは他社の注目を全く集めずにいました。そこで、自ら論文を書き、国からIT経営実践企業の認定も受けると、次第に中小企業向けの講演等のオファーをいただけるようになっていきました。

それ以来、自らの経験に基づいた事業継承と経営改革や、どの業界も悩んでいる人材確保と育成、新規顧客開拓の方法等をテーマにした自社の事例に基づく経営手法を全て公開しています。講演から出版・論文・ブログやFacebookにいたるまで、微力ながら本気で中小企業・小規模企業を活性化させたいという思いがあり活動しています。

小さい頃から町工場が身近にある環境で生きてきて、働いている人は皆輝いて見えました。もう一度、働く人が輝く姿を見たいんです。経験の浅い私でもできることがあるのだから、同じような課題で悩む人にとってのヒントに少しでもなることができればと思います。

そうすることで、世の中のために技術を残していき、社員全員が大田区に一戸建てを建てられるような会社にしたいですね。そして、最期に、ああ楽しかったと言えるような人生にしたいです。

2015.11.30

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