世の中のために、自分にできる貢献を。客観視して気づいた、日本と自分。
自身の30回以上の引越し経験をもとに、現在は大阪市内で不動産仲介会社を経営している松村さん。元々個人事業主として様々な事業を行ってきましたが、ある時を境に自分自身を振り返り、現在の事業を始められたそうです。いったいどのようなきっかけがあったのか、お話を伺いました。
松村 篤
まつむら あつし|新居を探す際の不満足を解消する不動産仲介会社経営
自身の30回以上の引越し経験を活かし、大阪ミナミに特化した不動産仲介会社を運営。
自分で決断し、行動する
徳島県で生まれ、教育に厳しい母親のもとで育ちました。
小さい頃から、母親の言うことをよく聞く子で、
小学校でも優等生であり、生徒会長も経験しました。
しかし、中学に入ると、母親の言う通りにしていたにも関わらず、
いじめに遭ってしまったんです。
しかもそれを母親に相談すると、
母親が先生に、自分の子供がいじめられている、とそのまま報告してしまい、
先生を通してその経緯がクラス中に広まって、
更にいじめがエスカレートしてしまったんですよね。
それがきっかけで登校拒否気味になり、道を逸れていくようになりました。
しかし、中学3年生の時に自分がある問題を起こしてしまい、
それを知って駆けつけた母親が、自分の目の前で泣き出したのを見たんですね。
それを見て、さすがにこのままではまずいと改心し、
もうすぐ高校受験の時期だったこともあり、
過去3年分の勉強をし始めて、カンヅメで勉強し、
なんとか進学校である普通科の高校に進学しました。
高校に入ってからも、まだやんちゃが完全には抜けていませんでしたが、
どちらかと言えば異性にモテたい気持ちでやっていた部分もあり、
中学の頃に比べだいぶ更生して、
ファッション性のお洒落を追求していました。
そしてその頃から友達と一緒にコピーバンドを始めて、
ライブハウスに出るようになりました。
ちょうどその時に、プロのミュージシャンを発掘しようという、
アマチュアロックバンドのコンテストの番組が流行っていて、
その審査に通り、出場することができたんです。
それまでは徳島の田舎にずっといたので、今まで出会ったことがないような人にたくさん出会い、
自分の価値観が一気に広がりましたね。
この経験を通じて、以前の母親の言いなりの自分と違い、
自分の意思でバンドをやると決断して行動に移したからこそ、
自分の見たい未来の景色が見えたんだと気付いたんですよ。
だから、これからも何でも自分で動かないと何も目の前の環境に変化は起こらないと考え、
今までの自分と決別しようと、17歳の時に実家を出て、徳島で1人暮らしを始めました。
とにかくこのままではマズイという思いを強烈に持っていましたね。
社会に出て感じた、自分への危機感
そして、アルバイトをしながら生活し、高校を卒業しました。
その時周りに進学する人はほとんどいなかったので、自分の中で大学に行くという選択肢はなく、
卒業後はしばらく建設業をしていました。
徐々に現場で認められ、最終的には辞めてしまう親方の後を引き継ぐ形で、自営業としてやるようになりました。
しかし、業種的に頭より身体を動かすという仕事だったので、自分にあまり合っていないなと感じていたんです。
そんな時、たまたま友人にビジネス系のセミナーに誘われたのですが、
その時、壇上でスピーカーをやっていた人が、何故だかとてもカッコよく見えたんですよね。
自分もその人みたいになりたいと人生で初めて尊敬し、
未来から逆算をして、その人を目標に勉強を始め、それから半年後には自分もスピーカーの仕事を始めました。
それからもとにかく本を読み漁り、主に経営について、寝る間も惜しんで勉強し続けました。
そして数年続けていると、その成果がどんどん現れ、加えて身につけた知識をもとに、パソコン販売業やホストクラブなどの経営も始め、
かなりの収入を得られるようになりました。
ただ、その時ふと周りの安定して継続して、成功しているスピーカーの人たちを見てみると、
大卒という肩書きを持っていることに気づいたんです。
実際仕事をしていく中でも、学歴により社会的信用が左右されることを感じることがありました。
このままでは、自分も今後、安定して成功し続けることはできないと、劣等感、不足感、危機感を何度も覚えましたね。
また、ちょうどその頃起業していたパソコンショップの事業の関係で、
弁護士の方と関わる機会がよくあったのですが、あまり自分の思うような仕事をしてもらえなかったんです。
そこで、それなら自分で弁護士になってしまえばいいんじゃないかと考え、大学の法学部を目指すことに決めました。
そして、仕事をしながら勉強をして大学を受験し、23歳の時に徳島を出て、大阪にある私立の大学に進学することにしたんです。
弁護士を志すも、また事業を始める
弁護士になるという目標ができたので、それまで自分でやっていた仕事は全て辞めて、
アルバイトをしながら大学に通い、資格試験のための予備校に通って勉強に励みました。
司法試験や司法書士、行政書士の試験を毎年受けたり、
同時に宅建・管理業務主任者などの不動産業界の資格も取得しました。
しかし、2回生の途中で実の姉が病気にかかり、家にお金の仕送りをしなければならず、
アルバイトはしていたものの、大学、予備校、仕送り、生活費という生活に、ついにお金が尽きてしまい、
予備校を辞め、弁護士を目指すことは諦めました。
それからは、また大学入学前と同じように自分で事業を始め、主に飲食店の経営をするようになったんです。
以前までの自分の経験があったことに加え、業界自体が好調だったこともあり、
あまり苦労をせずに事業を軌道に乗せることができました。
そして大学を卒業しても、そのまま様々な事業を続けて取り組んでいました。
そのうちの一つにホームページ制作会社があったのですが、その仕事の都合で、たまたま北京に行く機会がありました。
すると、中国はかなりバブルで、現地で知り合った日本人の方が、
日本から単身で脱サラしてアフィリエイトをしながら学業に励んでいるという話や、
中国に滞在している日本人が活躍しているという話を聞き、
これは面白そうだぞ、と興味を持つようになりました。
そんな経緯から、気軽な気持ちで、
北京に滞在してみようと思い立ったんです。
日本を客観視するとともに、自分自身を振り返る
実際に北京に滞在してみると、中国と日本があまりにも違うことに驚きました。
文化の違いを1つあげてみると、男女の関係も中国は平等で、
営業の受けの良い女性が仕事をして、子供を育てるのは夫の役目という家庭が多かったです。
競争が激しく、不正も多く、治安も悪かったと体感しています。
今までの日本での生活を当然のように感じていましたが、
本当はとても治安が良く、平和で恵まれた国だと、客観的に感じたんです。
中国に滞在する前にもフィリピンのマニラやタイのバンコクで、観光ではなく数か月以上滞在しましたが、
同じように体感したので、自分の中で確信に変わっていきました。
その一方で、自分のやっていた事業の関係で、20代前後の若い子から悩みの相談を受けることが多かったのですが、
甘えや依存心から、ネガティブなことを言っている若者に接していたり、
日本で鬱になってる人が多いというニュースを聞いたりしていると、
日本は平和ボケしているなと危機感も覚えたんですよね。
そんなことを実感し、日本に帰国してすぐ、たまたま友人に誘われて、英霊や戦没者を祀った神社に行く機会がありました。
最初は全く興味がなかったのですが、行けば人生観が変わるよ、と言われたので、半信半疑で行ってみることにしたんです。
すると、着いて館内のミニシアターを30分鑑賞させて頂いたところ、
感動して泣いてしまったんですよ。
日本のために命を落とした方々のおかげで、今こんなに日本は平和で、自分は幸せなんだと実感したんですよね。
そんなことを考えていると、今度は自分自身を振り返り、
今まで自分は日本のために何かして来れただろうか、と真剣に考えました。
すると、それまでは自分だけが儲かればいいやと思って事業をやっていたし、
人のため、社会のためという視点は無く、自分自身あまり貢献してこなかったのではないかと思ったんです。
仕事の仕方としても、まずお金が儲かる高収入のお仕事を基準に仕事を決めた、マネーモチベーションでやってきてしまったし、
もはやこれからはお金が問題ではない、と強く思ったんですよね。
自分が日本という国に貢献出来る事は何か?
そして、それならばこれからの自分の人生で、直接・間接的を問わず、
自分と関わった人達、また後世の人たち(子孫など)に何が残せるだろうかと真剣に考えました。
その時に思い当たったのが、自分の引越しの経験だったんです。
今まで、徳島県でも数回、大学進学時から、
事業で新店をオープンしたり、新しい事業を始める度に引越しをしていたため、30回以上になっていたんですね。
そして、自分はその内の20回以上も、信頼していた同じ不動産屋の営業マンに頼んでいたんです。
でも一般的な不動産屋の話でよく聞くのは、
新居を探す際は不動産業者を何件も回らないと
なかなか良い情報が得られない、
ぼったくられているのではないかと不安になる、
とにかく時間がかかる、等の「3つの不満足」なんですね。
でも自分では信頼していた同じ不動産屋に頼みだしてから、
そんな経験を1度もした事がなかったんです。
そこで、この業界自体に課題感を覚え、
たくさん引越しをしてきた自分だからこそ、貢献できる事があるのではないかと思ったんです。
そして、いろいろな業界で活躍している人々を、住まいから支えていきたいと考えるようになりました。
新規の契約数ではなく、もっと中長期的にお客さんとの関係を継続できているかを重視したり、
隠す事なく、全ての物件をお客様にお見せするようにしたり、
動画で物件紹介をしたりと、業界内でも新しい取り組みをしています。
そして、見えないモノがあり、誤解され過ぎているこの不動産業界を限界まで見える化し、
お客様が信頼して依頼できる不動産業者の選択肢を増やしていけるようにしたいと考えています。
現在は、社員が10人くらいですが、今後はもっと関西の都市全体に広めていきたいですね。
今までの自分は個人事業主として個人プレーは得意でしたが、
組織に所属したりする経験がほとんどなかったんです。
でも、これからはそんな自分のあり方や仕事の仕方まで変えて進化させ、
2つの夢のうち
パーソナルドリーム(自分の為の夢)だけではなく、
インパーソナルドリーム(誰かの為の夢)
世の中の為に、更にもっと言えば、
引き籠りやニートという社会問題、実家から独立しない若者の新居探しをもっと気軽にする事や、
大家さんの空室リスクなどの少子高齢化の日本の問題などに、もっともっと貢献していきたいと思っています。
僕の使命は、
世界中の人たちに共通の友達連鎖を与える事です。
目標は、残り4年の40歳までに、
「ワクワクし合える共通の友達1000人創出」
をどれだけの方々と分かち合えるか、自分の葬儀の時をイメージしながら、未来からの逆算をして取り組んでいます。
結果として共通の友達繋がりという、最効率の信頼と安心の影響力を与えれるネットワークを構築し、
新たな関係を生み出し続けて社会を変えていきます。
2015.01.17