福岡発アジア行、ITで日本企業の後方支援を。学生起業・上場企業を経験し30歳で選んだ道。
【another life. × 地域 スタートアップ都市福岡】「福岡からアジアへ」というテーマのもと、福岡・上海・タイに拠点を構え、中小企業のシステム開発支援を行う入江さん。学生起業・上場企業への就職、上場を目指すベンチャー経営と様々な挑戦を行いながらも、「何のために仕事をやっているんだろう?」と感じた瞬間もあったそうです。そんな入江さんが描く将来の目標とは?お話を伺いました。
入江 英也
いりえ ひでや|中小企業のシステム開発支援
中小企業のシステム開発支援を行う株式会社ユウシステムの代表取締役を務める。
株式会社ユウシステム
アイデアを形にして人の役に立つ、エンジニアへの憧れ
私は熊本県山鹿市に生まれました。祖父も父も自ら創業し会社を経営している家系であったものの、会社は世襲にしない決まりがあり、やりたいことをやりなさいと言われて育ちました。
また、10歳の時に何気なくテレビで太陽光発電の特集を見て、ぼんやりとですが、自分のアイデアを形にして人の役に立つようなエンジニアに憧れを抱くようになりました。「太陽の光で電気ができるなんてすごい」と、非常にワクワクしましたね。
そこで、ファミコン世代だったこともあり、まずはゲームを作りたいと思い、親に頼みこみ12歳でコンピューターを買ってもらい、プログラミングを始めました。すると、どんどんITの世界にのめり込んでいき、中学を卒業してからは、地元の高専に進学することに決めました。かなり専門性が高い学校だったため、周りから反対されることもあったのですが、いかに早く技術を身につけ、自分の考えていることを実現できるかに関心があったので、迷いはありませんでした。
高専では電子制御工学科という学科に所属し、エレクトロニクスとITを組み合わせたような分野の勉強をしました。授業を行う先生は元民間企業の方も多く、施設も充実しており、やりたいことにピュアに取り組めるような環境でした。担任の先生に言われた「国の役に立つ技術者になりなさい」という言葉も非常に印象に残りましたね。
また、15歳から20歳までが同居する寮生活では社会を教わり、学校が楽しく、夏休みも実家に帰らないような生活を送りました。特に、高専には留学生が多かったこともあり、私自身寮でマレーシア人の学生のチューターを務めることになり、その友人から、お世話になったからとマレーシアに招待してもらったんです。
彼の故郷はボルネオ島というオランウータンがいるような島で、ご飯を手で食べるような環境だったのですが、その異国での経験がとても楽しく、それ以来バックパックで海外を回るようになりました。「将来は海外で働いてみたい」という思いも抱くようになりました。
その後、専攻していた領域で有名な山川教授という方が九州工業大学に移られたという話を聞き、是非その方から教わりたいという思いで、卒業後は同大学の3年生に編入をすることにしました。
研究をビジネスに、学生ベンチャー創業
大学に入ってからは念願だった山川研究室に所属し、研究を始めました。山川先生は「研究だけで終わってはいけない」という考えのもと、民間企業との共同研究をビジネスに変えていく部分にも注力しており、世の中の役に立ってこそ意味があるということを強く学びました。
また、在学中にWindows95が発売され、プログラム開発やwebサイト制作等、研究室のメンバーとエンジニアとしてアルバイトをしていたのですが、それを見た先生から、「そこまで仕事をするなら、会社を作ってしまえば?」という言葉をいただいたんです。
研究室で扱っているテーマをビジネスに活用していいという先生の後押しを受け、ちょうどベンチャーブームが始まっていたことも加わり、同じ研究室の門下生である先輩と3名で、合資会社を立ち上げることに決めました。
学生ながら役員になり取締役という肩書きを持った私は、「いきなり社会的な責任を負う立場になったな」と感じ、気を引き締めなければと感じましたね。
新しい挑戦でしたが、人を雇って給料を払ってという立場に責任を感じ、「やらんといかん」という気持ちで仕事に取り組みました。
社会を知るための就職と、自分のやりたいこと
しかし、学生ベンチャーで仕事を続けていくと、ふと、自分は社会のルールを分かっていないなと感じる瞬間が何度もあったんです。「稟議」と言われても字が浮かばないし、何のことか分からない、お客さんに教えてもらうものの、実体験がないからイメージが浮かばない、そんな課題感がありました。
そこで、「このまま経営側に進んでしまうとまずい」という思いから、先輩には申し訳なさを感じながらも、一度就職をしようと考えるようになりました。
そして、父の経営する会社が火災報知器の会社の傘下で事業を行っていたこともあり、継ぐことはできなくても、何か手伝えることがあるのではないかという気持ちから、火災報知器を扱うホーチキ株式会社に就職を決めました。まずは3年間働いた上で、ベンチャーに戻るのか会社に残るのかを判断しようと考えたんです。
入社後は名古屋支店の配属になり、どこが一番「会社」を理解できるかを父に相談した結果、「現場に行け」という助言をもらい、火災報知器の取り付けや保守等を行う、施工管理の部署で働き始めました。
実際に現場に出ると、建設業界のヒエラルキー構造や買いたたき、サブコンと言われる設備工事を請け負う建設業者や職人との付き合い方等、社会の縮図のような現場で、会社や業界全体のことを学んでいきました。
そして同時に、父の会社と同じ業界ではあるものの、環境として魅力を感じないことにも気づいていきました。商品の社会的意義は大きいものの、消防法というルールの制限もあり、仕事の中で創意工夫がしにくい業界である印象を受けたんです。入ってみなければ分からないことでしたが、それは元々私が志していた働き方とは異なるものでした。
そこで、ちょうど3年働いた後、学生の時に創業に携わったベンチャー企業に戻ることを決めました。正直、会社に成長の機会をたくさんいただいていたこともあり、抜けることの申し訳なさはあったものの、上司から、「そういう風に思ってくれるのは嬉しいが、やりたいようにやったらいいよ」と言ってもらえたことで、思いが固まりました。
一度きりの人生なので、やりたいことをやろうと決めたんです。
30歳の独立、胸を張って中小企業経営を
先輩と立ち上げたベンチャーに復帰してからは、研究で特許を取って技術でブレークスルーをして、というメイン事業に投資を行うため、中小企業のシステム開発事業の取締役を務めることになりました。
再び給料を貰う側から払う側に変わって責任を感じながらも、事業や組織の成長が目に見えるフェーズでの会社経営は非常にやりがいがあり、それまで以上に仕事に注力していくようになりました。
そして、会社は周囲からの期待も受け、上場準備のフェーズに入ったんです。しかし、実際に監査を受けながら仕事を始めると、短期的に赤字を出してしまうプロジェクトは詰められてしまい、次第に仕事の仕方に違和感を感じるようになってしまいました。
ある種お金だけにこだわった基準で仕事が進められることに対し、「何のために仕事をやっているんだろう?」と感じてしまったんです。
そこで、正直その環境から逃げたいような気持ちもあり、転職エージェントの方に相談をしてみることにしました。
すると、転職を進めるはずのエージェントにも関わらず、「入江君、自分で会社をやったら?」という言葉をいただいたんです。これは正直予想外でしたが、元々祖父や親の影響もあり、そこで自ら挑戦してみようと考えるようになりました。
それまで努力をしてきたことで、手に職をつけている感覚がありましたし、転職相談をしていても自分の価値には自信を持っていたことで、不安がなかったことも大きかったですね。
そんな背景から先輩に相談の上、クライアントが被らないように引き継ぎをした上で、30歳のタイミングで、中小企業のシステム開発支援を行う株式会社ユウシステムを立ち上げました。
自分の持っているものはITしかないし、やってきたことの延長上にあることの方がスムーズに挑戦ができると考えていたので、事業に迷いはありませんでした。所謂新しい技術を生み出す「ベンチャー」ではないものの、上場等を目的にせず、胸を張って中小企業を経営しようと決めたんです。
福岡からアジアへ、世界10拠点で日本企業の後方支援を
創業当初は会社自体が認知されていないこともあり、「なんの会社なん?」と聞かれることが当たり前で、苦労もありましたね。
ただ、福岡市の制度で創業の支援をしていただき、福岡市の商工会議所内にオフィスを持ち、インキュベーション施設の利用や、会計や販路拡大等の専門分野について、メンターの方から3年間サポートをしていただけたんです。
零細企業が立ち上がっていく際に行政の力は非常に大きく、行政との仕事の実績を作れたことや、会社自体が商工会議所の住所を掲げ創業支援を受けている旨が相手に分かることで、信用の面では非常に助かりましたね。
そういったサポートもあり、順調に会社は軌道に乗っていき、2010年には上海に初めての海外法人を立ち上げることができました。
元々抱えていた海外で働きたいという思いに加え、日本市場が縮小することへの危機感もあり、リスク分散のためにも海外に展開していこうと考えたんです。実際に上海で展開を始めてみて、ニーズは確かにあり、日本の技術の強みを活かすことができ、上海でできたつながりから日本の仕事につながる相乗効果もあり、手応えを感じています。実際に私も上海に住み、特にアジア地域へのビジネス展開に力を入れていく予定で、2014年にはタイにも拠点を立ち上げました。
今後は60歳までにアジアで10拠点を立ち上げることを目標にしています。福岡市の高島市長が掲げている「福岡からアジアへ」という先例になっていきたいですね。そうすることで、日本企業の海外進出の後方支援ができればという思いもあります。
そのためにも40代を迎えた今はまず自分の棚卸しと、体系立てて経営を学ぶベく、仕事をしながら経営大学院にも通っています。この数年でどう走るかを決めて、これからもスピードを上げていきたいです。
2015.04.10