一生に一回、芸能も雑誌編集も全力で。後悔せずにやり切る、OLタレントという選択。
ITベンチャーにて業界誌の編集長を務める傍ら、芸能活動も行うOLタレントとして活躍する坪井さん。小さい頃から芸能界に憧れを抱きつつも、出版社でメディアを運営する裏方に周ることを決断。そのまま出版社で一生働くつもりだったという坪井さんに訪れた25歳の転機とは?
坪井 安奈
つぼい あんな|OLタレント
株式会社グラニにて、『Grand Style』(グラスタ)という‘“会社と人”に焦点を当てたスマホアプリ・ゲーム業界誌の編集長を務める傍ら、「OLタレント」として、映画やTVCM出演・番組MC等の芸能活動を行っている。
エンターテインメントへの憧れと、上京後の変化
私は滋賀県湖南市という田舎町に生まれ育ちました。小さい頃からテレビドラマが好きで、『やまとなでしこ』や『美女か野獣』など、女性が仕事を頑張っている作品を見ては、明日も頑張ろうとやる気を出していて、そんな気持ちにさせるエンターテインメントとはすごいなと憧れを抱いていました。小学校の教師を務める母の影響もあり、見たいテレビ番組は事前に冷蔵庫に貼っておくという厳しいルールだったのですが、ドラマは母も好きだったので、横で見ていても大丈夫だったんです。
幼稚園の頃から人見知りで、自分にあまり自信がなかったのですが、ドラマの世界であれば憧れの人をたくさん演じられることもあり、ぼんやりと芸能界に憧れを抱くようにもなっていきました。ちょうど、英語が好きで、スピーチコンテストに出た際に、長く準備してきたものを発表する達成感に加え、人前で何かを伝えることに快感を感じたのも一つの理由でした。
しかし、田舎に住んでおり芸能人なんて異次元の人、小学生の時に思い切って夢を母に伝えてみても「そういうものは限られた人がなるもの」と言われてしまい、「ああ、言っちゃだめなんだ」と感じました。そこで、母が喜ぶ職業に就きたいという思いから、関心があった英語の先生や国連の機関で働くことを目標とするようになっていきました。ただ、心の中ではエンターテインメントへの憧れは消えておらず、会社員だということもあり、折衷案のように思えたアナウンサーを、誰にも言わずに目指すようになりました。
その後、中学・高校と進むにつれて、表向きには国際関係の仕事を目指しつつ、本心ではアナウンサーを目指していました。しかし、どちらか選ばなければという焦りもありましたね。「何になりたいの?」と聞かれると、一つ選ばなければいけないような気がしていました。
そして、迎えた大学受験では、志望していた国立に落ちてしまい、慶應か立命館のどちらかに進学をすることに。立命館の学部は、2年留学をして日本と海外の両方の大学を卒業することができるコースで、国際系の道に進むにはもってこいの環境でした。しかし、東京に行き、アナウンサーを多数輩出する慶應大学に進学したら、もしかすると夢に近づけるかもしれないという思いもあったんです。母にもその話を相談してみると、「じゃあ、慶應に行ったら」と言ってもらうことができ、大学進学とともに上京を決めました。
私が進学したのはSFC(湘南藤沢キャンパス)という環境で、何かに秀でて突き抜けている人や、帰国子女の多い環境でした。そのため、自己紹介で「安奈は今までどんな活動をしてきたの?」と当たり前のように聞かれ、私は周りと比べて、何一つ飛び抜けているものがないと感じてしまったんです。元々、嫌いなものは無い、嫌なものにもいい所があるという考え方で育ったため、器用貧乏になってしまう不安があったんですよね。
そこで、これは誰にも負けないというものを作るためにも、ある意味で「嫌い」を大事にしようと考えるようになりました。また、それまでは高校・大学と受験が上手く行かずに私立に進んでしまい、親に迷惑をかけてしまった気持ちから萎縮している面もあったのですが、大学からは自分がやりたいことをやろうと考えるようになったんです。
2度の就職活動を経て出版社へ
しかし、中高と好きだった英語は帰国子女の友人と比べてしまうと雲泥の差。一気に熱は冷めてしまい、次第に自分にしかできないことを探したいと考えるようになっていきました。そこで、関心を持っていたテレビの世界を見てみたいと考えるようになり、実際にどういう仕事か知りたいと思い、オーディションを受けてみることにしました。
すると、テレビ神奈川の情報番組でリポーターを務める機会をいただき、憧れていたテレビに初めて出演することができたんです。ところが、ものすごく緊張してしまい、言われたことをやるので精一杯、自分の伝えたいことには意識が回らずに終わってしまうことを繰り返しました。また、華やかな世界であるが故に、自分の容姿が気になったり周りと比べるようにもなっていき、葛藤もありましたね。
それでも、他の番組でも出演の機会をいただき、色々な現場を経験させてもらうことができました。すると、次第に番組の制作に携わる裏方に興味を持つようになりました。リポーターは表に立って自分の表現で情報を伝えることができるものの、どんなテーマでどのお店に行くか決めているのは制作側で、自分の関心はそちらにあるんじゃないかと思うようになったんです。また、ある特番の放送後の打ち上げで、制作の方々がものすごく達成感に満ちあふれた顔をしているのもすごく印象的でした。以前私がスピーチコンテストで感じたような達成感を味わえるのだろうなと感じたんです。
そこで、就職活動を迎えると、まずはアナウンサーの選考を受けつつ、
テレビ局で働くために総合職の面接も並行で受けることに決めました。すると、ある地方局のアナウンサーの最終面接と、志望度の高いキー局の総合職の面接が重なってしまったんです。そこで、私は自分がしたいことと照らし合わせた結果、裏方に回って制作の職に就くため、総合職を受けることに決めました。小さい頃からの憧れだったドラマに携わりたいという思いから、キー局・準キー局を受けて回ることにしたんです。
しかし、選考の結果は不合格。どうしても行きたいと思っていた局の7次面接で落ちた悔しさから、就職浪人をしてもう1年就職活動をすることに決めました。ところが、2年目の選考も思わしい結果が出ず、途中からはもう少し視野を広げようと、ちょうどエントリーが始まった出版社も受けてみることにしました。
元々、小さいころから読書感想文の宿題を3・4回書き直しさせるような厳しい母のチェックがあったせいか、書くことが苦ではなかったんです。就職活動でエントリーシートを書いたり、テレビのリポーターの仕事でブログを書いたりするうちにその気持ちは一層強くなっていきました。
そして、結果的にはご縁があった小学館に就職することを決めました。元々したかった伝えることを、書くことでできるかもしれないという思いがありましたし、特に、ファッション誌に携わりたいという気持ちもあり、卒業前にはニューヨークで新しいファッション雑誌の立ち上げのインターンシップ等にも参加しました。元々の志望業界ではなかったものの、とても前向きな気持ちで選択をすることができました。
25歳で訪れた転機
就職浪人を経ての社会人だったため、会社に入る時はやる気に満ちあふれ、早く働きたいという気持ちで一杯でしたね。ただ、実際に書くことを仕事にしてみると、自らの文章を人に評価されたり、表現を修正されたりすることは今までに無い難しさがあり、苦ではないものの、語彙力も表現力も足りないなと感じました。それでも、周りの方に恵まれ、色々なスキルを教わったり、編集者にとって命とも言える企画力を養うため、身の回りの物事へのアンテナや、仕事のスピードなど、環境に合わせて色々な変化が生じていきました。
忙しい日々でしたが、仕事は充実しており、この会社で一生働こうという思いで毎日過ごしていましたね。もっとスキルアップして、いずれは賞を受賞するような書籍の出版にも携わりたいと考え、未来に向かって仕事をしていました。
しかし、社会人2年目に25歳の誕生日を迎えると、ふとこのままでいいのかと考えるようになったんです。いずれは結婚をして子どもを持ちたい、それが30歳前後だとすると、やりたいことを追いかけられるのはあと5年。そう考えた時に、もしかしたら私は一番やりたいことをやっていないのかもしれない、と。
そして、一度は裏方に回ると決めながらも、芸能に携わりたいという思いも再び湧いてきました。特に、小さい頃から憧れを抱きながら、全く目指さずにいた芝居の分野について、一度全力で追いかけてみたいという思いがあったんです。一回も目指さずに人生を終えたら、死ぬ時に後悔してしまう。それは嫌だったんですよね。そこで、この1年で今後どうするかを考えようと決めました。
すると、そんなことを考えた誕生日から1週間後、ソーシャルゲーム等を運営する株式会社グラニの役員を務める知人から、会社のPR担当を探しているという話を聞き、転職を考えている知人と一緒に話を聞きにいきました。
そして、話が盛り上がり、ちょうどそれまで考えていた、芸能活動と書く仕事の両方をしたいということを話してみることにしたんです。実際に25歳で他の仕事を一切せずに芸能活動一本にするのは現実的でなく、生きていく術として何かの職は必要だという感覚がありました。加えて、そもそも芸能界を目指すということを人前言うことにためらいもあったのですが、それを無邪気に言える最後の年齢なのかもしれないという思いもあったんです。
すると、その話を面白いと感じていただき、グラニで働きながら芸能活動をする働き方を提案していただいたんです。自分の生き方を改めて考え直そうと思ってからわずか1週間で訪れた転機でした。そして、私は一生働くつもりだった会社を退職し、新しいスタートを切ることに決めました。
一生に一回の人生を後悔しないために、OLタレントとして走る
現在は、「OLタレント」という肩書きで、グラニで発行している雑誌の編集長業務を行う傍ら、映画や番組MC、CMなど芸能活動も行っています。グラニ自体は『神獄のヴァルハラゲート』などのゲームをメインとした会社なのですが、私自身は、業界の活性化の為に発行している『Grand Style』(グラスタ)という雑誌の編集長 を務めています。アプリやゲームの業界は外から見てイメージが湧きにくいこともあり、実際に中で働く人や社風を企業横断で伝えることで、誌面上の業界交流や、業界自体の採用力の強化に繋がればという思いがあります。
編集長といっても、企画から取材や撮影・原稿執筆等、雑誌を作る行程を全て担当しているので、特に入稿前はかなり忙しいですね。それでも、実際に自分がゼロから作り上げたものが形として残り読んだ方から反響をいただけることは本当に嬉しく、大きな達成感を感じています。
また、タレントとしては、スポーツ選手が企業に所属するように、私自身もグラニの所属として仕事をしており、自社のCMや映画等の女優業、経済英語の学習番組のMC、舞台挨拶の司会者など、幅広く活動をしています。今は知人からの紹介や営業・オーディションで仕事を得ており、面白そうだと思ったら飛び込んでいますね。
ただ、ドラマから芸能界に憧れを抱いたため、やはり芝居に一番関心があります。そのため、映画で初めて役者をできたのは非常に貴重な経験でした。演技していない間の自分の振る舞いや、感情の起伏が無いシーンの難しさなど、新たに学ぶことばかりですね。
OLタレントとして活動を始めてみて、「1つに絞ってがむしゃらにやれば?」と言われることもあります。しかし、2つに取り組んでいるからがむしゃらでない訳ではないんです。メディアの表裏両方の仕事をしているからこそ、片方での学びはもう片方に生きている感覚がありますし、2つに本気で取り組むからこそ得られるものがあると思うんです。
だから、どんな意見をいただいても、今は気持ちを強く持って自分の道を歩もうと考えています。正直、「もし辞めなければどうなっていただろう?」と考えることもあります。ただ、自分が選んだことを良かったと思えるように生きるしかないと思うんです。そのため、まずはOLタレントという働き方を確立するために、雑誌の知名度を上げること、芸能活動の幅を増やすことに注力していきたいと思っています。
また、長期的には、パラレルキャリアが普通に選択されるような世の中にしたいという思いがあります。挑戦しないで後悔するより、1つに絞らずに複数に対して本気で臨むことも一つの選択肢だと思うんです。特に、芸能活動は特別なスキルのように思われることもありますが、実際に並立してみると、会社員も同じく誰にもできるわけではないすごいスキルだと思います。だからこそ、会社員であることに誇りを持ちつつ、より柔軟な働き方が広がっていけばいいなと考えています。
私は小さい頃から、「一生に一回」という言葉をキーワードにしていて、死ぬ時にやり切ったなという達成感で、いい顔をして死にたいなという思いがあります。そのためには、生真面目な性格だから、何かに手を抜くと後悔してしまうと思うんです。だからこそ、芸能活動も編集長としての活動も、両方本気で追いかけていきたいです。
2015.09.04