不動産投資をITで再構築する。大学中退・新聞配達を経て至る、仕事への覚悟。
投資用不動産の直接取引ができるwebサービスの展開を狙う巻口さん。幼い頃から参謀役に憧れナンバー2としての活躍を目指すも、大学受験の失敗・中退を経て新聞配達で生計を立てる日々へ。そんな環境から不動産・経営コンサルを経て、自ら新たな挑戦を決意した背景にはどのような思いがあったのでしょうか?
巻口 成憲
まきぐち しげのり|投資用不動産の直接取引サービス運営
投資用不動産を売りたい方と、買いたい方が直接取引できる、「jikauri(ジカウリ)」という業界初の直販サイトを運営する、リーウェイズ株式会社の代表取締役を務める。
大学を3ヶ月で中退、新聞配達のバイト生活へ
私は新潟県新潟市の、親戚が皆料理人で職人気質な家庭で生まれ育ちました。小中学校とわりと勉強が好きだったこともあり、中学生になってからは生徒会長をつとめました。しかし、何かに熱中すると、周りを巻き込んで後先考えずに突っ走ってしまうタイプだったため、自分の意見から、周りに細かな作業を夜遅くまで大量にさせて迷惑をかけてしまうことなどもあって、人の上に立つ難しさをその時つくづく感じました。
それからは、将来はトップを目指すのではなく、どちらかというと三国志の諸葛亮孔明のような参謀役のナンバー2になろうと考えを変えて勉強をするようになりました。ただ、高校では県大会で優勝するレベルのラグビー部に入部をしたため、ラグビー漬けの日々に。3年生の1月に引退するまではほとんど勉強ができていない状況でした。そして、引退後に将来の進路を考えるようになると、自分がイメージできる範囲で究極の参謀役だった弁護士に憧れを抱くようになりました。元々家業を継ぐことに関心が無かったことに加え、専門性を特化することに憧れもあったんです。
ところが、短期間での勉強で迎えた大学受験で失敗。周りの友人がいわゆる難関大学に進む中、自分は滑り止めの大学しか受からず、呆然としてしまいました。「俺の人生もうだめだ」と投げてしまいそうになりました。
それでも、司法試験に合格すれば状況は変わると思い、そのまま大学に進学し、すぐにダブルスクールで勉強を始めました。しかし、司法試験サークルやテニスサークルにも入ったために毎日飲み会に誘われるようになり、バイトもできず、風呂無しの家賃2.5万円の部屋に住んでいるのにも関わらず、家計が回らなくなってしまうことに。なんだか、このままずるずると自分の反骨心や情熱が失われていくような危機感もあり、「このまま大学にいたら自分がダメになる」という思いから、入学してから3ヶ月で大学を辞めることに決めました。
とはいえ、その後の明確なビジョンがあるわけでもなく、実家からは勘当され、まずは生きていくために、土方仕事や訪問販売、セミナー講師など様々なアルバイトを経験しました。スクールの学費の返済もあって毎日ギリギリの生活で、新聞紙を食べてみたことすらあり、「お金がないと人間ってダメになっていくんだな」と感じました。また、半ばヒモ状態で同棲していた彼女にも振られてしまい、借金も抱え、人生の底を見たような気がしました。
それを機に、なんとか立て直さなければと考え出し、住み込みの仕事を探して新聞配達を始めました。様々な境遇の人と衣食住を共にし、「自分はこれからどうなるんだろう・・・」という不安もありましたが、なんとか借金も返し終わり生活が安定するようになっていきました。
そして、忘れかけていたナンバー2への夢を思い出し、資格の勉強を始めるようになりました。さらに、簿記を2級まで合格すると、店長からも色々と仕事について相談を受けるようになり、元々パソコンを使うのが得意だったこともあり、顧客管理等なども任せてもらえるようになりました。
不動産業界で感じた閉塞感と、修業のための転職
そんな風に少しずつ仕事の幅が広がりながらも、些細なことから住み込み先の友人をかばって新聞屋をクビになってしまうことに。再び住み込みの仕事を色々と探した結果、ある不動産デベロッパーで働くことに決まりました。仕事を始めてからは電話営業を担当し、売れる手応えが楽しくてトップ営業マンを目指すようになっていきました。
ただ、成績に波があったことに加え、元々経理志望で入ったこともあり、23歳タイミングで社内の経理職に空きが出てからは実際に経理業務に携わるようになりました。ところが、いざ業務を始めてみると、従業員が100名近い規模にもかかわらず経理作業は全て手作業。これはちょっと現実的な作業量でないよなと思い、パソコンを導入したらどうかと会社に提案をするも、全く周りの理解が得られない状況でした。結果、自分のボーナスをあてにPCを買ってこっそり自分でプログラムをしようと決意しました。更に、プログラムができると、経理システムだけでなく、顧客管理や物件管理システムも含めた基幹システム作りも行い、Windows 95の発売後は、会社のHPや社内ネットワーク等、システムによる効率化をどんどん進めていきました。
また、周りにはそういったシステム基盤を抱える会社はほとんどなかったため、「このシステムを他社に売りにいきませんか?」と会社に提案をするも、やはり周りには理解してもらえませんでした。色々と考えて提案をしても実現しない状況に、「なんで誰も自分の提案を聴いてくれないんだろう?」と考えると、それは私がこの会社しか知らないからだという結論に至りました。他社を経験し、経営を知っていれば、社内でも意見の通り方が変わるのではないか、と。数年間身を置いて、不動産業界自体に閉塞感を感じ、それを打破したいと思いつつ提案を通すだけの実力が無いことへの課題感から、転職をすることに決めたんです。
そんな風に、半ば修業に出るように転職を決めた先は外資系コンサル業界でした。学歴や経歴的にも選考を通過するのはありえない状況でしたが、システム開発者としての知見を評価してもらい、なんとか世界4大会計事務所のKPMGコンサルティングへの入社が決まりました。
経営コンサルタントを経て再度不動産業界へ
実際に経営コンサルタントして働き始めると、やはり外から見た華やかさとは対照的に非常にハードな仕事でしたね。優秀な人たちばかりの環境のなか、必死にしがみつくように毎日を過ごし、少しでも新しいことを学ぼうと、システムだけでなく人事系からナレッジマネジメント、戦略策定プロジェクトまで幅広く携わりました。また、自分は経営をきちんと知らないという危機感から、仕事をしながらMBAも取得しました。さらに、前職の不動産会社に話を持ちかけ、コンサルタントとして2年間の業務改革プロジェクトを受注して前職の仲間と一緒に働くこともできました。
その後、これまでのプロジェクトの経験を活かし、組織人事に強いコンサルに転職しようという思いから、デロイトトーマツコンサルティングに入社をしました。そこでは前職から培ったシステムの知見に加え、コンサルになってから本格的に学んだ経営の知識も生かし、様々な現場で重宝していただきながら、充実した仕事ができました。ただ、修業に出てきますと宣言して退職をしたこともあり、もう一度実業の世界に戻りたいという思いもありました。特に、前々職の古巣で不動産業界に関わる仕事をできたのは良いものの、やはりコンサルタントとして外部から助言をするだけでは会社を変えられないもどかしさも感じていたんです。
そんな折、その不動産会社の元上司が独立をして同じ業界で事業を立ち上げるということで私も誘っていただき、バックオフィスを支えるCFOとして参加することに決めました。34歳のタイミングで、もう一度不動産業界に戻ることに決めたんです。
その時、私は日本の不動産はおもしろくないという思いを強く感じていました。上京してからそれまで住んだ9カ所の家は全てほぼ同じような内装ばかりの部屋だったからです。小さい頃は親戚も同居して11人家族で12部屋の家に住んでおり、住まいは思い出が染み付いてできるものだと感じていたのに、上京してからはそういった空間にまったく出会わなかったんです。そんなことを考えた結果、住む人に思い出が染み付く空間を創る「リノベーション」を会社の事業の柱として据えることに決めました。そこで、本当に住んで楽しくなる不動産を提供する事業をやろうと決めました。
会社の存続危機と向き合い続けて生まれた覚悟
そこで、実際にリノベーション分野で事業を始めたものの、現実は頭で考えるのとは全く異なる状況でした。リノベーションという言葉自体がほとんど知られていない時代の中での販売は苦労の連続でした。その後リーマンショックの影響もあり、業界自体の景気が悪化し、事業がうまくいかず、ついには倒産間近の状況に置かれてしまったんです。正直、「なんで会社を立ち上げてしまったのだろう?」と考えるほど悪夢の日々が2年ほど続きました。
そして、いよいよ会社が潰れるというところまでいって、いっそのこと自分が前に出てやった方が早いと考えるようになり、CFOとして経営的な業務をやるだけでなく、自ら営業活動も行うようにしました。いわゆるCFOとしてのナンバー2的な業務に加えて、書籍も書いてセミナーを開催して、自ら営業を先導していくようになりました。
投資の営業をするためには金融の知識も必要と考え、仕事の合間に早稲田の大学院で不動産金融工学の修士も取得。なんとか軌道が変わっていき、特にセミナーを通じて安定的に投資不動産が販売できるようになると、業績は安定して伸び始めました。売上も40億円を超え、自社リノベーションブランドのファンもでき、やることをやって落ち着いた感覚がありましたね。
すると、事業への安心感と共に、自分で新たな挑戦をしたいという思いを抱くようになりました。やはり最終的な意思決定は代表取締役が行っていたため、自ら決めて動きたいという思いがあったことに加え、自分自身様々な経験をしてきたことで、トップとして責任を取れる準備が出来たような感覚もありました。
また、世界の不動産市場と比べても、日本の不動産業界には改革の余地が数多くあるという課題感もありました。書店では不動産投資の本が多数並ぶものの、不動産投資家は日本には未だ320万人程度しかいない状況。建築水準が世界一であることや、東京の人口の水準を考えても、この数字は非常に少ないんです。
特に、長年業界に身を置くことで、投資家が増えない原因の一つは、気合いと根性で属人的に行われている不動産投資業界の営業体質にあるのではないかと考えるようになりました。投資家から見て不動産投資業界は非常に不透明で、なんだか怖い印象すらある。私が最初の不動産会社で経験した時のまま、いまだに投資に必要なデータを分析できず、提供もせず、ただただ「私を信じてください」という営業の仕方が普通なんです。
そこで、そういった状況を改革するため、ITによる不動産投資環境の再構築というビジョンのもと、リーウェイズ株式会社を立ち上げました。
次世代のための「仕事」への思い
現在は、投資用不動産を売りたい方と、買いたい方が直接取引できる、「jikauri(ジカウリ)」という不動産投資業界初の直販サイトを運営しています。ITを駆使したシステムの活用により、売主は売却物件の掲載料・広告料・仲介手数料を無料で利用でき、買主は必要なサービスだけを任意に選択することで仲介手数料を最大で50%下げることが可能です。
また、もう一つの特徴として、自社システムで独自に収集し続けてきた1500万件超の膨大な不動産データで分析した情報提供機能があります。物件の適正な家賃相場が分かることに加え、投資判断に必須となる利回りの計算も、既存の表面的な方法ではなく、統計データに基づいた本来の意味での「投資価値」を算出できる機能を提供しています。
このサービスを通じて、売買のコストを下げて透明性を高めて不動産投資家を増やすことで、不動産業者へより多くの営業機会の提供ができる仕組みの展開を予定しています。今後、不動産ブローカーの仕事はまちがいなくインターネットに取って代わられていく時代になっていきます。だからこそ、余計なコストがかからず、消費者のためになる価値の提供の仕方を不動産業界は創っていかなければと思うんです。事実、アメリカではそのようなモデルが一部で既に実現しています。ただITだけではだめなんです。ITプラス人の力をどこまで活用できるかが重要です。ITをつかって、これまでのいびつな構造を正しながらも、今までのプレイヤーが、これまでと同じことをするだけでコストダウンが可能な収益構造に変えていければ不動産業界の構造自体を変えられると考えています。
個人的には、後世のために道筋を作ること、次世代に何を残せるか、それが「仕事」というものなんだと考えています。新聞の配達をしていても財務経理の地味な処理をやっていても、もともとそれなりに楽しめる性格なのですが、昔から閉塞感を感じていた不動産業界で後世に残る変革を起こしたいというのが起業の一番のモチベーションですね。元々はナンバー2を志向しながらも、10年来経営に携わることで、トップとして自らのこだわりや情熱が生まれてきた感覚があります。
これからは、「不動産屋」ではなく、「証券マン」や「オイルマン」のように「不動産マン」と自信をもって言えるプロフェッショナルな業界を実現できるよう、自らの仕事での挑戦を続けていきたいです。
2015.11.25