日本に生まれ、夢が叶わないなんてありえない。インドネシア子会社の新卒取締役が描く未来。

社会人2年目にして、日系ベンチャー企業のインドネシア子会社の取締役を勤める笹川さん。サッカー選手を目指すも挫折・絶望した過去がありながら、ご自身が向かう方向性を見い出し、キッカケを掴むまでにはどのような背景があったのでしょうか?

笹川 大和

ささがわ やまと|インドネシアにて日本の美を伝えるメディア運営
「アイデアと情熱で夢を叶える」というミッションのもと、日本とインドネシアにてwebサービスを展開する株式会社リッチメディアにて、
インドネシア子会社の取締役を勤める。

株式会社リッチメディア
Kawaii Beauty Japan

挫折と病気


新潟県新潟市に生まれ育ちました。
小学4年生からいとこの影響でサッカーを始めたのですが、
最初は楽しいからという理由だったのが、いつしか、
サッカー選手になり、お金持ちになることで、姉2人と自分を育ててくれたお母さんに恩返しをしたい、
と考えるようになりました。

「自分が成功することが、お母さんのためなんだ。」

という気持ちがありましたね。
そのまま、中学でもサッカーを続け、高校では県内の強豪校に入りました。

ただ、そこでは自分が思い描いていた理想とは異なり、人生を変える大きな挫折を味わうことになりました。
誰よりも努力してきた自信は常にあったにも関わらず、結果が出ず苦しみ、
才能という残酷な現実を理解しなければならないのかと思いました。

「もしかしたらこれってだめなのかな?」

と人生設計が崩れていく感覚がしましたね。
夢は諦めなければ叶うと信じ続けたい自分自身と、
一方で現実を理解しなければならない自分自身との葛藤で15歳にして、絶望したんです。

そしてストレスから十二指腸潰瘍にかかってしまいました。
人生設計が崩れた時から、これはやばいなと思っていたので、
病気になったときは、「やっぱりきたか」と思いましたね。
また、それと同時に、やっと自分自身をストップ出来ると少しホッとしました。

そして、そのまますぐに入院をすることになりました。
その後、入院生活が始まると、友達や先生がお見舞いに来てくれたのですが、
自分にとってはそれがすごく嬉しくて。

「なんかサッカーをしてなくても、生きていていいんだな」

と感じたんです。
サッカーをしていない自分を、人が気にかけてくれることを予想していなかったんですよね。

退院後は再びサッカー部に戻ったものの、
それからは、サッカー選手を目指すのではなく、何かサッカーに変わるような熱くなれるような夢を探そうと考えるようになりました。

再び掲げた3つの目標


それからは色々な本を読み始め、たどり着いたのはビジネスでした。
本で読むビジネスのかっこよさに惹かれるとともに、
こんなに楽しそうに生きる人がいるんだ、という感動がありました。

それ以来、自分が社会に出るときに、
「誰とどこでどんなことをするか?」という問いに回答を持てるよう、
誰よりも仕事という経験をしようと決めたんです。

そして、学生だからこそ、深さではなく幅を広げようと思い、
「3ヶ月に1回仕事を辞める」という目標を作りました。

また、これからのことを考えて、
「人と話す言語としての英語を勉強する」
「コンピューターと話す言語としてのプログラミングを勉強する」
という目標を含めて、その3つを大学時代の目標として掲げることに決めたんです。

日本に生まれて夢が叶わないなんてありえない


大学に入学すると、最初は飲食店等でアルバイトを始め、
その後ベンチャー企業でのアルバイト、インターンシップを経験しました。 
幅を広げることを目的にしていたので、営業、エンジニア、商社、NPO、
コンサル、アメリカでのインターンなど様々な職種を経験し計10社以上で働きましたね。

また、大学1年の時に奨学金を利用してアメリカに1年間留学することが出来たんです。
ただ、奨学金試験に合格したものの、留学費のほとんどは
私費で支払わなければならず、
「今回も高校、大学みたいにお金を借りて留学に行きます。」

と母に伝えると、

「分かった。ちょっと待ってて。」と返答をもらい、
数日後に「お金を集めたから、私に払わせて」

との電話を受取り、
それからはもう、普通の留学ではなくなりました。
一瞬一瞬が真剣勝負。家族の期待にどう応えるか、常に家族の期待を背負って勉学に励みました。

実際に、現地では元々決めていた「日本語を絶対話さない」というルールを徹底し、
母親に連絡するときもアルファベットを使ってメールをして途中で怒られる(笑)、
という具合までストイックに行動をしていました。

この経験は自分にとってすごく大きく、
海外という比較対象を持つことで、日本を初めて知れたような気がしました。
日本ってすごく良い国だな、というのはもちろんのこと、
日本に生まれて夢が叶わないなんてありえない、と感じたんです。

また、3つ目の目標であるプログラミングの習得のために、
自らwebサイトを作り、メディアの運営を始めるようになりました。
すると、段々軌道にのっていき、ついには月20万円の売上がたつようになったんです。
「インターネットって面白いな」と改めて感じましたね。

そんな風に、当初定めた大学時代の目標に奔走しながら、
大学生活は過ぎていきました。

「誰と、どこで、どんなことを」への解


そんな大学生活を経て、就職活動の時期を迎えると、
それまでに培った経験や知識を通じて、改めて、
「誰とどこでどんなことをするか?」を考えました。

そして僕が見いだした軸は、インターネット・ベンチャー・海外の3つでした。

インターンや自らのメディア運営の経験からも、
インターネットは大好きになっており、仕事として関わりたいという気持ちがありましたし、
何より、インターネットは性善説で動いていると感じられるのが好きだったんです。
『Wikipedia』のようなオープンソースもそうですし、「アラブの春」のように社会に影響をもたらす例まで、
世界を変えるための一番効率的なツールだなという感覚を抱き、
このツールを、自分の思いのために使いたいと感じたんですよね。

そして、一緒に働く仲間としては、
「これから世界を変えていくぞ」と意気込むような仲間と働きたいという思いがありました。
ある種根拠の無い自身を持って、夢に向かって働く、そんな人材がたくさんいる環境としての、
ベンチャーに入りたいという気持ちがありましたね。
 
最後に、働く場所としては絶対に海外に出ようと決めました。
留学の経験からも、ビジネスの対象となる市場は1.2億人でなく70億人なんだな、という実感があり、
その中では、日本人であること自体も強みにできると感じたんです。
逆に、日本に居続けることがリスクだとすら感じました。 

そんな軸で会社を見て周り、最終的に社長や社員の方の魅力に惹かれ、
株式会社リッチメディアへの入社を決めました。
最初から海外の会社で働くことも検討したのですが、この人たちと一緒に働きたいという気持ちが大きかったですね。

内定をいただいてからは、インターンとして業務を始め、
社長と共にインドネシアに出張に行く経験もさせてもらいました。

若者の夢に投資したい


そして、大学を卒業し、2013年度の新卒として入社をすると、
いきなり、インドネシア子会社を任せてもらえることが決まったんです。

自分自身、海外で働くことは絶対にしたいと考えていたことだからこそ、
本当に嬉しかったですね。
親は海外を危ないと思っているので心配していましたが、
そんな不安をよそに、4月18日、僕は1人でジャカルタに向かいました。

実際に現地に行ってみると、
これまではアメリカしか行ったことが無かったので、アメリカに近い気分でいたのですが、大間違いでしたね。
文化も言葉も宗教も違うし、何も予定通りに進まず「すごい所にきたな」と思いました。

そんな中、合弁会社という形で子会社を設立し、
現在は、『Kawaii Beauty Japan』という現地向けに日本の美を伝えるメディアを設立し運営しています。
実際に働くのは現地で採用したスタッフなので、そのマネジメント等も非常にやりがいがありますね。

まずは、そうやって一緒に働く仲間を最大限幸せにするために、
サービスの拡大や地域の展開、上場等を目指すのはもちろん、
「アイデアと情熱で夢を叶える」という会社のミッションを達成できるよう全力を注いでいきたいです。

また、個人的には、生きているからには自らのDNAを残したいという気持ちがあります。

その方法は色々あると思うのですが、僕は投資家になることに関心があるんです。
自分が多くの機会に恵まれたように、将来は投資家として、
夢を持っている若者に投資していきたいという気持ちがあります。

そのためにも、まずはここで経験を積んでいきたいです。

2014.11.17

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