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40歳で教師を辞めてから、次なる挑戦
中学校での教師の仕事は、子どもたちと向き合っていくことにやりがいを感じていました。ただ、出世して管理職になることしか考えず、生徒のほうは全く見ない教師も多くいました。校長や教頭が出張で不在の日には、3時を過ぎるとみんな帰ってしまうし、私が何か成果を出すと、足を引っ張ろうとする人もいました。
私はそんなことにはまったく頓着せず、毎日子どもとの交換日記をしたり、紙芝居を作って授業を盛り上げたりしていましたが、だんだんと学校での出世競争に嫌気がさしてきました。その頃私の母や夫の母、姉の死が重なり、身体を壊してしまったのです。そしてついに20年ほど働いた教師の仕事を辞めることにしました。
その後、それまで仕事ばかりしていた私が突然暇な生活になってしまうと、ぼーっとする日々が増え、気がつけば鬱病になってしまったのです。何にもする気が起きず、命を絶とうと考えることもありました。さすがに家族が心配して、病院に入ることで全治することができましたが、鬱は何年か毎に周期で来るから、気をつけるようにと家族は言われていたみたいです。
そして、夫から「やっぱりお前は仕事が似合ってる」「宝石の商売をしてみないか?」と言われました。彼は銀行で審査の仕事をしていたので、色々な事業を知っていて、宝石は在庫になっても保管場所に困らないし、流行り廃りがないので価値が安定していると考えていたのでしょう。ただ、それまで宝石を身につけたこともなかった私は宝石を売るなんてとてもできないと、びっくりしました。
しかし、夫のすすめで、ある日宝石の講習会に参加してみることにしました。そこでは宝石を鑑別するために顕微鏡で石を見たりするのですが、他の参加者は顕微鏡なんてほとんど触ったことがない人ばかりでした。
日本ではヨーロッパと違って伝統的な宝石店というものがなく、ちゃんとした宝石店ができたのは明治以後で、業界大手の和光も昔は服部時計店、ミキモトも真珠の養殖から始まった会社でした。そして戦後、不動産などで大金を得た人が俄かに宝石業を始めたのです、そのため、堅気ではないような人が多く、彼らは計器の扱いは無知。その状況を見た時に、私でもできそうだと感じたんです。こちらは教師ですからね。
また、たまたま子どものころから親しく付き合っていた向いに住むおじ様が真珠や宝石の卸売りをしていたので、そこで商品を借りて、ひとりで販売することになりました。お金も知識もない状態からの始まりでした。