「小さな物語」を紡ぐ。 プロレスラー・表現者として、自分に嘘をつかない生き方

プロレス事業会社の映像班として映像制作に携わりながら、現役のプロレスラーとしても活動する今成さん。幼い頃からプロレスの面白さに夢中になるものの、一度はプロレスラーになる道を諦めたそうです。今成さんが再びプロレスの世界に飛び込み、目指すものとは。お話を伺いました。

今成 夢人

いまなり ゆめひと|株式会社CyberFight UNIVERSE事業部/ガンバレ☆プロレス
1985年、新潟県長岡市で生まれ、東京都多摩市で育つ。高校でレスリングと出会い、多摩美術大学情報デザイン学科に進学後、学生プロレスの活動を開始。大学卒業後、愛知県のテレビ局に入社。退職後、DDTプロレスリングに映像班として採用される。現在は株式会社CyberFight UNIVERSE事業部にてプロレス興行の映像制作に携わりながら、ガンバレ☆プロレス所属の現役プロレスラーとしても活動。

初めて観たプロレスの試合


新潟県長岡市で生まれ、すぐに東京の府中市へ移りました。ひとりっ子で、ものすごく泣き虫でした。幼稚園では毎日母に自転車で送り迎えしてもらっていたのですが、なぜか「お母さんが交通事故に遭って死んじゃう」という想像をして、ずっと泣いているような子で。年長からバスに変えてもらって泣き止みました。

親がビデオを借りて見せてくれていた特撮モノにはまって、同じ作品をセリフを覚えるまで繰り返し観ていましたね。どれだけピンチに陥っても、必殺技を使って最後は勝利する。そんなストーリーもよかったのですが、それだけではなく、異星人や怪獣の物悲しさや、「もしかしたら悪いのは人間側なのでは?」と問うてくるようなところも好きでした。勧善懲悪な部分ではなく、異星人や怪獣側の視点から見ても、惹かれるものがありました。善悪そのものが揺らいでくるような感覚があったんです。

小学校から多摩市に引っ越し、地元の公立校に行きました。Jリーグが流行っていて、同級生のほとんどがサッカーのクラブに入っていましたが、僕はなんとなく心が惹かれなくて。母に勧められるままにスイミングスクールに通ったり、ゲームをしたりして過ごしました。

小学4年のとき、初めていとこの家でプロレス中継のビデオを観ました。そこに出ていた選手があまりにも強くて、対戦相手が何回立ち向かっても勝てないんです。特撮モノを観たときの興奮を思い出して、こんな世界があるんだと衝撃を受けました。

その後、僕がプロレス好きなのを知った父が、知り合いに頼んでプロレスの試合のチケットをもらってくれたんです。それで、初めて生で観た試合が、アントニオ猪木の引退試合。そのダイナミックな動きや激しさに魅了されましたね。

プロレスのエネルギーに魅了されて


中学校では野球部に入りました。部活の先輩が、あるプロレスラーに影響を受けているのを見て、「僕もプロレスが好きなんです」と声をかけて。それからは野球の練習そっちのけで、体育倉庫のマットでプロレスごっこばかりしていました。

自分でもチケットを買って、インディーズの興行も観に行くようになりました。プレー内容や繰り出される技がハチャメチャで、それがまたすごく面白くて。インディーズの中にもカリスマ性のある選手がたくさんいて、メジャーの試合とは違った良さを感じてはまっていきました。強烈なキャラクターのプロレスラーとアナウンサーの問答の様子に、ドキュメンタリーやドラマを観ているような面白さも感じたんです。

高校はレスリングができるところにしようと思って、有名なプロレスラーの出身校へ進学しました。ですが、いざ入ってみると、最初レスリング部には僕しか部員がいなくて。もともと強い選手が、偶然その学校のレスリング部に所属していただけだったんです。「だまされた!」と思って、すごくがっかりしました。指導のノウハウもないので、プロレス好きな顧問の先生と一緒に、ひたすら河原を走ってその悔しさを紛らわしていました。公式戦でも全然勝てなかったですね。

クラスでちやほやされてモテていたのは、バスケットやサッカーなど花形の部活に入っている男子たち。地味なレスリング部に入り、色恋沙汰が何もなかった僕は悔しくて。ただ少数派としてのプライドもあったので、授業中にバスケ部の同級生に馬鹿にされたときは、掴みかかるくらい熱くなっていました。

将来はプロレスラーになりたいと思ってレスリングを始めましたが、このままでは難しいだろうと感じていました。それで、高校2年で進路を悩み始めたとき、もともとTシャツのデザインに興味があったこともあって、グラフィックデザインが学べる美術系の学校に行こうと考えたんです。

いくつか美大の文化祭を巡っている中で、ある大学の学生プロレス団体OBが試合をしているところを観ました。ついつい凝視してしまう独特の動きや表情に惹きつけられて、強烈に脳裏に残ったんです。華の美大OBのはずなのに、「現在無職、年金未納!」といったコールにもノリノリで反応していて。その面白がり方が、かっこいいなと思いました。絶妙なユーモアを交えたトークにも惚れましたね。

もともとは美術大学の見学に行ったはずなのに、僕の中では「プロレスってすごいな」という感想だけが残りました。展示されていたどの芸術品より、「見世物」としての強いエネルギーを感じたんです。僕にとって、その時観た学生プロレスの試合は、まさに「芸術品」。プロレスラーにはなれないと諦めていたけれど、大学に入って学生プロレスをやることもできるんだと思いました。そんな生き方ができるなら一石二鳥だとうれしくなりましたね。

映像制作の道へ


二浪の末に、美大の情報デザイン科に入学。入ってすぐ、別の大学のプロレス研究会のホームページを見て、「練習を見学させてほしい」と連絡しました。見学に行くと、文化祭で観た憧れの選手がOBとして来ていて、驚きましたね。幼い頃からプロレスの試合をたくさん観て所作を学んでいたこともあって、僕もすぐにデビューが決まりました。

大学では先生が毎週一回映画を紹介する、映像論の授業がありました。みんなで一本の映画を観て、その内容から社会について考察を深めるというものです。ある日、自分が生まれた年に公開された古い映画を観たときがありました。そのとき、激しく心を揺さぶられ、身体が震えて、授業中に号泣してしまったんです。授業の枠を飛び越えた、強烈な映像体験でした。世の中にはまだ知らない映画がたくさんあるし、映像の力ってすごいなと思って。映像の道に進むことに決めました。

映像をやろうと決めたものの、周りの同級生は自分で描いた絵をアニメーションで動かせるような天才ばかりでした。僕は絵が上手いわけでもないし、突出した技術があるわけでもない。それに、みんなが良いと言っている手描きのアニメーション作品を観せられても、心が動かなかったんです。映像論の先生に、「僕はどうしたらいいですか」と相談したら、「まずはバケツの水があふれるまで、映画をたくさん観た方がいいよ」と言われました。

近くにシネコンがあったので、映写のアルバイトを始めることにしました。自分でも映画館に通ったり、DVDを借りたりして、とにかくたくさんの映画を観ましたね。先生からも、「今成くんはプロレスをやっていて熱い男だから、この映画はどう?」など、僕が好きそうな映画をいくつも紹介してくれました。

大学4年のときに、中年のプロレスラーの半生を描いた映画を観ました。5回も映画館に行くほど、魅了されましたね。ドキュメンタリー作品ではないものの、主演俳優の実人生にも重なるストーリーに心が震えたんです。それからは、ドキュメンタリータッチの映像手法を用いた作品に惹かれていきました。

反骨精神を作品にぶつける


大学では、自分でもいくつか映像作品を作りました。初めは僕がシナリオを描いて、友人に演技をしてもらっていたんですが、プロの役者ではないのでうまくいかなくて。卒業制作はドキュメンタリー作品にしようと決めました。

それで、何について撮るか考えたんです。周りの才能あふれる同級生たちに圧倒されてばかりだった僕が、自分自身を最大限表現できる手段を。「やはり学生プロレスしかない!」と思いました。交流があった他大学の学生プロレス団体で活躍している友人を主人公に、ドキュメンタリー映画を撮ることにしました。

学生プロレスって、冴えない「非モテ」の奴らがやっていることが多くて。学生生活で叶えられない想いを、リングで戦うことで発散しているようなところがあったんです。毎日を謳歌している「リア充」な同級生たちに対する、反骨精神みたいなマインドでした。それを作品にぶつけてみようと思いました。コメディ要素を入れて、ちょっと笑えるんだけど、一生懸命で熱くて、最後は感動できる。そんな作品を目指しました。

主役の子は、僕が伝えたいメッセージを作品の中でうまく代弁してくれました。完成した卒業制作は、先生もすごく褒めてくれて、コンペに出すことをすすめられたんです。応募したコンペを通ったり、海外の映画祭で紹介してもらったりと、高く評価してもらいました。

プロの現場で感じた限界


この経験から、将来は映像で食っていきたいと思いました。一度プロの現場で勉強してみようと、就職活動ではテレビ局にエントリーし、無事地方テレビ局に内定が決まりました。就職氷河期だったにもかかわらず、あまり優秀ではない僕がテレビ局に入ることになったので、周りも驚いていましたね。

しかし、入社して最初に配属されたのは営業。クリエイティブな仕事に携われると思っていたので、落ち込みましたね。営業は、コマーシャルの枠や映画の配給会社などから契約をとってくる仕事です。扱っている金額の大きさに現実味が感じられなくて、自分が大金を動かしている実感も湧かなかったんです。

先輩たちからは、学生プロレスをやっていたので体力や根性があると思われ、とにかく厳しく指導されました。でも、自分のマインドは体育会系とは全然違う文化系だったんです。期待されているキャラクターと本来の自分自身とのギャップに、だんだん心が折れていきましたね。どこかに逃げたくて、一人で新規の営業先を回るときに、タクシーで遠くまで行って怒られました。そんなこんなで、精神的に限界寸前までいって、すごく悩んで退職届を出したんです。あっさり受理され、あっけないものでした。8ヶ月のテレビ局生活が終わりました。

「負け組」としての自分


退職したことをSNSでつぶやいていたところ、ちょうどプロレス事業会社の映像班の人が辞めるタイミングだったようで、学生プロレスの頃に知り合った方に声をかけてもらいました。僕が大学で作った卒業制作も観てくれていたんです。これも何かの縁かなと思いました。またプロレスの世界に関わるとは思っていませんでしたが、テレビ局を辞めたばかりで先のことをゆっくり考える余裕もなく、迷わず入社を決めました。

初めはアルバイトで、先輩ディレクターのアシスタントとして働きました。大学で映像制作をしていたとはいえ、カメラの持ち方もよくわからなくて。毎日徹夜続きのハードな仕事でしたが、なんとか言われるがままに食らいついていましたね。

映像制作の仕事にも慣れて一人立ちできた頃、ひょんなことから、関連会社が旗揚げしたプロレス団体の試合に出る機会がありました。自分が学生プロレスをやっていて、ずっとレスラーへの想いがあったのを、会社も見てくれていたんです。テレビ局時代もその後も、思うようにいかず燻っていた自分。その悔しさが、レスラーとして闘うときの原動力になりました。「なんか負け組になっちゃったな」と思ったら、心に火がついたんです。そこから、映像班に所属しながら、プロレスの試合にも出るようになりました。

「小さな物語」を紡ぎたい


今は、DDT改めCyberFightの社員としてプロレス興行に関わる映像制作に携わりながら、「ガンバレ☆プロレス」のレスラーとしても活動しています。

最初は映像班の一員として試合に出ていましたが、だんだんとプロレスラーとしての自覚も芽生えてきました。ファイターとしても表現者としても、闘争本能が掻き立てられて、日々アドレナリンが出続けているんです。このアドレナリンをエネルギーに変えていきたいですね。

映像を作る上で大切にしているのは、自分に嘘をつかないこと。自らが面白いと思えるかどうかが大事ですね。自分の視点で見て、本当に心が動いたものだけを届けたいんです。

プロレスラーとしても、日常生活で感じたことを、リングで吐き出しています。ありのままの僕自身を投影した、私小説的なプロレスだと思っています。

これからは、プロレスや映像だけでなく、何か「小さな物語」を作っていきたいです。派手で華やかなヒーローものも、もちろん面白い。でも、みんながそういうサクセスストーリーを求めているとは限らないと思っていて。なかなか拾い上げられないような、少数派の声を作品に落とし込み、必要としてくれる人たちに届けたいんです。

これからも、自分にしかできない仕事を、自分の手で作っていきたいですね。

2021.07.12

インタビュー | 伊東 真尚ライティング | 安心院 彩
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