「ビジネスで社会貢献」をインドネシアから。悩む自分にスイッチを入れてくれた地での挑戦。
Cyberagent Venturesのインドネシア拠点の代表を務め、現地の起業家に投資や経営支援を行うベンチャーキャピタリストの鈴木さん。打ち込んでいたスポーツを辞め、自らのアイデンティティを摸索していた学生時代に、ベトナムで訪れた転機とは?「ビジネスで社会貢献をする」という目標のために、異国の地で挑戦を続ける背景を伺いました。
鈴木 隆宏
すずき たかひろ|インドネシアでのベンチャー支援
2011年6月よりサイバーエージェント・ベンチャーズへ入社し、日本におけるベンチャーキャピタル業務を経て、同年10月よりインドネシア事務所代表に就任、インドネシア企業への投資活動及び経営支援業務に従事。著書:『インドネシアのことがマンガで3時間でわかる本 (アスカビジネス)』
「スポーツだけの人生」への不安
私は福岡県福岡市に生まれ、父の仕事の関係で幼稚園に入る前より東京で暮らし始めました。小学生からはサッカーを始め、わりと強いチームにいたものの、子どもながらに冷静なタイプで、プロ選手には一部にしかなれないから、そこを目指してもしょうがないと考えていました。周りにはJリーグの下部組織に行く人も多く、「絶対にこいつとやりあっても無理だ」と感じることがあったんです。
その分、自分は将来大学にも行きたいし、仲のいい友達が塾に通っていたこともあり、サッカーをしながらも受験勉強に打ち込み、早稲田中学に進学をしました。
中学高校は、引き続きサッカーに打ち込む日々を過ごしました。将来のことは特に考えず、卒業後もそのまま大学に行こうと考えていました。しかし、関心の対象が定まっていなかったため、例えば商学部・法学部と言われてもピンとこなかったんですよね。そこで、好きだったスポーツの分野なら面白そうだと思い、新設学部という環境にも惹かれスポーツ科学部に進学を決めました。
しかし、入学して1年で失敗したなと思いましたね。新しい学部なので、必要単位に対して授業数が足りていないという状況で、大学で学んでいてはダメだと考えるようになりました。また、サッカーについてはある種逃げていた部分もあったからこそ、再び真剣にスポーツに向き合いたいと思い、大学から始める人が多いラクロス部に入り、1年のほとんどを部活に費やしました。
ところが、そんな生活を経てオフシーズンに入り、短期留学を経験したり、ラクロス部以外の学生と接したりすると、次第にスポーツ以外のことを語れない自分に危機感を感じるようになったんです。
他の世界に触れたことで、「もっと広い世界を知った方がいいな」と考えるようになり、このままいくとスポーツだけの人生が確定することに、日に日に焦りが強くなっていきました。
特に、2年生になってからモヤモヤが余計に募って行き「こんな気持ちでスポーツをするのはすごく失礼だ」と感じていたんです。
そこで、2年生になってすぐのタイミングでラクロス部を退部することに決めました。苦渋の決断で、挫折に似た感覚でした。
アイデンティティの摸索とベトナムでの転機
部活を辞めたのは良いものの、何をしていいか分からない日々が続きました。ドロップした人は居づらい雰囲気もあり、大学にあまり行かなくなってしまい、2年の前期はほぼ棒に振ってしまうような状況に。
お酒を飲んだり、ぼーっと考える日々を過ごしたり、半ば現実逃避のように自分のアイデンティティを摸索していました。焦燥感で一杯でしたね。
すると、そんな状況を見かねた父から、ベトナムで孤児院の支援をしている方を紹介してもらい、そこに行ってみたらどうかと言われたんです。「何かしたいけど何もない」という状況だったので、藁にもすがるような思いでベトナムに行くことを決めました。
実際にホーチミンにある孤児院に訪れ、そこに滞在してみると、自分はいかに恵まれているのかを気づかされることになりました。その孤児院はフランス系の孤児院で、子ども達はフランス語も英語もでき、将来は通訳の仕事に就きたいと話していたのですが、その子ども達が通訳を目指すのは、「その選択肢しか無い」からだったんです。
そんな状況を目の当たりにし、たまたま自分は日本に生まれただけで山ほど選択肢がありながら、何も動けていない自分に恥ずかしさを感じました。
そして、そんな気づきをもらった環境に恩返しをしたいと考えるようになっていったんです。「自分みたいな学生は沢山いるんじゃないか」という思いがありましたし、自分がそうであったように、キッカケがあれば能動的になるんじゃないかと感じたんです。
そこで、帰国後は人が変わるキッカケを作ろうと、国連大学やNGOでのインターンを始め、途上国支援や大学生の背中を押すような活動に力を注ぐようになりました。もう、あんな時間を過ごしたくないという危機感もありました。
そうやって腹をくくってからは、自ら能動的に行動している分、再び生き生きした毎日を過ごすことができるようになっていきました。
ビジネスで社会貢献をするための修行
そんな大学生活後半を過ごし就職活動を迎えると、「ビジネスを通じて社会貢献をしたい」と考えるようになりました。悶々とした期間の内省から出て来た社会貢献へのやりがいに加え、NGOの現場で支援をする中で、一つの村しか救えないことに限界を感じてしまったんです。
逆にビルゲイツがマイクロソフトを大きくして財団を作り、社会課題に投資をしたように、ビジネスにはすごく可能性を感じたんですよね。そこで、ビルゲイツをモデルに、IT産業で成功することが最短だと考え、若くして活躍できる環境を探し、新規サービスを作り始めるタイミングで、挑戦の機会がたくさんあったサイバーエージェントに就職を決めました。3年以内には独立し、インターネット×社会貢献の分野で事業をしようと考え、修行のようなイメージで就職をしました。
内定をいただいてからは学生インターンとして子会社のCyberBuzzの立ち上げに参画させてもらい、配属時も、そのまま同社に入社することに決まりました。目標が決まっていたので、目の前のことに徹底的に打ち込む日々でしたね。いかに早くビルゲイツに近づけるかを考え、息を止めて仕事に打ち込みました。
その後、CyberBuzzでは営業のマネージャーにも抜擢していただいたのですが、3年目を迎えると、突然ソーシャルアプリの開発・提供を行うCyberXへの異動が決まりました。「3日後から異動ね」という状況に、知識も無く戸惑いもありましたが、もう逃げないと決めていたので、腹を据えて、新しく立ち上がる市場に携われることの可能性等、ポジティブに可能性を変換していきました。
インドネシアでVCという挑戦機会
しかし、ソーシャルゲーム部門では思うように成果を出す事が出来ず悶々と歯を食いしばり、苦しみながら仕事と向き合う日々が続きました。
すると、そんなタイミングで、役員の方から「鈴木さあ、インドネシア行ったことある?」と声をかけられたんです。新しくインドネシアに立ち上げるベンチャーキャピタル事業の子会社への異動の話でした。元々、東南アジアに関心があることや、学生時代の活動についても話をしていたので、その思いも汲んでいただいての話だったんです。
嬉しかったですね。「いよいよきたな」と思いました。正直、ベンチャーキャピタルについての理解は無かったのですが、メンバーと話をしていくと熱い人も多く、何より、ビジネスを通じて社会問題を解決する起業家やベンチャー企業の支援ができることに、「自分のやりたかったことにすごく一致するな」と思えたんです。
正式にCyberagent Venturesに入社し、4ヶ月日本で業務を行った後、インドネシア事務所の代表に就任し、インドネシア企業への投資活動、及び経営支援業務を始めました。27歳のことでした。
「スイッチが入った地」で生み出す新しい価値
現地では、ベンチャーキャピタルとして、一緒に事業を進めたいと思うインドネシアの起業家に数千万〜1億円を投資し、投資後は経営支援業務を行っていくのですが、仕事を始めてまず感じたのは、全くアポが取れないということでした。
現地でサイバーエージェント自体が知られていないため、起業家の話を聞くことにも非常に苦労しましたね。同時に自分がいかに会社の看板に支えられていたかを痛感しました。
そこで、イベントを開催する等色々な試行錯誤を繰り返し、徐々に現地でのプレゼンスを上げていきました。海外だからというよりは、そもそも会社自体の立ち上げが国を問わず大変だという印象でしたね。
2年ほど経った現在では、8社の経営支援をさせて頂いています。決済やEコマース・ゲームなど、IT分野の中でも領域は様々ですが、インドネシアのインターネット市場の創出に貢献できている感覚があり、非常にやりがいを感じますね。特に、市場ができ雇用を生むことができることや、インターネットサービスを通じて世の中を豊かにできることがモチベーションに繋がっています。
ビルゲイツみたいに成功して社会にインパクトを、と壮大なことをしたいという思いでは起業家と変わらないと思います。だからこそ、気持ちの部分で通じ合えるのはすごく嬉しいですね。
今後も、一生ベンチャーキャピタリストでいながら、何かを生み出すことで社会に貢献していきたいです。自分がスイッチが入った場所だからこそ、東南アジアには恩返しをしたいですし、日本人として、国際的な影響力に危機感を感じている部分もあるので、内から変えるのが難しいなら、外で暴れて変えていきたいという思いもあります。
2015.05.10