関わる人が増えれば、文化や伝統、自然は残る。 「楽しい」を軸に、伝え、つなぎ、継いでいく。

日本の文化や伝統、自然を次世代につなぐ活動に取り組む三村さん。伝統工芸品である熊野筆を作る歴史ある家の子として生まれましたが、家業に対しての印象は、「大変そう」と感じていたと言います。そんな三村さんが様々な経験を経て現在の活動に至ったのはなぜなのか。お話を伺いました。

三村 理紗

みむら りさ|一般社団法人My Japan代表理事
広島県安芸郡熊野町出身。100年以上の歴史を誇る熊野筆の製造会社の子どもとして生まれる。美容商社へ就職し、営業職として従事。その後家業に携わり始め、伝統を守り伝えていくコトの大切さに気付いたことから、一般社団法人My Japanを設立。日本の文化・伝統・自然を次世代に継ぐ活動に取り組む。

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※この記事は、広島県の提供でお送りしました。

実家は熊野筆製造会社


広島県安芸郡熊野町で生まれました。熊野町は日本の筆の8割を作っている町で、私が生まれたのは100年以上の歴史を持つ熊野筆製造会社です。

家の向かい側に会社があり、「子どもは来てはいけない」と言われていました。父も母も会社で働いていたため、寂しさを感じることもありました。歴史ある家業でしたが、大変そうな仕事だと感じていました。ケーキ屋さんになりたいと思っていましたね。

外よりも家で遊ぶ方が好きな子どもで、おままごとをして遊ぶことが多かったです。小学生時代までは控え目で人見知り、友達が極端に少ないタイプ。成長と共に徐々に仲良くなれる子の範囲が広がっていき、隣町の高校まで通うようになると、多くの友達と過ごせるようになりました。ただ、自分の意見をバンと言うタイプではなく、周りに合わせがちでしたね。

性格を変えたアメリカ留学


控えめではありましたが、新しいものに興味関心があり、徐々に異文化を見てみたいと思うようになりました。そこで、大学2年生の後期にアメリカ留学できるプログラムを持つ、広島の女子大に進学。念願叶い、カリフォルニアに半年間、留学しました。

家族で海外旅行に行ったことはありましたが、親元を離れて海外に長期滞在するのは初めて。ホームステイ先では、日本との価値観の違いに驚きの連続でした。

例えば週末の朝起きたら、ホストファミリーが全員出かけていました。鍵を持っていない私は出かけることもできません。帰ってきたホストファミリーに訳を聞くと、「寝ているのを起こすのは悪いと思って」と答えが返ってきました。家族とはいえ、個人の時間を邪魔しない。プライベートを尊重する姿勢が印象的でした。

他には、現地のブリトーを食べたときのこと。中に入っている具は、小豆のような見た目だけれど塩味なんです。見た目と味のギャップに驚き、正直最初はおいしいとは感じられませんでした。それでも、食べられないと言うのは申し訳ないと思い、がんばって食べたんです。しかししばらく過ごすうちに、「食べられない」と言ってよかったんだと気がつきました。

アメリカ人はイエス・ノーをはっきり言う傾向があり、好きなものは好き、苦手なものは苦手と自己主張することが大事。料理を出してくれる側も、相手の好みのものを提供したいというマインドがあるので、きちんと「苦手」と言ってよかったんですよね。結局、ブリトーは頻繁に食べるうちにおいしく感じられるようになったので、「食べられない」と言う機会はなかったのですが(笑)。

アメリカ文化に触れるうちに、自分の意見を少しずつ言えるようになっていきました。周りに合わせがちだった性格が、少し変わっていったんです。例えばホストファミリーに対しては、「置いてけぼりにされて寂しかった」ではなく、「出かける予定があるなら一緒に行きたいから教えてほしい」と自分の意思や要望をはっきり伝えた方がいいのだと学びました。

価値観の違いは他にもいろいろありましたが、違いにぶつかるたびにびっくりしてテンションが上がりましたね。いろいろなことが起こるので、何か起こっても慌てたり動じたりしなくなりました。柔軟性が養われた気がします。

それから、アメリカ人に出身地を聞かれて広島だと答えるたび、みんなに「ヒロシマなんだ!」と言われることにも驚きました。そんなにみんな広島を知っていると思わなくて。それなのに、彼らに日本文化や広島のことを聞かれても、きちんと答えることができませんでした。これまで外にばかり目を向けていたため、日本のことを全然知らずにアメリカに来てしまったんだと痛感したんです。そこから、生まれ育った広島の文化や歴史にも目が向くようになりました。

見えるようになった家業の素晴らしさ


大学卒業後は、美容に興味があったことから美容商社に就職し、営業として働き始めました。エステサロンや美容院にカラー材や化粧品といった商品を売りに行く仕事です。一般の市場を見ているよりも、数年早く流行を知れて楽しかったです。

飛び込みでの新規営業の仕事もありました。どう話せば人の心に残りやすいのか、お客さんが求めているものにどう応えていけばいいのかを試行錯誤する日々。先輩から教わりながら、お店の雰囲気に合った提案をする力も身につけ、挑戦し続けていましたね。

その後家業に就職し、前職の経験を活かしていろいろなところに筆の営業に行ったり、商品開発をしてみたり、パッケージを作ったりするようになっていったんです。だんだんと手伝いから本格的な仕事になり、一部門を任され、家業に関わるようになりました。

子どものころは、大変そうで跡を継ぎたいとは思ったことのなかった家業。しかし、大人になってからあらためて見てみると、違ったものが見えてきました。たとえば、従業員たちが両親を尊敬してくれていること。自分たちが作っているものは、他では作れないものだったんだということ。100年以上もの間、先祖から脈々と伝統が受け継がれ尊いものを作っているんだということに、シンプルに尊敬の念を抱きました。

筆作りの世界では、一人前になるまでに30年の月日を要すると言われています。作業はすべて手作業で、72工程もある技術を身につけなければならないんです。うちの会社は、筆製造会社の中でも特に長い歴史を誇ります。時代と共に新しいものも採り入れつつ、伝統を受け継ぐことを大切にする。基本に忠実なもの作りを行う。そんな教えが受け継がれてきたことに感銘を受けました。

「伝える」「つなぐ」を担いたい


熊野筆は広島県の伝統的工芸品なので、催事に参加する機会が多くありました。他の日本文化の担い手の方々と知り合う中で、困っている人の多さを知りました。

困りごとは、よく問題として挙げられる後継者不足だけではありません。職人さんなど、ものづくりに特化した人たちは発信が苦手で、販売は問屋さんなどにすべてお任せ状態ということも少なくありませんでした。

作り手の発信があれば、魅力がもっと広く伝わるはず。彼らをより知ってもらうためには、職人と発信先の人たちとの間でコーディネートできる人が必要だと思うようになりました。それには、私が新規開拓営業で培ってきたスキルが活かせるかもしれない、とも。

あるとき、催事で知り合いになった方から、イベントの企画に合う日本文化に関わる方がいないかと声をかけられました。たまたま合う人を知っていたので、紹介したんです。そんなことを何回かして行くと、紹介した人もされた人も、みんな喜んでくれました。

日本文化や地域の伝統の担い手と、それを必要とする人とをマッチングしてつなぐことで、活動が発展し、輪が広がってPRに繋がるかもしれない。そう考え、日本の文化や伝統を伝え、繋いでいくことをミッションにMy Japanを立ち上げました。

立ち上げは、仲間4人と行いました。メンバーの1人は、神職の家に生まれた方です。これから伝統を残していかねばならないと思っている当事者として、若い世代に文化や伝統を発信していくにはどうしたらいいのかを話し合いました。

そこで見えてきたのは、伝統を守るためには、ただ守るだけではダメだということ。革新的な方法で新しいことを伝えようとしていかなければ、文化は残っていかないということです。どう残して行くべきか、模索するようになりました。

友達とごはんを食べていたあるとき、「学生時代はみんな筆を使うのに、大人になったら使わなくなってしまうよね。どうしたらいいんだろう」という話になりました。そこから、「筆を知ってもらえるイベントをやってみる?」と盛り上がり、身内で小さなイベントを企画してみたんです。

居酒屋に筆を持ち込んで、お酒を飲みながら字を書いてみる。筆を使うプロである書家の方にも参加してもらいました。書家が筆を使う様子を見た友達は、みんな目を輝かせ、テクニックに目が釘付けになっていました。書家の方にスポットライトが当たっているみたいに、キラキラ輝いていましたね。それを見て、「こうした場を作れば、職人や文化に携わる人たちが引き立つんだ」と感じたんです。そこから、場をプロデュースしたいと思うようになりました。

私たちにも文化は作れる


そのあと、メンバーで「子どもたちが楽しめるイベントをやろう」という話になりました。神社を使い、江戸時代を再現した祭りの企画を始めたんです。当初はMyJapanの文化祭といったイメージで、来場者も200人程度を想定していました。しかし、メンバーそれぞれにこだわりがあって企画はどんどん大きくなり、本格化。陶芸、書道、和太鼓、武道、日本酒など、様々なコンテンツが揃っていったんです。ボランティアが50~60人参加してくれるなど大所帯でのプロジェクトになっていきました。

広報として、出れる場所には積極的に出ていきました。テレビの中継の場では、メンバーみんなで着物を着て行ってPRしたり、町内会にチラシを持って行ったり。様々な自治体や企業さんにも繋いでいただいたりなど、だんだんと輪が広がっていきました。

そうして迎えたお祭り当日。昼夜2部に分けて、2日間開催しました。来てくれたお客さんは、何と当初の想定を大幅に上回る4000人。子どもだけではなく、大人も、外国人の方もいました。テレビや新聞も取材に来てくれて、びっくりしましたね。多くの方々に参加いただけてすごく嬉しかったです。大成功でした。

大きなイベントをやるなんて初めてで、消防の手続きなどがわからなくて1から調べたり、壁にあたりうまくいかなくて泣いたり、大変なこともありました。でもいつも仲間がいて、みんなが助けてくれたんです。そのことに感謝しましたし、自分たちでも新しいものが作れるんだ、住んでいる町の新しい文化を作っていけるんだと感じました。

自然も守り受け継ぐべきもの


広島では、国内外からの観光客が増えつつあります。しかし、多くの人が訪れるのは有名観光地だけ。他にも魅力的な場所はいっぱいあるのに素通りされてしまう、日帰りで広島を発ってしまう状態にあることを知りました。その課題を解決しようと、My Japanで次に始めたのがツアー作りです。

広島には山や自然に触れ合える場所がたくさんあり、中には広島駅から10分ほどというアクセスのよい場所もあります。広島の歴史を学びながらトレッキングができるガイドツアーが作れないかと、山に入るようになりました。

山に行き始めると、登山道が思いのほか荒れていることを知りました。また、歴史的に寺社仏閣が多くありパワースポットとされてきた場所も、その事実が時代と共に受け継がれなくなり、広島に住んでいる人も知らない場所になってしまっていて。

私は子ども時代からインドアで、あまり外で遊んだりする活動的なタイプではありませんでした。しかし、山を維持する課題を知った以上、なにか自分にできることはないかなと思うようになりました。

そこで、ガイドやMy Japanメンバーと一緒に登山道を整備し、山登りのツアーを企画。しかし、せっかく実現したにも関わらず、整備した登山道がすぐにイノシシに荒らされてしまったんです。造園業を営む人いわく、その理由は登山道に葉っぱが積もっているから。葉っぱが積もったところには、イノシシのエサとなるミミズがたくさんいます。イノシシはそのことを知っているから、葉っぱがある場所にやってくるんだと教わったんです。

では、葉っぱを定期的に掃除していれば、罠をかけなくともイノシシに荒らされることはなくなるのではないか。山を整備していくことで、人間と山に住む動物がお互いのエリアに分かれて共存することができるのではと考えるようになりました。

登山道の整備活動の様子をSNSで発信していたら、新聞にも取り上げられるように。山の整備活動をするボランティアが集まる場として「山を楽しむ会」を作り、1カ月に1~2回集まっての活動をしています。

加えて、山を維持していく問題は中山間地域に共通する課題であり、原因は人と自然に距離があることだと気づきました。そこで始めたのが「贈ろう森プロジェクト」です。サブタイトルは「1本の木がつなぐ人と自然の物語」。植林を通して山の現状を知ってもらい、都市部と中山間地域をつなげる取り組みです。

具体的には、地域の山に生えている自然の苗を使った小さな森をつくる苔玉作りワークショップを開きます。作った苔玉を参加者に持ち帰ってもらい、約1年から半年間ほど、里親として育ててもらうんです。そして育ててもらった苗は、森を必要としている場所に贈り植林しています。

近年は気候変動から土砂災害が増えていて元々ある自然環境もくずれていってしまっています。防災の観点や自然環境維持の観点からも大地に根を張り地域を守る木の植樹は求められているんです。こうしたプロジェクトへの賛同地域に木を贈ります。

「贈ろう森プロジェクト」の特徴は、森を必要とする中山間地域と、赤ちゃんの苗を育てた都市部の人々のつながりを作れることです。植樹して終わりではなく、オンラインなどを活用してその後の経過も観察できるようにしています。自分で育てた苗木が植えられた地域だったら、その場所に愛着をもち、その場所へ実際に訪れるなど地域との繋がりも生まれるのではないかと思うのです。

県内外でワークショップを開いており、大阪で開催したイベントではたくさんの方に広島の木、土、自然にふれてもらい、たくさんの笑顔が生まれました。都市部の方、特に子どもたちに自然に触れてもらい、中山間地域の課題を知っていただき、解決、自然の維持発展へとつなげられるような活動を続けています。

「楽しく」を大切に次代へつなぐ


現在は、引き続きMy Japanでイベントやお祭り、ツアーやワークショップなど、さまざまなプロジェクトを手掛けています。最近では、コミュニティづくりなどをテーマにお話しさせていただく機会も増えてきました。

私は、これまで先人たちが培い、大切に守られてきた歴史や文化がなくなってしまうことが他人事に思えず寂しさと悲しみを覚えます。1つの文化が形成されるまでには、たくさんの人が関わっていたはず。それがなくなってしまうのは止めなければならないし、どうにかして残したいと思っています。そのために、文化や伝統、自然を「伝える」役割を、今後も担っていきたいです。

これまで、日本文化を繋いでいく活動や自然環境を守っていく活動など様々な経験をさせてもらい、今も活動を続けていっていますが、共通するのは「元々あるモノ、紡いできたコトを守る」ということなんです。

昔から受け継がれてきたものを現代の人に伝えるには、現代ならではの伝え方があるはず。咀嚼して伝える役割を担える人がいれば、残せるものがたくさんあるんじゃないかなと思うんです。

そして、やはり活動していくうえで大切にしたいのは「楽しくやること」ですね。たくさんの方々の力をかりて続けていくコトです。だからこそ、参加した人には楽しんで帰ってほしい。これからも、日本の文化や伝統、自然を世代を超えて永続的に残していけるよう、さまざまな活動に取り組んでいきます。

2021.11.08

インタビュー・ライティング | 卯岡若菜
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