満を持して迎えた35歳の起業と挫折。新しい仕事文化をつくる再挑戦への思い。

実績豊富なプロフェッショナルを社外顧問としてマッチングする「プロパートナーズ」事業を運営する米田さん。幼い頃から経営者に憧れ、24歳で会社役員・27歳でベンチャーの創業メンバーを経験という経歴ながら、35歳で独立してからは順風満帆にはいかなかったとのこと。自らと向き合い新たに歩み始めた「新しい仕事文化をつくる」という挑戦とは?

米田 瑛紀

よねだ えいき|顧問マッチング事業運営
実績豊富なプロフェッショナルの力を自社の経営課題にあわせて活用できる「プロパートナーズ」事業を運営するエッセンス株式会社の代表取締役を務める。

中学生で決めた経営者になるという目標


私は広島県広島市で、自衛官の父と看護師の母を持つ家庭に生まれました。固い仕事に就く父とは対照的に、叔父は2代目の経営者で、山口県に30件以上の店舗を構えるチェーン店を運営しており、小さい頃から両極端な大人と接しながら育ちました。

そして私が憧れを抱いたのは、経営者の叔父の方でした。何に対しても「どうして?」と質問を投げかける私に対し、父は「そういうものだ」とか「そんなの知るか」という態度だったのが、叔父は「なんでそれを気にするの?」と深堀りをしてくれたんです。また、どこか野心的な雰囲気にも魅力を感じていました。

また、普通の人と同じことをするのが嫌なやんちゃ坊主だったこともあり、皆が学校に近いからという理由で同じ学校に行くことに違和感を感じ、中学受験をして、大学まで続く私大の附属校に入学をすることに決めました。

ただ、その学校は第一志望でなく、皆親がお金持ちの子どもが通うような学校だったため、公務員の家庭に育った私は劣等感を感じてしまい、いまいち馴染めない日々を過ごしました。同級生達は大きな家に住み、ファミコンのカセットも沢山持っていて、入部したテニス部のラケットも、とても高価な物ばかりだったんです。正直、暗黒時代と言ってもいいほど、あまり学校生活を楽しめずにいました。

また、そんなコンプレックスや叔父への憧れもあり、中学生の頃から、将来は起業して社長になろうと決めていました。何をするか、いつ起業するか等は全く決めていませんでしたが、周りにもそう伝えていましたね。

しかし、高校に進学すると、成績優秀者が集まる特進コースに入ることができ、そこには外部からの受験生も多数入って来たため、人の幅も広がり、カルチャーも変わっていき、次第に私自身前向きになっていきました。遊んでばかりの学生でしたが、学校は無遅刻無欠席で、瞬発的な勉強が得意なため定期テストの成績も良いタイプでした。

ただ、そんな風に要領よく物事をこなしながらも、大きな挑戦は避けてしまうタイプだったこともあり、大学はそのまま附属校に内部進学で入学することに決めました。成績的に内部でも行けることが決まってからは、受験勉強をするよりも、ユニークなアルバイトをする方が将来に繋がるんじゃないかと思っていたんです。高校生ながら夜のクラブでボーイのアルバイトをする等、中途半端な生活でした。

大学に入ってからは、青年実業家の先輩の事業を手伝い始め、絵画の販売やブティックの運営を行っていました。授業にはほとんど行きませんでしたし、仕事で稼いでいたこともあり、大学生ながら外車を乗り回していました。

そんな風にビジネスには早い段階で触れながらも、「どうやったら何の仕事で起業できるんだろう?」ということは常にもやもやと考えていましたね。

24歳で役員、27歳で創業参画へ


大学では先輩の手伝いの他にバーで働いていたのですが、ある時、お客さんとして来た、コンパニオンやモデル等、女性系の仕事に強い人材サービスを運営する、アズグループという県内の有名企業の女性役員の方と話をする機会がありました。

その会社ではモデルやコンパニオンを探しているとのことで、「学生に原石いない?」と聞かれたんです。そこで、仕事という体で可愛い子に声がかけられると思い、何人か学生の知人を紹介すると、その会社からも知人からも、すごく喜んでもらったんです。

元々、自分がすごいと思えることに関わり、人が喜んでくれることにモチベーションを感じるタイプだったことに加え、瞬発的に何かを伝えて喜ばせることには長けている自信もあったので、次第に自分は人材業界に向いているんじゃないかと考えるようになっていきました。それまで他の仕事では感じなかったやりがいを感じたんです。

そして、ちょうどその役員の方からオーナーを紹介していただき、この人から学びたいという理由と、いずれ起業するので、中小・ベンチャー企業で、幅広い業務を早くに担いたいという理由で、卒業後はそのままアズグループで働き始めることに決めました。

正直、学生時代は中途半端に要領がよくも、勉強含め、越えられない壁を痛感していたため、いつか追い越してやるという気持ちもあり、社会人になってからは仕事にそのエネルギーを注いでいきました。

最初の数ヶ月で既存顧客の営業のプロセスを一巡経験してからは、新規の顧客獲得に邁進し、顧客の幅も扱う仕事の幅も積極的に増やし、かなりの売上を積み上げていきました。そして、もっと会社がこうしたら良くなるという提言も積極的に行い、結果的には、2年目の24歳で役員を任せてもらえるようになったんです。大きな裁量も持たせてもらい、どこまでこの事業を伸ばすことができるだろうという好奇心もあり、仕事に打ち込んでいきました。

しかし、一方で、このまま行けば自分が独立できるのは人材サービスになるけれど、さすがに育ててもらった会社の競合となるようなことはできないという思いもあり、うっすらと不安も感じながら過ごしていました。

すると、ある時、業績や成果等を踏まえて、オーナーに自分と部下の報酬を上げてくれと頼んでみた時に、「図に乗るな!」と一括されてしまったんです。誰のおかげでここまで来たんだ、と。その時に、やはりこの会社はオーナーの会社で、力不足はあるものの、自分は経営には食い込めないんだなと感じてしまいました。

そして、ちょうどそんな葛藤を抱えながら働いていたタイミングで、社外のメンター的な形でお世話になっていたクライアントの支店長の方が、営業アウトソーシングの事業で独立するから、一緒に来ないかとお話をいただいたんです。

元々非常に尊敬している方だったこともあり、この人の元で0から1を生み出すことを学びたいという思いに加え、5年以内に東京も含めた全国区にするからという言葉に惹かれました。

ぼんやりとですが、30歳頃までには独立して東京にも進出したいという思いを抱えていたため、そのまま会社の創業に参画することに決めたんです。

27歳のことでした。

起業できていない焦りと、35歳のスタート


それまで業界の営業で成果を出していたとはいえ、創業期のベンチャーでの営業に挑戦してみると、最初の3ヶ月はプライドがボロボロになりそうな成果しか出すことが出来ませんでした。営業責任者として、地道なテレアポから始めたのですが、会社名が全く知られていないこともあり、全く取り合ってもらえないんです。生まれ育った広島を離れ、福岡の本社で働き始め、見知らぬ街で初めての一人暮らしを始めたことも重なり、逆境続きでしたね。

しかし、声をかけていただいた社長や副社長の方が素晴らしい方だったこともあり、次第に事業は軌道にのっていき、ナショナルクライアントの営業代行を務めるようにもなり、私自身、営業として一皮むけたような感覚がありました。4人で始めた会社はどんどん拡大していき、私が立ち上げた営業組織も人が増えていき、全国に拠点も増やしていきました。

ところが、30歳を迎えると、ふと焦りを感じるようになったんです。「あれ、俺、30歳には起業すると思っていたのに」と感じたんですよね。

とはいえ、創業の苦しい時期を乗り越えて会社はうなぎ上り。会社が面白くて居続けてしまう状況に後ろめたさを感じていました。

そこで、今すぐにこのタイミングで起業しようという発想には至らなかったものの、少し期限を遅らせて、35歳には自分で会社を立ち上げようと決めたんです。そんな風に改めて目標を設定してからは、会社にコミットしながらも、自らの独立の準備を進めていきました。

特に、どの分野で会社を起こそうかと考えていく中でふと思い至ったのは、会社がブレークスルーするきっかけとなった顧問の方の存在でした。元々、ベンチャー企業のため、国内の大手企業との契約を欲してはいながら、中々形にならなかったのが、顧問の方に協力を仰ぐようになってから、その人脈により営業の速度や確度ががらっと変わっていったんです。

そういった経験を当事者として味わっていたからこそ、この社外の人脈を活かした営業方法をなんとか仕組み化できないかと考えるようになっていきました。すると、アメリカには「セールスレップ」と呼ばれる、自らのそれまでの事業経験に紐づく人脈を活かし、営業販路を拡大する支援を行う個人単位の働き方があることを知りました。そして、次第に、「何故日本にはこの働き方がないんだろう?」と考えるようになったんです。

そこで、ネットワークを持っている元経営者や営業部長を集め、企業に向けた人脈を通じた営業網を利用した、セールスアライアンスサービスを提供することに決めました。

そして、35歳のタイミングで満を持してエッセンス株式会社を立ち上げたんです。

期待に満ちた事業が失敗、倒産危機からの方向転換


サービスのリリース前から、この新しいビジネスモデルの評判は良く、メディアの取材も多数受けていました。「コンセプトが面白い」という声を多数いただいていましたね。

しかし、実際にサービスを開始してみると、特に営業力に課題を抱えている企業から多数の問い合わせを受けるのですが、正直、玉石混交という印象で、営業先からも「エッセンスが持ってくる商品は弱い」と言われてしまったんです。20名集めた営業顧問の方々も、自らの人脈を紹介するが故に商品の質には敏感で、結局成果報酬のため、収入があまり入ってこない状況が続いてしまいました。

35歳でやっとスタートできた会社が、1期目で気づけば倒産間近になってしまっていたんです。学生時代から、ここぞというタイミングで手を抜いてしまっていた弱さが出たような形でした。周りでは前職の後輩が先に起業して順調に軌道に乗っており、「米田さんがついに起業する」と期待もしてもらっていましたし、自分の起業に恥じないような新しいものを作ろうという自信や意気込みもありました。その結果、大事な部分の検証を怠ってしまっていたんです。

前職を一緒に退職して、ついて来てくれた創業メンバーも会社を離れることになり、もう心はボロボロでした。

しかし、「ここで諦めたら、ガキの頃からの夢が終わってしまう」という一心で、もう一度、残ってくれたメンバーと再スタートを切ることに決めたんです。

そして、改めてマーケットに真摯に向き合ってみると、顧問の方から聞いた「●●社みたいに尖った会社なら顧問として支援したい」という声や、クライアント側からの「もっと一人に深くコミットしてほしい、●●さんのような人に顧問をしてほしい」という声をいただくことができ、すごくシンプルに、社外の営業参謀と企業をマッチングすることにニーズがあることに気づいたんです。

そこで、2期目からはビジネスモデルを一新し、まずは自分の人脈を通じてキャリアのあるエグゼクティブ層の方に「あなたの人脈を次の世代に渡していきませんか?」と伝え、顧問となる方を集めていったんです。

ちょうど、団塊世代の方々が60歳を迎えるタイミングと重なったこともあり、段々と協力してもらえる方が増えていきました。

「新しい仕事文化をつくる」という挑戦へ


「プロパートナーズ」と称したその新しい働き方は方向転換以来なんとか軌道に乗っていき、今では最年少で29歳から、60代の方々まで500人以上の方に登録していただいています。また、領域も営業だけでなく、管理部門等多岐に広がっていきました。

中には日経ランキングTOP100に入る会社の役員クラスの方も多数所属しているのですが、自分の企業以外で通用するか不安を抱えている方もいらっしゃるんです。実際に、過去の遺産を武器にしてしまいプライドを捨てられない方は、顧問登録のための面談で落ちてしまうケースもあります。

そんな風に、自らの経験を社会に還元するという方向性に加え、自らの新しいキャリアのスタートへの充実感を感じられている方が多いですね。

また、支援先のクライアントについても、これまで紹介経由等が多かったのが、徐々にサービス自体の認知が広がって来ている感覚があるので、マーケティングを強化していく予定です。元LINE代表取締役の森川さんがベンチャー企業の顧問を多数兼任するような昨今の流れは非常に追い風に感じています。

実際に、顧問の方を介すことでこれまでキーマンに届かなかった企業との契約に至ったり、業績の向上につながったという嬉しい声もいただいています。

また、プロパートナーズの事業以外にも、クライアントの課題を聞いている中で必ず出てくる正社員ニーズのためのヘッドハンティング事業等も行い、最終的には、「新しい仕事文化をつくる」ことを目指していきたいです。社外役員を務めることがエグゼクティブの証になったり、転職をせずに他社で働けたりというような、新しい文化作りに挑戦したいですね。

個人的には50歳くらいまでこのままで走りながら、「新しい仕事文化をつくる」ことに繋がる新規事業に対して、任せるべき人材を立て、資金・経営リソースを提供し、事業を一任するような、オーナー型の経営者として、他の人の挑戦を支援していきたいです。それが究極の人材ビジネスのような気がしています。

そんな風に、今後も走り続けていきたいと思っています。

2015.05.05

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