PRで社会の「もったいない」を減らしていく。摸索して辿り着いた、社会課題との向き合い方。

2015年に46期目を迎えるPR業界の老舗企業、井之上パブリックリレーションズにて執行役員を務める尾上さん。学生時代から社会の仕組みに課題を感じ、医師・官僚・弁護士と目標を摸索する日々。そんな尾上さんが、大学卒業後、NHKでの勤務を経てPR業界に飛び込むことに決めた背景には、どのような思いがあったのでしょうか?

尾上 玲円奈

おのうえ れおな|PRコンサルタント
株式会社井之上パブリックリレーションズにて執行役員 アカウントサービス本部 戦略企画部 部長を務める傍ら、早稲田大学の非常勤講師(PR概論、PR特論)や日本パブリックリレーションズ協会認定PRプランナーを務める。

「こうすればよいのに」の連続の社会


私は大阪府池田市に生まれました。父が編集者だったこともあり、小学生の時から毎日「天声人語」を読んで感想を書いたり、テレビのニュースについてどう思うか意見を聞かされたりということを日常的にしていました。物事には色々な見方があることを知り、ディスカッションに慣れてという点は良かったものの、毎日感想を書かなければならず、その文章もチェックをされるというのは正直嫌でしたね。

その後、高校に進学してからは、理系のコースに所属し、精神科医を目指すようになりました。中学の時に親戚が鬱病を患ったことがあり、根本的な治療のためのコミュニケーションを取らずに、何でも薬で解決しようとする病院の方針に疑問があったんです。自ら精神科の本を読んでみると、医療の点数制の影響などもあり、日本の精神科医療は遅れていることも分かりました。そこで、自ら精神科医になって、この業界を変えたいと考えるようになったんです。

しかし、そんな目標のために勉強をしていると、ある時、精神科医の方とお話をさせていただく機会があり、「業界を変えたいなら、君は医者にならないほうがいい」というアドバイスをいただきました。

たしかに、冷静に考えてみると、同様の手法を学んで精神科医になったところで、同じ穴の狢になってしまうため、もっと枠組みを変えるほうに携わったほうが良いのかもしれないという思いがありました。

また、親戚の経験を通じて課題感を抱いた鬱病治療のアプローチが解決したら、目標が無くなってしまうという不安もありました。医療の分野以外でも、誰もが「もっとこうしたほうがいい」と思いつつ、行動に移さない領域への課題感があったんです。

そんな風に悩みながらも、現役での医学部受験は不合格だったため、浪人をしながら、今後の進路に思い悩む日々を過ごしました。

するとある時、お店で携帯電話を落とし、後で気づいて戻ってみると、その店員さんが落とし物の携帯を盗んでしまっていて、警察沙汰になったことがありました。浪人中の私も、出頭してきた相手も未成年だったので、親同士が話すことになったのですが、正直、個人的には、理由を話して謝ってくれれば警察に介入してもらわなくてもいいという感覚でした。法的な手続きを絡めたが故に、コミュニケーションが逆に上手く行かなくなっていたんです。

ふと、「世の中はこういうことの連続だな」と感じました。こうすればいいのに、と思うことがどの分野にもたくさんあり、そんな社会に改めて腹が立ちました。そこで、世の中の仕組みを変えているのは誰なんだろうと考えた結果、私は官僚を目指すことにしたんです。大学受験でも文系に転じて、早稲田大学の政治経済学部に進学することに決めました。

PRとの出会いと、 新卒NHKという選択


大学に入学してからは、雄弁会という政治サークルに所属しました。元々、現役で入学していた友人にサークルの相談をしたところ、「色々なサークルがあり、どこも面白いけど、とにかく雄弁会というサークルだけは行かない方がいい、気が狂ったような人が集まっているから。」という話をされたのですが、あまのじゃくな性格から、覗いてみたいという関心を持ったんです。

そして、ある日の新入生歓迎の勉強会に参加してみると、その場で行われる先輩の発表のレベルの高さに驚かされました。日本の観光立国について、その必要性と施策を筋道立ててプレゼンしていたのですが、「すごい、こんな人いるんだな」と感動しましたね。後ろにいた先輩から「2年やったらこんな風になれるよ」と言われて、自分も入ってみようかなと考えるようになっていきました。

実は、入学以来、大学の授業にすごくがっかりしており、学費から計算して親に1授業当たりおよそ3500円も支払ってもらっているのに、その価値を見いだせずにいたことも一つの理由でした。浪人までして入学させてもらっているのだから、親に申し訳ない。なんとか取り戻さなければという気持ちがあったんです。

そんな背景から実際に入会してみると、雄弁会は私にとって非常に居心地の良い環境でした。昔から、周りに「変わっているね」と言われて育ったのですが、ここでは「社会はこうあるべき」を語る人ばかりで、皆世の中を何らかの形で良くしたいという人が集まっていました。

そんな仲間と一緒に過ごすことで、私自身、将来は検事として修行を積み、ある程度したら弁護士になり、困っている人を助けたり応援したりしたいと考えるようになりました。ただ、ちょうどロースクール制度の元年だったこともあり、リスクヘッジとして就職活動も行い、業界を問わず、実力主義に近い環境で働けそうな会社を受けて回りました。

すると、思いのほか就職活動が上手く行き、様々な会社から内定をいただくことができたんです。そこで、社会人として活躍するサークルの先輩や履修していた授業の先生に今後の進路について相談をすることにしました。

特に、PRについての授業を行っていた井之上先生は、株式会社井之上パブリックリレーションズという会社の経営者を務めながら客員教授も務めていたので、積極的に相談をさせていただきました。元々、シラバスを見ていて関心を持ったため履修したのですが、「日本人はPRのことを全然分かっていない」という言葉で始まった授業は非常に興味深いものでした。「PR」のことをいわゆる「宣伝広告」などの類、「プロモーション」の略だと勘違いして生きてきた自分としては、思わず持っていた英英辞典で「PR」と引き、「=Public Relations」と出てきたのを目にして深く合点がいったとともに、「だから日本は世界で負けるんだ」という思いを強くしました。一方的に売り込むコミュニケーションと、相手との関係性を考えながら双方向に理解を育むコミュニケーションでは、どちらが最後に勝つのか明らかです。授業でパブリックリレーションズの事例を学ぶにつれ、こんな仕事もあるのかと驚きました。

そんな経緯で複数の方に相談をすると、井之上先生からも父からも、内定先だったNHKに進むことを薦められたんです。法曹界含め、他の仕事は途中から目指すことができるものの、大手メディアの記者は今でないと二度と出来ないということに加え、メディアに行ってほしいという書籍編集者である父の意見もありました。

そこで、大学を卒業してからは、NHKに入局することに決めました。

転機となった一本の電話


積極的に志望していた訳ではなかったものの、実際に働いてみると、記者の仕事はすごく楽しかったですね。私は島根県にある松江放送局の配属になったのですが、メディアとして様々な社会課題に焦点を当てることで、結果的にそれらの解決に繋げていく経験ができたんです。

例えば、あるおばあちゃんからリフォーム詐欺の話を聞き、それを掘り下げていくことで業者の逮捕に繋がったり、医療制度改革の影響による勤務医不足、ひいては産婦人科医不足の問題は、NHKの番組制作に反映されるだけでなく、国会でも取り上げられることになりました。

特に、医療の問題については昔から関心が大きかったため、厚生労働省や日本医師会まで含めて横断的に関わることができたのは非常にやりがいを感じました。局としては珍しいのですが、1・2年目から番組を作る機会をいただくこともでき、非常に裁量を持って働くことができました。

ただ、一方で、記者は飽くまで傍観者であることに、もどかしさを感じることもありました。ある時、取材先の方と話をしていていると、「尾上さんは、相談にのってアドバイスもくれるけど、失敗したらそれも書くんでしょ」と言われたんです。だから、情報を全て預ける訳にはいかないと。

また、島根で働き続けることで、東京の知人との関係性が希薄化していくことへの危機感もありました。せっかく大学時代に様々な知人との関係を築きながらも、地方赴任中は中々県外に出られず年に1・2回しか会えないような状況だったんです。

そんな背景から、仕事にやりがいを感じながらも、モヤモヤと悩みを抱えていると、ある時、大学時代の恩師井之上先生から電話をいただき、「尾上君、もうそろそろいいんじゃない?」という言葉をかけられ、井之上パブリックリレーションズで働かないかと誘われたんです。まさに悩んでいる真っ最中だったため、なぜ分かったんだろうと驚きましたね。

正直、この先ずっとNHKで働くつもりはなかったものの、明確に次の進路を決めている訳でもありませんでした。しかし、ファーストキャリアでメディアに就職したため、欧米の社会と同じくPR会社で働くことで自分の経験が活かせることは前向きに捉えていたんです。

また、島根での取材の経験から、社会課題にメディアの注目を集めることで、世の中から大きな反響が得られることに加え、取材相手がPRを理解して動いていたらもっと早く日の目を見たのではないかと感じることも沢山ありました。

そんな「もったいなさ」への思いからも、私は26歳のタイミングで2年働いたNHKを退職し、井之上パブリックリレーションズで働くことに決めました。

PRを通じて、「もったいない」を減らしていく


井之上パブリックリレーションズはPR業界でも歴史のある企業で、外資を中心に様々な企業や政府機関等のPRに携わる機会をいただきました。NHKにいた際は、特に費用や利益への感覚があまり強くなかったのですが、転職後はよりビジネス感覚が求められるようになりましたね。

また、Wordすら充分に使いこなせないような状態だったので、仕事のスキルという意味では苦労する部分もありましたが、現場の仕事を通じてなんとかキャッチアップしていきました。記者時代は24時間体制だったため、会社って閉まるんだという驚きもありましたね(笑)

現在は、戦略企画部の部長という立場で、PRコンサルティングの中でも高度なメディア戦略が必要とされる海外企業の日本上陸支援や、危機管理の支援、M&A後のコミュニケーションケア等を行っています。

やはり、NHK時代と比べて、クライアントがほとんど全ての情報をさらけ出してくれるため、距離が変わったなという印象があります。全てをオープンにした上で同じ方向を見て考えられるのが醍醐味だと感じますし、以前よりもクライアントのことを世の中に理解してもらうという意味では貢献しやすくなったなと実感します。

しかし、日本の中ではPRは未発展の分野であるというのは変わりません。コミュニケーションを生業にしていると話すと広告だと思われることも多いのですが、広告枠を買って情報発信するのと、メディアを始め第三者との関係性を構築して発信を取り上げてもらうのは根本的に違うんです。

そして、記者時代から感じていたように、「PRを知らないが故に日の目を見ない」もしくは「PRを知らないが故に誤解されている」という人や組織に少しでも手法を教えてあげたいというのが個人的なモチベーションです。

影響力を増大させるという意味では、一緒に仕事をするパートナの倫理観や会社の社会性は非常に大事なポイントとなります。井之上PRは創業以来いいお客さんに恵まれて、ダイヤの原石を磨くような仕事ができているので、自分としても非常にやりがいが大きいですね。

今後は、「パブリックリレーションズ=PR」という考えが広まることで、国家の行く末が左右されるような事案にももっと活用していってほしいという思いがあります。歴史を遡れば、国家の情報の出し方やタイミングで、不用意な戦争にすら繋がることもあった。発展して止まない社会の進運に寄与できる人材になりたいですね。

たぶん、子どもの頃から一環しているのは、もったいないことをなるべく減らしたいという気持ちなんだと思います。頑張っている人や素晴らしいものを世界に向けて発信できるようにするために、PRという手法で色々と挑戦できればと考えています。

2015.09.29

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