コンプレックスは、自分を変える原動力。美容・音楽を通じて伝えたいこと。

音楽家と美容家、2つの顔を持ち活動する田村さん。ビジュアル系バンドで活動し、メジャーシーンで活躍するも、解散を決意。その背景にはどんな思いがあったのか?見た目にコンプレックスがあり、4年間引きこもっていた田村さんが伝えたい思いとは?お話を伺いました。

田村 貴博

たむら たかひろ|音楽と美容で伝える活動
音楽家、美容家として活動する。

4年間の引きこもりを経て高校デビュー


私は千葉県で生まれました。祖父が家の隣で病院を開業していたので、私も医者になるよう育てられ、小さな頃から「医者にならなければいけない」と強迫観念やストレスを感じていました。

そんな背景もあり、食べることが発散で次第に太っていき、学校で容姿をからかわれるようになると、プライドが高かった私は「自分より勉強ができないくせに」と思ってさらにストレスを溜めてしまいました。

そして小学5年生のある時、突然学校に行けなくなってしまったんです。親にはひどく怒られるし、学校に行かなくてはと思いつつも、不登校になったこと自体が恥ずかしくて、引きこもり生活が続きました。

ただ、中学3年生になると卒業後の進路を具体的に考えるようになり、さすがにこのままではまずいと焦りを感じるようになったんです。

そして、特に将来やりたいことはなかったのですが、テレビで見ていたビジュアル系バンドのようになりたいと思っていました。音楽をやりたいのではなく、「彼らになりたい」という感覚でしたが、とにかく1人も知り合いがいない東京の学校に行き、高校デビューすることにしました。

4年間不登校だったことは誰にも言わず、新しい自分として生活を始めました。1年生からジムに通って痩せることに成功し、ビジュアル系バンドの雑誌を学校で見たり、授業中はバンドの絵を描いたりと、自分のキャラクターを確立していったんです。

そして2年生になると、「Janne Da Arc(ジャンヌ・ダルク)」というバンドのベーシスト「ka-yu(カーユ)」に強烈な憧れを抱くようになりました。彼になりたいと思い、すぐにオークションでベースを買い、学外の人と色々なバンドを組むようになりました。

3年目の初ステージの時からミュージシャンを目指す


ただ、将来は「彼になる」と言いつつも、具体的な方法は考えないまま高校を卒業してしまいました。仲の良かった友達が浪人していたので、私も予備校に通ってみたのですが、すぐに勉強は面白くないと気づき、3ヶ月位で辞めてフリーター生活が始まりました。

そして、1年程経った時、知り合いに誘われてライブに出ることになりました。それまでのバンドは解散なども多く、バンド歴3年目にして初めてのライブでしたが、初めてのステージは今まで感じたことのない気持ち良さがありました。

正直、「スポットライトを浴びている俺、カッコいい」と純粋に感じましたね。また、普段の生活では自分を出すのが苦手で、いつも人に合わせてばかりでしたが、ステージの上では、少しですが自分をさらけ出すことができたんです。

この時、音楽の楽しさを実感することができ、初めてミュージシャンになりたいと思い、曲を作ったり、精力的にライブをしたりと、具体的な活動がスタートしたんです。

色々なバンドを掛け持ち、転々としている中で、21歳の頃には事務所に所属しているバンドに加入することになりました。すると、そのバンドでの初ステージは、川崎CLUB CITTA(クラブチッタ)という1300人規模のライブハウスだったんです。

このバンドで、それまでの考え方と一気に変わり、1年でバンドは解散しましたが、次のバンドでもツアーに出たりワンマンライブをやったりするようになりました。

しかし、注目を浴びることが多くなったため、自分は特別だと勘違いしてしまい、堕落するようになっていったんです。音楽に対しても向き合わず、私生活もぼろぼろでした。

事務所の力でメディアに出ることは多かったのですが、自分自身の中身が浅いため、お客さんはあまりついてきれくれませんでした。それすら、事務所がお金を使ってくれないからだと、他人のせいにばかりしていました。

バンドを乗っ取ろう


そんな状態が4年も続くとバンドの雰囲気は最悪で、ついにライブ当日にメンバーの1人が飛んでしまい、すぐにもう1人メンバーが辞めてしまいました。この時、初めてこれからの人生に不安を覚えたんです。25歳、このままバンドを失ってしまったら自分には何も残らない、意地でもバンドを解散させるわけにはいかないと。

そして、それまで何も言わなかった事務所の社長に「何でだめだか分かる?」と、初めて怒られてしまったんです。この時、これまでの自分の傲慢さに気づき、改めてバンドと向き合わなければと感じたんです。

そして、社長が「俺だったらバンドを乗っ取る」と言っていたことに気づかせてもらい、リーダーになり、バンドを引っ張っていくため面倒なことを全部引き受けることにしたんです。曲も作り、ツアーも組み、プロモーションのための発信活動など全てを積極的にやり、メンバーが音楽活動のみに集中できる環境を作ることに徹しました。

また、それまでは常にカッコつけていたのですが、音楽や生き方に対する考え方・思想を少しずつ発信し始めました。自分をさらけ出すことで、同じような悩みを持っている人に勇気を持ってもらえるんじゃないかと思ったんです。ただ、ライブではめちゃくちゃカッコいいステージを見せることで、心が繋がった絆の強いファンの方々がついてきてくれるようになったんです。

また、小さい頃からの見た目のコンプレックスを解消するため、
アトピー治療から始まって、様々な美容法に興味を持つようになっていきました。
次第に、肌の手入れなどを聞かれることも多くなり、ファンの方々のお手本になれるようにと、美容情報も発信するようになりました。

自分のためではなく、誰かに伝えるための音楽


2011年、29歳でメジャーデビューすることが決まったのですが、そんな矢先に東日本大震災が起こりました。そして一旦バンド活動は止まり、計画停電なども行われる生活を送っていると、「音楽って何の力もない」と感じてしまいました。

それまで口では「音楽は素晴らしい」「生きる力だ」と言っていました。だけど、結局自分たちは誰も救えないじゃないか、綺麗事ばかり言っていたけど、結局は売れるための私利私欲だったんじゃないかと。

この時、何のために音楽をやっているのか、メンバーみんなで改めて考えてみることにしました。すると、初めて「誰かのために」という言葉が出てきたんです。

それまでは売れるため、メジャーデビューのためと息巻いて、「聴きたい人だけを全力で幸せにすればいい」と思っていたのですが、誰かに聴いて欲しい、求めてくれる人がいなくても求めて欲しいと、今までにない気持ちが湧き上がってきたんです。周りからダサいと思われても、それでも多くの人に伝えたいと。

そして、自分たちの思想や気持ちを伝えたいと、音楽の意味を再認識した上でメジャーでの活動が始まりましたが、少しずつ思いと行動にギャップが出てきてしまいました。握手券商法だったり、同じアルバムを何種類もパッケージを変えて販売したりと、「本当にファンのためなのか?」と思えることもありました。ただ、メジャーシーンでは関わる人も多く、売れなければ多くの人が露頭に迷ってしまうのも事実で、買ってくれる人がいるのであれば商品を出すのも、当然のことではありました。

そんな状況だったので、バンドの空気は悪くなっていき、辞めたいと訴えるメンバーも出てきました。私はリーダーとしてメンバーを説得して、なんとか活動を続けていきました。

しかしある時、最新シングルCDがテレビのランキングで5位になったのを見た瞬間、「くだらない、クソみたいだ」と感じてしまったんです。それまでは、ランキング上位になれば少なからず嬉しかったのに、全く喜べなかったんです。この瞬間、音楽への純度がゼロになっていることを痛感してしまい、バンド解散を決意したんです。

最高の終わり方を探していた


そして、バンド解散の情報をファンの方にもSNSで告知すると、なんと1万人以上にその情報がシェアされたんです。

この時、あまりの反響に正直驚いたし、今までやってきたことは無駄じゃなかった、誰かに伝えることができていたんだと気づかされました。自分たちは何も残せていなかったと、これまでの歩みを否定していたけれど、後ろを振り返ってみてれば、多くの人が支えてくれたからここまで来てこれていたんだと。

そして、改めて自分たちのしてきたことに自信を持つことができ、今までの感謝を込めて、最高の終わり方でバンドを完結しようと思ったんです。それからは音楽への純度も戻り、メンバー間のわだかまりも解消され、解散を発表したのにファンも増えていき、フィナーレに向かって勢いを増していきました。

そして2014年12月29日、渋谷公会堂を文字通り満杯にし、バンドとして最高の状態でラストステージを迎えることができたんです。

最後の曲でステージに立つ前には、「いい終わり方を探してたんだ」と、今解散することに妙に納得した気持ちがありました。9年半活動してきて、最高の状態での終わり方が分からず終われなかったけど、今は違うと。「必死」という字が表すように、物事にはいつか死がやってくるもので、どう死を迎えたいか意識して初めて正しく生きられます。私たちは解散という「死」を意識したからこそ生き返り、最高の状態で終わりを迎えることができたんです。

最後のライブを終えた後、メンバー全員一切の悔いは残りませんでした。

伝えることで、生きる活力を


バンドを解散してからは、美容の仕事を始めました。解散する少し前に「セルフエステ」の講習会に行った時、その代表の方が今まで出会ったどんな人より美しく、衝撃を受けたんです。それまで数々の美容セミナーに参加しましたが、口先だけの人も多かったのですが、その人は心技体が全て一致していたんです。また、その人が持つ「自分を愛して、褒めてあげる」という考え方にも心を打たれました。「バンドの次は、この人になりたい」と思い、すぐにインストラクターコースに申し込んだんです。

セルフエステによる顔面マッサージは、とてつもなく効果を感じるものでした。自分で毎日ケアすることで、顔の輪郭が明らかに変わりますし、私も若返るのを実感できたんです。より多くの方に伝えたいと思い、講師として地方にも行ってセルフエステを教えて回りました。

ただ、その活動自体は楽しかったんですが、あくまでセルフエステを広める団体の一員であるので、完全に好きなことができるわけではありません。私は自分がやりたいことをどんどん主張したのですが、団体の方針とは合わなくなってしまったんですよね。

一方で、美容講座で直接人に教えて、喜ぶ顔を見るうちに、「この子たちの美容に関する面倒を一生見たい。生活の中に入ってケアを一生してきたい」と思う気持ちは強くなっていました。自分のやり方で美容を提供してみたい。悩んだ結果、自分でお店を持って美容をやっていくことにしたんです。

そう決めてから、すぐにボディケア、アロママッサージ、フェイシャル、小顔矯正、骨盤矯正、腸セラピーなど、様々な学校に通いました。加えて、経営についても勉強する生活を1年ほど続けて、渋谷に自分のお店を出すことができました。

また、音楽の方でも、新しいプロジェクトをスタートさせ、美容家の活動と共に取り組んでいます。どちらも「伝える」という点に関しては共通しているんです。

私自身、辛い時、学校に行けなかった時期に、音楽を聞くことで気持ちが満たされていたように、音楽には心を満たす力があります。同じように、毎日鏡を見て落ち込んでいる人にも、頑張って磨いたら綺麗になると「伝えていく」ことが美容家の仕事なんです。私自身見た目のコンプレックスを克服することができたので、多くの人にも勇気を与えられたらと思います。

どちらも目に見えないものだからこそ、伝え方次第で無限大に届けることができるので、受け取ってくれた人の生活が変わるような、生きる活力を与えられたらと思います。

多くの人に支えられてきたので今があり、その恩返しをしていくことが、自分の使命だと思っています。その使命を背負い、毎日を積み重ねて行けば、きっと1年後はもっと良い状態になっているはず。逆に、サボってしまったら支えてもらった意味がなくなってしまうので、日々を積み重ねられるよう、しっかりと生きていきます。

2015.04.02

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