「こんなのあったらいいな」を実現する。会社経営をしながら複数の媒体を運営する理由。
マーケティング会社「株式会社デライト・マーケティング」を経営するかたわら、「日本残業協会」の会長や、「日本募金活動監査機構」の代表を務める藤橋さん。昔から、「自分でなにか作りたい」と思いながらも、なかなか実現に踏み出せなかった時に背中を押してくれたものとは。新しいものをどんどんつくり上げる、藤橋さんにお話を伺いました。
藤橋 遼
ふじはし りょう|社会に新しいものを生み出す
株式会社デライトマーケティング代表取締役を務めながら、日本残業協会会長、募金の監査機構の代表などを務める。
人の目を気にして平均化された子ども
私は兵庫県で生まれました。父が転勤族だったので、生まれてすぐに東京に出てきて、その後も数年ごとに引っ越しを繰り返していました。小学4年生から2年ほどはニューヨークにも住んでいました。
すると、常に新しい環境に適用するために、周りの目を気にする性格になりました。引越し先でまずは空気を読み、その中に自分を平均化して、周りに馴染もうとするんです。そんな自分を、何でもこなすけど得意なことはない、器用貧乏な人間だと感じていました。
その反動か、趣向としては、「極端なもの」を好むようになっていきました。地方に行っても有名な場所ではなくマイナーな場所に行ったりと、一般的なものよりも、「端っこ」のものに惹かれたんです。また、小さな頃から、自分の手で何かを作るのは好きだったので、将来は、自分でオリジナルなものを作ってみたいと思っていました。とはいえ、具体的な職業として何かイメージしていたわけでもありませんでした。
むしろ、将来は環境問題に取り組みたいと考えていました。きっかけは、中学生のある日、外に出ると「空気が臭い」と感じたことでした。その時、この社会では「空気すらまともに吸うことができないのか?」と危機感を覚え、環境汚染を防ぐ仕事をしたいと思ったんです。
そこで、高校は東京農業大学の付属校に進学。少しずつ知識がつくと、地球環境に対して具体的に何をできるの考えるようになり、「緑化」の選択肢が見えてきました。社会的にも、ビルの屋上緑化などの技術が進んでいて、その先に自分のやりたいことがあると感じたんです。
そして、大学では緑化技術を研究していき、卒業後は、大手の造園企業に入ることにしました。そこでは、緑化技術も進んでいて、造園業界の中では、できることが多くて可能性のある会社でした。
仕事に対する対価を感じられる仕事がしたい
入社してからは、マンションの「バルコニーの緑化」を提案する仕事に取り組みました。まずはデベロッパーに営業して展示会でお客さまに提案する許可をもらい、その後マンションを購入するお客さまに直接提案し、受注が決まってからの業者の手配や現場監督なども含めて、全ての工程を行う仕事でした。
最初は仕事を覚えるために、とにかく精一杯働いていました。しかし、2年ほど経つと、今の環境に違和感を感じるようになっていました。緑化を広めたいと思ったら、造園業界の中では一番力のある大企業。しかし、2年間様々な提案をしても「ここまでしかできないのか」と、できること、影響力の限界を感じてしまったんです。
また、仕事への対価にも不満がありました。それなりに結果を出していたのに、返ってくる給料も評価も小さく、物足りなさを感じていたんです。さらに、小さい頃から漠然と持っていた、「自分で何かを作り出す」ということに挑戦したい気持ちもあありました。
そこで、転職することを決意したんです。どうせ仕事を変えるなら、提案の幅が広い仕事をしたい。また、何かを作る時のために知識をつけたいとも考え、広告代理店に入ることにしました。
入社後は、メーカーの作った商品を、コンビニやスーパーなど小売店でのプロモーション企画を提案するようになりました。店舗内での仕掛けや、プレゼントキャンペーン、イベントなどを行いました。自分で何かを考えて提案し、それが実現するのは、純粋に楽しかったですね。
ただ、クライアントから依頼された仕事だけでなく、ゼロから自分で何かを作りあげたい気持ちも持ち続けていました。
自分で何かを作りたいけど踏み出せない
広告代理店の仕事は忙しく、終電まで働くことも珍しくありませんでした。基本的に仕事は好きでしたが、疲れてモチベーションも上がらずにひとりで遅くまで残業する日もありました。そんな中、気分転換に夜食の買い出しに出た時にふと見上げると、たくさんの暗いビルの中に、点々と光っている部屋を見つけました。
その時「あぁ、自分はひとりじゃないんだ」と実感したんです。みんなも頑張っている。そう思うと、不思議と負けてられないと元気づけられ、仕事も捗り、結果的に仕事が早く片付けることができました。
そして、残業中に同じような気持ちを持つのは、自分だけじゃないだろうし、同じような人を繋ぐコミュニティを作ったらいいのではと思い始めたんです。残業をただ一辺倒に無くそうとすのではなく、残業中の人がお互いモチベーションを上げ合うことで、集中力が増して、結果として仕事が早く終われば素敵だなと。
そこから発想を広げていき、人を集めるために「協会」を作ったら良いのではと構想が固まってきました。また、この案だけではなく、他にも様々な実現したいアイディアはありました。しかし、自由な時間もあまり無く、現状では実現できるとは思っていませんでした。
そんな中、2010年、3年ほど働いたタイミングで独立することに決めました。理由は、できること、やりたいこと、リスクなどを考慮したうえで、独立した方が、やりたいこをと実現出来る可能性が高まると感じたんです。
不安がないわけではありませんでした。しかし、やるならこのタイミングが最良だなと思って決断したんです。
独立してからは、引き続き、メーカー向けの広告代理事業を行いました。ひとりで会社を始めたからこそ、全てのことに多くの人が関わっていること、人との大切さを実感することができましたね。言葉で理解していたことを体験することで、その意味の深さを理解できたんです。
人に想いを話すことで後押しされる
それから数年、想定していた部分もそうでない部分もありながら、順調に事業規模は大きくなっていました。そして、広告提案の幅を広げるためにも、また昔から思い描いていた自分でオリジナルなものを作るためにも、新しい媒体を立ち上げたいと考えていました。
そんなある時、学生時代の友人と話す機会がありました。個人的にとても信頼している友人だったので、思い切って「残業協会」のアイディアを話してみることにしました。
すると、「面白い」と言ってもらえたし、新しいアイディアも出て、すごく盛り上がったんです。初めて第三者の意見を聞くことができ、改めて自信を持つことができました。この時、「考えていること」を人に話すことの重要さを、強く感じましたね。
そして、2014年「日本残業協会」のWEBサイトをオープンしたんです。また、著名人をお呼びしての「残業ゼロ会議」や、現役アイドルを起用してのイベントなども行い、大手メディアから多数取材される程の規模にもなりました。
アイディアを実現しようとすると、色々な困難が出てきました。それまで実現されていなかったのには、それなりの理由があるんですよね。
しかし、実際にものができ上がり、人が集まってくると、みんな喜んでくれるんですよね。それが楽しくて、困難があっても、「ここで折れたら意味が無い」と頑張ることができるんです。
そして、立て続けに、募金団体を監査する媒体も立ち上げることにしました。これは、東日本大震災の時に、自分でも何かできることがないかと思って募金しようとした時に、街頭で募金を募っている人たちが怪しく見えてしまい、募金が正しい使い方をされるのか不安だったことがきっかけでした。せっかく善意があっても、その不安があったら人は募金をしなくなってしまう。そこで、「ここは大丈夫ですよ」と、一定の基準を元に、認定や情報公開をする第三者機関があれば良いと思ったんです。
体験した発想を広げ、社会をちょっと良くしたい
現在は、本業の広告代理事業を行いつつ、日本残業協会、日本募金活動監査機構を運営し、お酒を通じた地方創生の媒体も立ち上げの準備をしています。今は本業と媒体は直接リンクしていないのですが、将来的には提案のひとつにすることで、相乗効果を生めればと考えています。
昔からやりたいと思っていた「自分でゼロから生み出す」ことは、やはり楽しいので、これからも媒体は増やしていきたいですね。アイディアは、体験から湧いてくることが多いですね。日々、感じた課題や、「こんなのがあったら良いな」と思ったら、メモを取るようにしています。
その根底には、心のどこかに「社会を良くしたい」という気持ちがあります。ただ、いくらアイディアが浮かんでも、リスクを取れると思わなければ、踏み出さないので、そこは慎重に考えている一面もあります。それでも、将来的には、環境問題や緑化に関わるチャレンジもしたいと考えています。
昔は、自分が平均的だった分、何か尖ったものを持っている人に憧れや劣等感を感じることもありました。しかし、会社を経営しながら複数の媒体運営をしていると、色々なことを同時に考えなければならず、なんでもバランスよくできることを、「強み」として活かせていると実感しています。「器用貧乏」なんて言葉はなかったんです。
これからも、ゼロから「こんなのあったらいいな」をたくさん作っていけたらと思います。
2015.10.20