「失敗して、恥をかいて、進んでいけばいい」私が、三味線とデザインで伝えていきたいこと。

広告代理店のアートディレクターとして有名な広告を手がけ国内外を飛び回る一方、3年前に澤田流津軽三味線名取を襲名し、地道な演奏活動を続ける澤田邦風さん。「津軽三味線は私のライフワークです」と言いきる邦風さんが自身の活動を通して伝えたいこととは?その生き方に迫りました。

澤田 邦風

さわだ くにかぜ|広告代理店勤務・津軽三味線名取
広告代理店のアートディレクターとして働く傍ら、澤田流津軽三味線名取を襲名し、ライブやボランティアでの演奏活動を行う

これなら誰にも負けない!大好きな絵を活かした仕事に就く


私は愛知県名古屋市に生まれました。幼い頃から絵を描くのが好きで、「外で遊んできなさい」と言われても部屋で絵を描いていました。小学校時代は授業中も絵を描いていました。そのせいで教科書は絵で真っ黒。親に見られて「ちゃんと授業を聞け!」と怒られることがよくありました。どんな絵を描いていたかというと、主に人。人の表情です。人柄やその時の気持ちを想像しながら「僕だったらこう描く」という絵を描いていたのです。そんな風にしたあと、友達に見せるのが楽しみでした。

中学生のとき、兄の影響で「夢の祭り」という、三味線を題材にした映画のビデオを見ました。その音色は素晴らしく、「こんなダイナミックな演奏があるのか」と心を揺さぶられ、「三味線を弾いてみたい」と思うようになりました。しかし、近くに津軽三味線を習える教室がなく、どう始めたらいいのか分からず、結局は諦めてしまいました。

その後は地元の高校に進学し、父や周囲の勧めで理系に進みました。大人になった時の仕事をどのように選んでいいのか知識がなく、言われるがまま理系を選択しました。

しかし、次第に「自分の道は自分で決めたい」と思うようになりました。何も知らなかった私は図書館にこもり、様々な分野の本を読み漁りました。そうして、本を探しては読んでいたとき、書棚に並ぶ本のタイトルの中から「デザイン」という文字が目に飛び込んできました。よく読んでみると「デザインの仕事なら大好きな絵を活かせる」ということに気が付いたんです。私はデザインの道に進みたいと思うようになりました。もともと絵を描いてみんなに見せ「どう思うか」「どう感じてどういう気持ちになるのか」を感じるのが好きだったこともあり、多くの人に見てもらい、多くの人がどう思ったかを知ることのできるデザインの仕事は自分にぴったりだと思いました。

工学部工業デザイン学科を専攻し、大学から上京しました。4年後、専攻を活かした道への就職を考えました。しかし、就職活動をしていた際に、ふと「本当にやり残していることはないか」という自分の声がきこえました。私は、歌舞伎などの華やかな舞台の影の力持ちである、「黒衣」に興味がありました。あの人たちを描いてみたいと心の中でずっと思っていたのです。「今やりたいことは、今しかできない」と就職を辞め、大学院に進学しました。2年間、黒衣を描いているとますますデザインの仕事に憧れていきました。2度目の就職活動に臨んだ際、自分のデザインを一番たくさんの人に見せることができる会社はどこだろう」と考え広告代理店を志望しました。卒業後24歳で広告代理店に入社し、デザインの中でも最も幅の広い仕事と考えたアートディレクターの道に進みました。

勤めて10年目の秋。脳裏に蘇った三味線の音


それからは、無我夢中で仕事をしていました。仕事内容は、ポスターや雑誌広告、看板広告など世の中にある平面の広告のデザインやアートディレクションをするというもの。出張も多く、1年に何度も海外に行かせて頂きました。業界は、同期はみんなライバルというような競争社会です。周りの成功を素直に喜べなかったり、自分さえよければというような気持ちで上司にアピールしたりもしていました。そんな自分のままで時間は流れ、10年程経ちました。

入社して10年目の33歳の秋。ふと三味線の音を思い出し、弾きたいと思いました。今度は思い立ってすぐに教室を探しました。調べたところ新宿に「澤田 勝邦」という人の教室があると分かりました。その門を叩いて震えながら入っていきました。自分以外にもう一人50代くらいの男性の方がいました。教室を丁寧に案内して頂き、師匠の音も聴かせて頂き、さらに惹かれました。でも、33歳は何かを始めるには遅過ぎるのではないかという思いもあり、迷っていました。そこへ師匠が「やってみたら?」と声をかけて下さった。私は津軽三味線の世界に飛び込みました。それまで三味線はもちろん、楽器には触れたことが無い状況からの挑戦でした。

33歳。仕事はベテラン、津軽三味線はチャレンジャー


それからはどこへ辿りつくのか分からないまま夢中で練習しました。仕事も忙しい時期で終電を逃してタクシーで帰ることも多く、ひどい時は朝方まで会社にいることもあります。こうなると練習時間を確保できません。でも、自分に言い訳をしないようにしようと努めていました。睡眠時間を削って練習し、辛いときもありました。でもうまくなれるかどうかは全て自分次第。自分次第だとしたらやれるだけやろう、少しずつでもやれば少しずつでも前進するだろうと思ってやっていました。 

そんな背景もあり、40歳で名取になることができました。名取になると演奏活動が許されるので、私も始めたものの、とにかく失敗ばかり。とある舞台で私は演奏の途中で糸を切らしてしまい、お客さんに頭を下げて舞台の袖に引っ込みました。その時、ある三味線のプロの方に「そんなことでどうするんだ」と叱責をされました。「お前には失うものなんて何もないのだから糸がきれてもお客さんの前で頭を下げて、もう一度弾かせてもらえばいい。その場で糸をむすび直して、もう一度弾けばいい。そうすれば失敗したという経験ではなく、人前で糸が切れても直して弾いたという財産になる」というのです。その言葉を聞いて私はハッとしました。これからは何もかもをさらけ出していこう、どんどん恥をかいていこうと決めました。

三味線を始める前までの自分は、失敗なんてしたくないし人に恥ずかしい所も見せたくない、良いところだけ見せて周囲にアピールすればいい、と思っていました。大きな変化でした。挑戦して失敗することは、無難で安全なところにいるよりも自分自身が成長すると気付くことができたのです。仕事でも年齢的にベテランであってもチャレンジャーとしてどんどん新しい仕事をしていきたいと思えるようになりました。さらに後輩に対しても、いいことだけではなく、自分が失敗したこと、これから失敗しそうで怖いこと、迷っていること、すべてをさらけ出して伝えるようになりました。

ボランティア演奏での気付き。聴き手の心を聞くということ


私は名取になって少ししてから「まだだれもやっていないことをやろう」と「SPIRIT」というライブを立ち上げていました。有難いことにお客さんもたくさん来ていました。でも、次第に「これでいいのかな?」と思うようになりました。「自分のことをだれも知らないような所に飛び込んでいって、自分一人で何ができるかを試さなくていいのかな」という思いが強くなっていきました。

そこで、ボランティア演奏を思いついたんです。自分一人の演奏を老人ホームのおじいちゃんおばあちゃんに聴かせたいと思い、片っ端から電話をかけました。なんとか演奏先を見つけて飛び込みで演奏にいったのですが、頭が真っ白になって途中で演奏が止まってしまいました。おじいちゃんおばあちゃんから全く反応がなく、喜んでくれているかどうかも分からなかったことが原因でした。焦るほどに演奏がもつれ、しゃべりも崩れ、終わったときには汗だくでした。次回来るのをやめようかなと思いましたが、施設の方に「来てください」と言っていただき、もう一度演奏に行きました。でもまた同じでした。3回目行ったときにもうダメだなと思いました。途中で退場してしまう方、耳をふさいでいる方…。その次に行ったときは演奏をやめて「何をしたらいいですか?」と正直に分からないことを聞きました。そうしたら、ぽつりぽつりと声が返ってきました。補聴器だから大きな音が聞きづらいこと、三味線が分からないから手拍子もできないこと、東京音頭や美空ひばりさんなど馴染みのある曲を聴きたいこと…。その時初めて、自分は聴き手の心をまるで聞いていなかったことに気が付きました。

私は練習を変えて、「さくらさくら」や「花は咲く」など津軽三味線ではない曲も演奏するようになりました。するとおじいちゃんおばあちゃんの顔色が変わり、毎回握手してくれたり抱き着いてくれたりするおばあちゃんも出てきました。これをきっかけに色んなことが変わり、様々な施設から来てくださいと声が掛かるようになりました。それからは、「何をすればいいですか?」と施設の人に聞き、色んなリクエストに応えて演奏をする形に変えていきました。

三味線で、仕事で、「もっと人の心に触れていく」


アートディレクターというデザインの仕事は自分の天職だと思っています。いくらでもアイデアが湧いてくるし、忙しくても辛くなることはありません。一方で、ボランティアでいろんな所に飛び込んで演奏する三味線は私にとって人間として成長するための修行と考えています。三味線は糸3本のシンプルな楽器。とても正直です。弱い心、ずるい心、ごまかしの心が全て音に現れてしまう…。師匠の演奏は温かいし大きいし、自分自身が成長すれば自分の音もそうなると考えています。三味線を通して自分という人間を磨けば、デザインの方でもより色んな方と誰かの心を打つ仕事ができるようになるかもしれない。いつか仕事も演奏もできなくなったとしても、自分という人間が向上さえしていれば何か違うことを始められるとも思うのです。

三味線の活動は私にとってライフワーク。やり続けることでまずは自分が成長し、そのうちに聴いてくれている人を元気にしたり、幸せにしたりということができたらいいなと思っています。自分の失敗、成長をみて、どこかで誰かが元気をもらってくれていたら嬉しい。失敗して、恥をかいて、自分を磨きながらこれからも一生懸命続けていきたいと思います。


インタビュー:髙野 詩織

2015.11.26

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