羽田空港発、新物流システムで描く地方創生。食品流通歴30年、「6次産業化」への挑戦。
羽田空港内に鮮魚の仕分け・加工センターを設立し、生産者と小売業・飲食店をオンライン上の直接取引で繋ぐことで、全国の朝とれた魚が夕方には首都圏の店に並ぶ、新しい流通システム作りに挑戦する野本さん。30年以上食品流通業界に身を置く中で感じた、生産者が儲からず後継者がつかないという課題感。生産者と加工・流通・販売を融合する「6次産業化」に込める思いとは?
野本 良平
のもと りょうへい|「超速加工物流」プラットフォーム運営
羽田空港内に鮮魚の仕分け・加工センターを設立し、生産者と小売業・飲食店をオンライン上の直接取引で繋ぐことで、全国の朝とれた魚が夕方には首都圏の店に並ぶプラットフォーム、「羽田市場」を運営するCSN地方創生ネットワーク株式会社の代表取締役を務める。
※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、野本 良平さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年10月11日(日)18時30分から放送されます。
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嫌々手伝い始めた家業で見つけたやりがい
私は千葉県船橋市に、4人兄妹の末っ子として生まれました。小学校の頃に家にあったギターを手に取ったことをキッカケに、中学高校と音楽にのめり込み、バンドを始めて出場したコンテストで優勝してと、どんどん没頭していきました。
実家は業務用食品を病院や学校等に卸す問屋を営んでいたのですが、家業を継ぐ気は全く無く、高校を卒業した後は音楽の道に進もうと考えていました。私が3歳の時から新聞配達を手伝うような経済状況だったこともあり、儲かっていない商売をするのは嫌だったんです。ただ、他の兄妹は実家を手伝っていたため、卒業をしてからもフラフラしながら音楽だけしていると、家族からは冷たい目で見られていましたね。
するとある時、母から私がずっと欲しがっていた車の免許を取っていいという許可をもらったんです。急な話に驚きながらも宇都宮で合宿免許を取ってみると、トラックで商品を運ぶ仕事を頼まれることに。運転ができる人手が足りない状況で、自分に白羽の矢が立ったことを知りました。
更に、仕事を手伝い始めてしばらくすると父が体調を崩して倒れてしまったんです。いよいよ仕事を抜けられなくなり、まともな給料も無い中、ポケットに100円しか入っていないような日々を過ごしました。正直、全く前向きになれず、嫌々仕事をしていましたね。半年ほど経ってやっと給料が入るようになってからは、それを種銭に楽器を買ったりパチンコをしたりする生活を繰り返しました。
そんなある時、パチンコで儲けたお金で近くの車屋さんでカーナビを買ったのですが、その車屋から家を入力しても、パチンコ屋を入力しても景色が出てこないことがあったんです。何故だろうと調べてみると、あまりに近距離すぎてルート案内が出ないということでした。それを知った瞬間、自分はなんて狭い世界にいるんだ、と強烈な焦りを感じました。「こんなことをずっとしてはいられない」と、すぐに紳士服店にスーツを買いに行き、次の日からは服装も態度も変えて仕事をするようになったんです。
すると、21歳の若者がスーツを着て元気に商品を運んでくるということで評判が良くなっていき、それに比例して売上も上がっていきました。また、卸先の営業として有名小売チェーンに飛び込んで取引が決まる等、結果も出て仕事がどんどん楽しくなっていきました。
しかし、真剣に仕事に向き合い始めると、問屋という立ち位置に疑問も感じるようになりました。私の実家は、商社等の一次問屋から仕入れて卸す二次問屋で、鞘取りをされていくことが非効率に感じたんです。また、自分たちが紹介したクライアント同士の商談で、席を外してくれと言われることすらあり、いつかはメーカーにならなきゃだめだと考えるようになっていきました。
生産者が儲からない流通システムへの課題感
そんなある時、卸先の得意先企業が倒産してしまったことがありました。ただ、その会社は自社工場を持っていたため、支払いが出来ないなら工場を貸してくださいと頼み、自分1人でメーカー業を始めることにしたんです。家族は反対していましたが、ちょうど結婚して妻が小売業界で商品開発の仕事をしていたため、なんとかなるだろうという思いでした。
最初に作ったのは中国から仕入れたタケノコの食用素材で、用途毎にカットしてコンビニやスーパーに提案してみると、すぐに契約が決まり軌道に乗っていきました。手応えを掴んでからは、もっと大きな工場にしなくてはと思い、数億円をかけて習志野市に最新鋭の工場を建て、問屋業を辞めてメーカーに専念するようにもなりました。有名小売りチェーンとの取引も始まり、売上も安定して成長していったんです。
しかし、そんな風に経営が順調になっていくと、仕入れ先だった中国の仕事の面白さに惹かれていたこともあり、家業は手伝う程度の関わり方に変え、35歳のタイミングで自ら中国との貿易ビジネスを始めることにしました。農産物や水産物の加工原料を中国で仕入れて、日本で卸していき、二国間を行ったり来たりするような日々が始まりました。
実際に現地に足を運んでみると、取引の規模は非常に大きいものの、中国の農家はとても貧乏で、子どもを満足に学校に行かせられないような状況でした。川下の加工工場をやっている人はお金持ちなのに、私が取引をするような田舎の農村部はひどく貧しく、次第にこれをなんとかして変えられないだろうかと考えるようになっていきました。ただ、異国に変化を起こすことは難しいことに加え、中国以前に日本でも同じ問題が起きていることに気づいたんです。
そこで、なんとか生産者を取り巻く環境を変えることが出来ないかと考えた結果、大手回転寿司企業で働くことに決めました。課題の解決のためにも、流通チェーンにおける買い手側を経験してみようという考えに加え、個人的に魚をおろせるようになりたいという思いもありましたね。
「朝どれブーム」と、羽田空港に見いだした可能性
実際に買い手として働き始めると、市場経由で魚を買う際の値段の乱高下が頻発し、産地との直接取引の仕組みを作ることにしました。流通を外してしまうことで、顔の見える人から安心した金額で買えることができるため、互いにメリットがあると感じたんです。中国での取引の経験からも、win-winが築けないと続けることが出来ないという思いもありましたし、いずれ漁師や農家が自分で消費者に商品を売る時代が来るだろうと感じましたね。
そんな取り組みをしながら入社して2年ほど経ったある時、株式会社エー・ピーカンパニーという飲食店を運営する会社の米山社長と出会いました。そして、話を聞いてみると、店舗が1店舗しか無い頃から自社で養鶏所も作り原料の生産を行っているということでした。それはまさに私が関心を持っていた分野だったため、すぐにその会社に転職し、一緒に働くことを決めたんです。
それからは、製造から卸・小売りまで幅広く携わった経験から、流通面を変革していき、仕入れ値を大幅に下げて生産性を上げることができました。特に、市場を介さずに漁師の方と直接の相対取引を行い、漁でとった魚がその日に店にならぶ「朝どれ」を実現したことが多数の全国メディアに取り上げられ、全国の飲食店・スーパー・量販店等に「朝どれブーム」が起こっていきました。会社は東証マザーズへの上場も果たし、仕事は非常に充実していましたね。
また、「1次産業(農林漁業)」・「2次産業(加工)」・「3次産業(流通・販売)」を融合し、農林水産物等に新たな付加価値を生み出すことで、農山漁村における所得の向上、収益性の改善を行う「6次産業化」に挑戦したいという思いは、以前よりも強くなっていました。
しかし、それを自社で行うと、原材料の調達のための施策に留まってしまい、一小売り・流通企業からの取り組みになってしまうことに限界を感じていたんです。第三者としてもっと規模の大きいことをしたいという思いがありました。
また、先の朝どれの手応えから、朝とったものを関東のお店で当日扱うために、流通の拠点として羽田空港を活用するアイデアを思い浮かんだのですが、実現が出来ずに終わってしまったこともありました。
元々、漁港から羽田に届く原料は、例えばマグロ一本という単位で来るため、そのまま店舗に運んでも使い切れず、詰め替えが必要でした。そこで、どこかで仕分け・加工を行うのであれば、それを羽田空港で行うことができれば一番効率が良く、全国の生産者の原料を関東圏で当日に届けることができると考えたんです。
しかし、羽田空港内に場所の空きはありながらも、利用許可の合意に至ることができませんでした。
6次産業化への想いと48歳の挑戦
その後、より規模の大きなことに挑戦しようと、47歳のタイミングで会社を離れ、老舗食品メーカーの株式会社柿安本店で常務執行役員として働き始めました。堅調な業績で無借金経営を続ける一方、老舗企業ということもあり、抜本的に新しいことを進めることは難しい部分もありました。
そんな背景もあり、とても高待遇で働きながらも、もっと一次生産者と接したいという思いが日に日に募るようになっていき、食品流通の変革に挑戦するベンチャー企業が苦戦している話を聞くと、「自分がやらずに誰がやるんだ」とすら考えるようになっていったんです。
そこで、もう一度羽田空港に伺い、原料の流通経由地点として加工工場を作ることができないかという打診をすることに決めました。一度羽田空港以外の場所で同じ取り組みを行って見えたものがあったからこそ、どうしても羽田空港でなければ実現しないとお願いし続けたんです。
そもそも、日本に400以上もある有人の離島の収入源のほとんどが漁業で、現在は国の補助金等で活性化をしようとしているものの、現地に住んでいるのは老齢の方々が中心。そこで沢山売るということは難しい状況です。
一方で、昔自ら仕掛けた「朝どれ」の需要は非常に大きく、同じ魚が東京や大阪に当日届けば非常に高値で売れるんです。現在、築地等を介して輸送する場合は漁の翌々日以降になっているのが、羽田を介して当日に届くことで、飲食店側でも3日間は刺身として出せて廃棄ロスも減ります。そして、その取引をwebのプラットフォームで一括で行うことで、生産者の顔が見える取引が出来、ブランド化にも繋がっていきます。羽田空港を利用した流通システムを築くことで、最終的には地方創生につなげるということが、一番の目的だったんです。
そんな話をし続けた結果、なんとか羽田空港側の許可をいただくことができ、48歳のタイミングで独立を決めました。羽田を拠点としてCSN地方創生ネットワーク株式会社を立ち上げ、6次産業化に自ら本気で取り組むことに踏み出したんです。
新しい流通システムで目指す地方創生
現在、羽田空港の鮮魚の加工センター「羽田鮮魚センター」の建設が完成し、2015年9月29日に本格オープンを開始しました。日本全国の夜中から早朝にかけてとれた魚が、朝イチで飛行機に乗ってセンターに届き、仕分け・加工を行った上で東京・埼玉・千葉の飲食店に15時・16時頃には届けるという「超速鮮魚」という仕組みを実現しています。
そして、既存の公設市場のようにこの施設で取引が行われるわけではなく、それら鮮魚の販売は全てweb上のオンラインマーケット「羽田市場」を通じて行われています。具体的には、各地方の漁師の方々、卸先の小売業や飲食店と直接契約を結び、独自システムにて大量取引を顔が見える形でマッチングする仕組みを設けています。そうすることで、産地の市場の卸売業者や買受人・築地等、中央市場の卸売業者や仲卸買受人を介さない取引が実現します。これまでも生産者や市場と小売業をオンラインで繋ぐ仕組みはあったものの、中央市場より川下の流通の効率化がほとんどの中、全く新たな鮮魚流通を作ることに挑戦しています。
そうすることで、生産者にとっては収益性の向上や産地のブランド化、販路拡大等につながります。また、現在の流通システムでは、生産者が自ら価格を決めることができず、買い叩かれてしまう構造ですが、羽田市場という新しい選択肢を持つことで、他の市場と価格を比較して卸先を決めることができます。特に、証券取引のように需要に応じて価格が決定してから漁に行くことができるので、非常に効率的に漁を行うことができるんです。そのため、漁師さん側にも、これまでの流通基準で動くのではなく、お客さんが食べる時間に合わせて漁に出るという考えを広めていこうとしています。
加えて、羽田空港という立地を生かして、今後は海外輸出も展開していきます。水産の輸出は国としても力を入れていく分野ということもあり、先の仕組みと併せて、ANA Cargo株式会社との業務提携のもと、仕組みを構築していきます。
私自身、高卒で家業に入り、メーカーも小売りも経験し、食品流通の仕事に携わって30年以上が経ちました。その中で、今の流通は絶対におかしいという感覚があるんです。漁師は跡継ぎがおらず、50年前の3分の1以下になり、このままだと絶滅危惧種になってしまいます。そして、跡継ぎがいないのは収入が不安定で低いことの影響が大きく、流通の方法を変えないと現状は変わらないという危機感があります。
とはいえ、生産者が儲かるようになったらすぐ子どもが地元に帰ってくるかというと、そこまですぐに結果に出るわけではないでしょう。少なくとも5年から10年、新しい仕組みで文化を作ることで問題の解決ができればと考えています。朝とれた魚を食べて感動した人が、産地を知って今度は観光で足を運んで、そんな風に循環していくことで始めて地方創生に繋がっていくのではないかと思います。
まずは水産で成功事例を作り、将来は他の分野にも展開していきたいですね。そうすることで、自分の身体の中に入ってくるものを明らかにできる流れを作りたいと考えています。難易度の高い水産分野で成功すれば、どこでもできるという確信もあります。
そのためにも、まずは「羽田市場」で新しい鮮魚流通に挑戦していきます。
2015.10.05