キーワードは「若くて60歳。」高齢者が自治できる、社会のしくみを。

国際協力NGOピースウィンズジャパンの一員として、地元南三陸町の震災復興に従事する西城さん。4月からは、現地NPO法人の立ち上げの為、現在は、そちらにウェイトをおいて活動中。支援は外からするものではなく、その地域の人の枠組みの中から出てくるものと話す背景にはどんな経験があったのか。お話を伺いました。

西城 幸江

さいじょう さちえ|地元に根づいた震災復興支援
ピースウィンズ・ジャパン/びば!!南三陸(NPO法人申請中)に所属し、東日本大震災復興の支援活動を行う。

【クラウドファンディングで募集中!】『晴谷驛(ハレバレ―)』建設プロジェクト 南三陸町に、高齢者が輝き、みんなが交流するための場を。

何のために働くか分からない仕事は嫌だった


私は宮城県の南三陸町で生まれました。実家は魚屋を経営していて、小さな頃から両親が働く姿をよく見ていました。ただ、将来は良い大学を卒業して良い会社に入り、月給取りになるように育てられていました。

そのため、中学卒業後は仙台にある寮が併設された私立高校に進学し、大学は東京の中央大学に進みました。 大学ではマーケティング等を勉強しつつ教職課程も取っていたので、一日中学校にいることが多かったですね。ただ、勉強は楽しかったのですが、将来なりたい職業は分かりませんでした。

就職活動の時期になると、学んでいたことを活かせて、給料も良いと聞いていた広告代理店等を受けるようになりました。しかし、就職試験やSPI等を受ける意味も分からなかったし、何のために働くのか疑問も覚えていました。家が自営業だったこともあり、雇われて働く姿を想像できなかったんです。

選考も受からず、次第に考えるのを止めるようになっていき、最終的にはあまり行きたくないと考えていた飲食企業に就職することにしました。また、就職活動で都心へ電車移動する生活をしてみて、東京の生活コストの高さを実感していたので、なんとなく仙台に戻ることにしました。稼いだお金が生活のためだけに消費されるのであれば、何のために働くのか分からなくなってしまうと思ったんです。

そして、大学卒業後は仙台に本社を置く飲食企業で働き始めました。しかし、入社して数日後には違和感を感じるようになり、半年後に辞めることを決めました。

長時間労働なのに給料は安く、一体なんのために働くのか分からなかったんです。また、親の商売を見ていたこともあり、従業員を大量に雇って売上ばかり伸ばして利益を薄くするよりも、少ない人でも利益が出るようにすればいいのにと思っていましたね。

営業職は自分に向いているのかもしれない


半年程で飲食企業は辞め、車用品のメーカーで経理として働き始めました。車は元々好きだったし、事務職に就きたいと考えている時に転職エージェントから紹介され、経理の仕事にも惹かれて就きました。

初めての仕事で最初は戸惑いましたが、慣れてしまうと自分で仕事のペースを作ることができ、すぐに暇を持て余すようになりました。そこで、営業事務を手伝うことにしました。会社の商品は車マニアの人たちに好かれる商品で、会社に直接問い合わせが来ることも多く、その対応を営業事務としてサポートできたらと思ったんです。

すると、次第に営業に興味が湧いてきました。学生時代、営業は絶対にやりたくないと思っていたのですが、意外に私には営業が向いているのかもしれないと。ただ、社内の営業は機械の取り付けなど力仕事もあるので、女性のポジションはほとんどありませんでした。

そこで、営業の仕事を探すために2年程働いた会社を辞めて転職することに決めました。 営業職で仕事を探すといくつかの企業からオファーをもらうことができました。ただ、今までのように受け身で就職先を決めることはしたくないと考えていました。そこで、どこか面白そうな会社がないか考えた時、東北でも事業が拡大していたリクルートに興味を持ったんです。

利用していた転職エージェントがリクルートグループだったので、自らを売り込んでリクルートに入ることに決め、タウンワークという求人媒体の営業を始めました。

リクルートでは、契約社員でも自分たちの仕事が業績に直結することが見えたし、結果を出せば還元もされていたので、職場はみんな活力に溢れていました。営業の仕事は手をかけた分だけ結果に繋がり、逆に手を抜いた分だけ結果が下る、奥が深いものだと思いましたね。

また、私はすぐに色々なことに興味を持つ性格なので、採用という切り口で多くの業種関われるのは面白かったです。

生きるのに必要不可欠な農業に興味を持ち始める


人材の課題を抱える人事や経営者と話していくと、組織や社会は人が作っているのだと肌で感じることができました。すると次第に、組織とか社会といった広い世界に目が向くようになっていき、この社会で生まれた自分自身のルーツなども考えるようになっていったんです。

小さな魚屋の子どもとして生まれて、姉妹3人とも行きたい進路、進学をさせてもらえました。なぜそれが可能だったか考えると、食材がしっかりと調達できていたからだと気づいたんです。母親の家系は農家で母は家庭菜園で野菜を作っていましたし、父親の家系は魚屋で魚屋を営んでいるので、食べ物には困らなかったんですね。

また、リクルートの同僚の家族が農業で独立したということを聞き、週末にその手伝いをして仙台の街中で野菜を売ったり、営業したりするようになりました。すると、若い人が農業と珍しがってみんな買ってくれるんですよね。農業に関わるのは面白かったんです。

でも、一次産業は若者からの人気はありませんでした。生きていくのに必要な職業なのに、みんなの目は都会にばかり向いていて、その現状に違和感を感じるようになっていったんです。 そして次第に、一次産業と密接に関わる仕事をしたいと考えるようになっていったんです。

ただ、私自身、虫とか汚れるのを嫌がっている性格でもあり、もっと過酷な状況に身を置かないと、「地域が元気になるような仕事を」と言っても説得力がないと感じていました。 その時、たまたま青年海外協力隊の広告を電車で見て「次の挑戦はこれだ!」と思ったんです。元々海外に興味はあったし、ちょうどリクルートの契約が切れるタイミングだったこともあり、迷わずに応募しました。

地域の組織や枠組みを活かす黒子としての支援


私はパラグアイに赴任し、現地の農家の人たちの現金収入を増やすためのプロジェクトに従事しました。ただ、元々想定されているプロジェクトと、実際に現地で求められていることの間に差を生じることもあり、「支援すること」の難しさを感じました。周囲の価値観を押し付けるのではなく、あくまで現地に求められるものを提供することが大切だと学んだんです。

ただ、日本の現状からすると昔の日本を見ているのではないか、というような感覚もありました。つまり、今後その地域に必要なものが予測できそうな気がしてきました。その時に要求されるニーズに対して、適切に支援として提供していくことが日本ができる国際貢献の価値だとも感じていました。

そしてパラグアイに来て1年ほど経った時に、東日本大震災が起きました。地元に帰って目の前の光景を目の当たりにした時、言葉が出ませんでした。 私の実家も流されてしまいました。

家族が無事なことが分かり現地で再会することができました。その時の南三陸町の状況はパラグアイでの生活よりも大変な状況で、1年しか当時経っていなかった活動経験を活かすことができるのでは、と考えたんです。

そして一度パラグアイに戻り冷静に考え、東北支援を開始していた様々なNGO等に応募した末、国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンの一員となり、東北の復興活動を始めることになりました。

私は地元である南三陸町の復興支援を担当しました。復興支援と言っても、あくまで私たちは黒子であり、主役は「地域の組織」だと常に心がけていました。建物自体は流されてしまっても、組織の機能や仕組みは残っていて、その枠組みを活かそうと。周りから恩着せがましく「これをしましょう」なんて言うのではなく、あくまでその地域の人が発される言葉のように、考えを引き出すのが私たちの役割なのではないか、と考えながら活動をしていました。

実際、地域の人から意見が出てくるようになり、その案が実現されていくと、みんな少しずつ自信も取り戻せるようになっていったと思います。そして、ポジティブな空気が生まれる。私たちは、元々地域の人たちが持っている情熱や考え方を焚きつける役割なんですよね。

高齢者が自治できるしくみを


今はピースウィンズ・ジャパンとして最後の支援事業を行っています。宮城県本吉郡南三陸町の「びば!!南三陸」との協働事業で、高齢者の生きがいづくりと、地域住民の交流促進を目的としたコミュニティスペース「晴谷驛(ハレバレー)」を建設するプロジェクトです。

震災前は、高齢者は町内のシルバーセンターに集い、そこにはコミュニティがありました。晴谷驛は、震災で失われたコミュニティを再度取り戻すため、交流できる場所にしたいと考えています。

震災後、地元に高齢者が多く残ったように感じます。若者は職を探したり、住む場所を探したり、別の地域に出て行くことが多かったのです。ある意味、人口動態は自然現象に近いとも考えているので、私個人としては無理に若者の目を田舎に向けるのは違うんじゃないかなと思っています。むしろ、早く復興が進み、若者が住みたい、移住したいって思える地域になって、目を向けてもらってもいいんじゃないかと。

同じ日本で言葉が通じるからこそ、「同じ考え方」をできると考えてしまうけど、やっぱり田舎にはそこに根付いた文化や考え方があるし、色濃い場所なんですよね。その文化の違いを認識しなければ、田舎って生活するのが難しいんじゃないかと思っています。

そのように思っているので、地域に多く残る高齢者の方たち自身が活動を主体的に取り組めるような組織の基盤づくりも行っています。「60歳が若手です」みたいなものが1つのキーワードかなと。

また、私個人としては今後も東北で復興の道を選ぶのか、それともピースウィンズ・ジャパンの一員として、国際協力の仕事に就くのかは、まだ考えている段階です。国際協力は、目の前でどんどん変わっていくのが見られるので、それも面白いと。

ただ、結局は、何をするか、居心地のいい場所はどこかを探すよりも、自分で居心地のいい環境をつくる方が好きなので、その道を見つけるんだと思います。これからも、自分で納得できる選択をして、次なる挑戦をしていきます。

2015.05.11

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