自ら時代を創る意志を持った挑戦を、福岡から。アナウンサーから福岡市長になり、目指す社会。
【another life. × 地域 スタートアップ都市福岡】福岡県福岡市の第36代市長として、新しい価値を創る挑戦が生まれる「スタートアップ都市」のモデルを、福岡から発信する高島さん。プロレス好きな少年だったという過去から、アナウンサーを経て福岡市長という現職に至るにはどのような背景があったのか。そして、どういった思いが高島さんを突き動かすのか、お話を伺いました。
高島 宗一郎
たかしま そういちろう|福岡県福岡市市長
福岡県福岡市の第36代市長を務める傍ら、
スタートアップ都市推進協議会会長等の役職を兼任する。
個人Facebook
プロレス好きな少年が、中東問題に関心を抱く
私は大分県大分市に生まれ育ちました。曾祖父がいつもテレビで見ていた影響で、小さい頃からプロレスが大好きで、学校ではいつもプロレスごっこ、自分が戦わない時は実況係を務めるほど熱中していました。
私自身、あまり運動が得意でなかったこともあり、強く屈強な男達が闘う姿に、とても惹かれたんです。そして何より、入場する中でテーマが流れ、その選手の人生に思いをはせ、感情移入しきったところに、選手名のコールが鳴り響く、そんなストーリーに強く魅力を感じたんですよね。
地元の高校に進学してもプロレスへの熱意は冷めず、プロレスに関する本なども読むようになりました。すると、ある時、『たったひとりの闘争』というアントニオ猪木さんの本に出会ったんです。ちょうど湾岸戦争の最中で、その本は、参議院議員を務めていたアントニオ猪木さんが、中東のイラクに、邦人の人質となっていた方を救出しに行った際の訪問記でした。
最初は、純粋にプロレスへの関心から本を手に取ったのですが、読み進めていくうちに、自分が知っている、テレビの報道で伝えられている中東の姿と、本の内容が異なることに疑問を感じるようになったんです。そこで、自分でも中東問題について、勉強してみることにしました。正直、高校では学校の勉強はほとんどしていなかったのですが、関心を持った中東問題に関しては、色々な書籍を読み、熱を入れて調べるようになりました。そして、次第に、自分の目で確かめてみたいという気持ちが強くなり、早く大学に進学し、実際に中東を訪れたいと考えるようになったんです。
そこで、卒業を控えると、指定校推薦で大学への進学を決め、上京することに決めました。
大学に入ってからやりたいことが明確だったこともあり、どの学校に行こうとあまり変わらないという思いもあり、なんとなく選んだような感覚でしたね。所謂「大学受験」を経験せずに、卒業・進学が決まりました。
中東を訪れて初めて意識した「日本」
その後、大学に進学してからは、日本中東学生会議という組織の立ち上げに参加し、外務省などとも連携しながらエジプト・イスラエル・パレスチナにて、日本の学生と現地の学生がディスカッションを行う機会を設ける活動を始めました。そして、そこで初めて中東に足を運んだんです。
「抱いていたイメージと全く違う」
それが、現地で抱いた初めての感想でした。正直、戦争のイメージ含め、どこか怖い印象を持っていたのですが、実際に足を運び、その地域の方々と話をしてみると、驚くほど、皆暖かく接していただいたんです。
そして、それは自分が「日本人」であるからという点が大きいことにも気づきました。日本人であることで信頼をされ、周囲から愛され、歴史も経済も国際社会での振る舞いも、様々な面で褒められるということを経験したんです。
なんだか、自分が恥ずかしかったですね。世界史と称して他国の一部分だけを学び、ニュースを見て一方的に相手に怖いイメージを持っていたのに、実際は全てがそんな状況というわけではなかったんです。
また、パレスチナ自治区に足を運んだ時に、初めて「国を持たない人」に出会い、自分たちが置かれている環境のありがたさを再認識しました。
その旅を経て、自分たちは国家によって守られていたんだなと初めて感じることができて、いつしか誇るべき日本と、生まれ育ったふるさとを守るため、将来は政治の道に進みたい、と考えるようになったんです。
日本の状況が変わる中、就職難を切り抜けアナウンサーに
また、学生団体としての活動で名刺を持ち、企業への渉外等も行うようになりました。すると企業の方からは名刺の大学名を見られていることに気づいたんです。
色々な企業の方とお会いする中で、それをまざまざと感じ、「ああ、社会とはこういうものなんだ」と感じましたね。誤解無きように加えますが、大学生活自体には満足していました。しかし戦わずして自分の事を決めつけられているような状況に、今更ながら悔しい思いをしたんです。
だからこそ、今後はそんな風に戦わずして言い訳をするような人生を絶対に歩まない、と強く決意をしたんです。それ以来、「どんなにリスクがあっても、本当に自分がやりたいことに正直にチャレンジしよう」と決めました。
そして、大学3年生を迎えると、将来は政治家になることを明確に志すようになりました。
就職活動として私が志望したのは、テレビ局のアナウンサーでした。学生時代の経験からも、色々な現場を見て報道できることで、自らの学びにつながるんじゃないかと感じましたし、父や親戚もアナウンサーだったことから、自分の中でイメージしやすい職業でもあったんです。もちろん記者としてではなくアナウンサーを選んだのは、将来の政治家へ挑戦するときのイメージがあったのも事実です。
しかし、迎えた就職活動では、バブルがはじけて就職難ということもあり、決して楽な環境ではありませんでした。特に進路を決めるのが遅かったこともあり、アナウンサーの受験生としてのトレーニングは全くできていない状況だったため、面接では、とにかく他のどんな学生よりも自信のあった中東の話をし続けました。(笑)
「必ずもう一度中東で戦争が起こるから、その時にキャスターとして伝えたい」
ということを熱く語っていたんです。そして、地元九州で父のふるさとでもある福岡のKBC九州朝日放送に内定をいただくことができました。
そんな風に進路が決まり、一安心はしたものの、就職活動を通じて、日本の社会の状況が以前と変わっていることに、危機感も抱くようになりました。
小さい頃から日本は絶対に世界一だと思っていたし、海外でもそういった評価を受けていたはずが、TVのニュースでは「成長」という言葉を使わなくなり、少子高齢化社会や年金問題など、話題の中心はいつも自分より上の世代。やっと自分たちの時代が来ると思っていたのに、どこか中心になりきれない状況に、漠然とした不安を感じるようになったんです。
プロレス実況に中東報道、夢を叶える日々
それでも、実際に就職し、アナウンサーとして働き始めると、環境に恵まれ、非常に充実した社会人生活を過ごすことができました。
特に、入社1年目でテレビ朝日に入社した同期が、私が小さい頃から憧れていたプロレスの実況に携わるようになり、「夢がこんなに近くにある!」と感激しましたね。そこで、私も一回で良いからこの放送席に座りたいと考えるようになり、その日から毎日、いざ機会が巡ってきた時のためにスポーツ新聞の切り抜きを始め、東京で大きな大会がある時は、会社を休んで自費で運営の手伝いに関わるようになったんです。
すると、さすがに九州からわざわざ仕事を休んで来るのが珍しかったのか、色々な方に気にかけてもらい、たまたま福岡の大会の日に、前日の雨により並行して開催されていた甲子園が順延し、プロレスの実況予定だったアナウンサーの方が参加できなくなったという知らせを受けたんです。そして試合開始2時間前に「お前、実況をしてみるか」と声を掛けてもらったんですよね。まさに、奇跡のような展開でした。
そこで、その瞬間のために準備していたスクラップを鞄から出し、大会の前半の試合の実況を務めさせてもらったんです。正直、いきなり地方の局アナに任せたということもあり、期待のハードルも低かったことで、本番の実況を終えると、「お前はすごいな!」と評価していただくことができました。
実は、その放送自体、スカパーで放送されるものだったので、後でアナウンス部長に謝りに行くことにはなりましたが。それでも、最終的にはテレビ朝日から、地方局では異例の「ワールドプロレスリング」の実況アナウンサーに抜擢いただき、小さい頃からの夢を叶えることが出来ました。
そして、そのお仕事のご縁から、アントニオ猪木さんの九州での講演会の司会を務める機会をいただき、ボロボロになった『たったひとりの闘争』を手に、全てのキッカケになった方に、お礼を直接伝える機会にも恵まれました。
他にも、イラク戦争の際にキャスターとして報道する機会をいただくなど、目標としていたことが一つずつ叶っていくことができたんです。
35歳、アナウンサーから福岡市長選出馬へ
そんな風にアナウンサーとして沢山の機会に恵まれ、ついには、毎朝6時台から11時台まで、3つの番組のレギュラーを務めさせていただき、局の特別番組でもキャスターを任せていただけるようになりました。
特に、朝の情報番組ということもあり、朝起きて最初に聴く声が私の声だという方もいたため、前向きなメッセージを送ろうと、仕事に打ち込む日々を過ごしました。
ただ、職業柄、アウトプットが多く、より多くのインプットを欲するようなったこともあり、2009年からは社会人として大学院にも通い始め朝の情報番組を11時台に終え、そのまま大学院の授業に参加し、夕方からジムに通い、という生活となっていきました。「一日一生」というテーマのもと、毎日自分が出来る限界までやろうと考えて過ごしていましたね。
すると、ある日、そうやって全力で毎日を過ごしていた私の元に、自民党の先生が会いに来られたんです。
そして、
「福岡市の市長選挙に出てほしい」
と打診をいただきました。
そのお話を聞き、とにかくしびれたような感覚がありました。
「あなたの運命はこうですよ」
と導かれた気がしたんです。
元々、それまでの関心から、国会議員を目指そうと考えていました。しかし、そのお話を聞いてすぐに気がついたんです。自分が素晴らしいと思っていた日本は一つ一つの地域でできている。だから、一つ一つの地方が輝くことが大事なんだ、と。政令指定都市である福岡において、予算の執行権を持つ市長はスピード感をもってまちづくりが出来るということもあり、その魅力を強く感じました。
「なるほど、そういうことか」と、自分の中でこれまでの経験や背景とのつながりに納得がいき、突然ではあるものの、時が来たんだ、という感覚でしたね。
正直、恵まれた環境で、大事な仲間と働く環境を離れることに後ろ髪を引かれる思いは強かったです。しかし、前に進むために何かを「捨てる勇気」が必要だということは感じていましたし、大学受験の時のように、「挑戦しない後悔」はしたくないと感じたんです。
時は民主党政権下の逆境の中、私は会社を退職し、福岡市長選に出馬を決めました。
そして、福岡市長として最年少での初当選を果たすことができたんです。36歳になったばかりでした。
自分たちの時代を創る「意志」
現在は市長として2期目を向かえ、行政として、広域的に市民のサポートを行う業務に加え、「新しい価値」を生み出すチャレンジにもこだわっています。
具体的には、福岡を「スタートアップ都市」として、地域特性を活かした起業や、新しい事業に挑戦する企業を支援する取り組みを行っています。しかし、ここで真に目的にしているのは、単純に開業率を上げることだけでなく、新しい時代を自ら創っていこうという「意志」の醸成なんです。
就職活動頃から感じ始めた危機感はそのまま募っていき、「日本の未来は明るい」と言う時代ではなくなりました。幼い頃に抱いていた未来への明るい想定が、暗いものになっていったんです。
「いったい、いつになったら自分たちが主役の時代がくるんだ?」
そう考えたこともありましたが、私たちより上の世代は自分たちの時代を自ら築いてきたんですよね。だからこそ、私たちが自ら置かれた境遇を時代のせいにしても仕方がないんです。
言い換えれば、勝ち取っていかないと、時代は来ないと思うんです。
そのために、「昨日は無かった明日」が生まれることで、暗い未来の想定を明るいものに変える必要があります。それは、既にあるものの延長上で何かをするのではなく、別の次元で、イノベーションを起こす必要があると考えています。
だからこそ、そういった「意志」を元に、行政として、企業の延命措置ではなく、付加価値を最大化する支援に注力したいと思いますし、それは新規創業の支援だけでなく、既存企業における価値創造についても言えることだと考えています。
そうやって、自分たちが時代を創る挑戦を行うことに、多くの同胞が奮い立ってほしいというのが本音です。
そのためにも、福岡市としては、仕事面でチャレンジができ、それを支える暮らしの面でも、自然が近く、住みやすい環境を作り、地域の特性を活かして挑戦を支援するような、持続可能なモデルを創っていきたいですね。
2015.04.08