自分の居場所はどこにある? 悩み続けた私が見つけた「書くこと」の道
フリーライターとして、ビジネス記事から恋愛コラムまで幅広く手がける夏野さん。小説家が夢だったものの、ファーストキャリアはジュエリーショップの店員でした。夏野さんが再び書くことを志した理由とは?そこで得られたものとは?お話を伺いました。
夏野 久万
なつの くま|フリーライター
東京都目黒区生まれ。専門学校を中退後、就職した宝飾店が倒産。求人広告の営業に転職し、コピーライターの仕事に出会う。その後、広告会社や出版社を転々としながら、チラシやパンフレット、ポスターなど広告物全般の制作経験を積む。29歳で仕事を辞め、専業主婦に。2018年からフリーライターとして活動。ビジネス系から恋愛コラム、小説の執筆まで幅広く執筆業に携わる。
居場所がなかった子ども時代
東京都目黒区で生まれました。一人っ子だったため、家族から甘やかされ、少しわがままな性格に育ちました。
小学校では、人見知りはせず、自分から積極的に話しかけていきました。でも、自分のことを話したがりの子どもでしたね。皆はじめは話を聞いてくれるものの、いつのまにか離れてしまって。2人組をつくるときには、いつも最後に残っていました。
母に相談すると、「自分のことをしゃべりすぎてはいけない」と注意されました。ひとりぼっちなのは寂しかったですし、皆と合わせるように努力しました。徐々に友達もできていました。
でも、相変わらずさみしさは残っていて。自分の居場所は一体どこにあるんだろうと考えていました。本を読んでいるといやなことを忘れられるので、よく図書館に通っていましたね。
大事にされるために、相手と向き合う
小学校卒業後は、中高一貫の女子校に入学しました。受験を考えている中で、私のふるさとと同じ漢字が入ったその学校が目に止まったんです。新築の校舎の建築物も魅力的で、ここだ!と運命を感じましたね。受験し、無事合格しました。
中学生になると、相手とのコミュニケーションの距離感も掴めるようになり、友達ができました。放課後に友達と遊びに行くような、普通の子になれたように思います。でも布団に横になると、さみしさで涙が溢れ出してくることがあって。相変わらず居場所のなさを感じていました。その理由は、自分ではよくわかりませんでした。
高校では、剣道部に入部しました。剣道は好きだったんですが、放課後に遊ぶ方が楽しくて、練習に行かずサボってばかりいました。あるとき、そんな私の様子を見ていた剣道部の友人が、教室の前で竹刀を片手に「今日こそは部活に出て」と言ったんです。迫力は感じたものの、私はいつも通りへらへら笑って相手の脇をすり抜け、外に遊びに行きました。
翌日もまた、その子から「今日こそは出て」と説得されて。たまには出てみるかと、渋々部活に参加しました。すると、顧問の先生から呼び出されたんです。先生から「夏野を大事にしてくれる人はいると思うか」と問われ、私は「いない」と即答しました。中学に入ってから友達はできたけれども、友達にとって、私は多数の中の一人にすぎない。誰かにとっての特別な存在なるほどの人間ではないと考えていたんです。
そんな私に対して先生は、「夏野の友達がかわいそうだ。夏野のことを大事にしているのに、本人が気づいていないから」と叱りました。その言葉を聞いて、号泣しましたね。幼い頃からひとりぼっちだったので、自分が大事にされるわけがないし、ましてや愛されることなんてないと思っていました。だから、親しくしてくれる人に対しても、どこかぞんざいに扱ってしまっていたんです。
でも、今の私には大事に思ってくれている友達がいた。居場所のなさを感じていましたが、それは自分が周りの人を大事にできていなかったからではないか。そう感じて、ちゃんと相手と向き合わなければならないと思うようになりました。
それからは剣道部にも積極的に参加しました。子どもの頃からずっと飽き性で何事も続かなかった私でしたが、 剣道は卒業まで続けることができました。友達や顧問の先生のおかげだと思います。
小説家になりたい
私が進学した中高一貫校は、国語教育に力を入れていました。小学生の頃から読書が好きで、書くことも好きだった私にとって、国語の授業や宿題をするのは大好きな時間でした。
先生から褒められることも多かったです。「生徒の作文を採点するとき、いつも夏野さんから読むんだよ。いつも楽しみにしているよ」と言ってくれて。嬉しかったし、自信がつきましたね。ますます文章を書くことが好きになりました。
だんだんと、将来は小説家になりたいという夢を抱くようになりました。周りからも褒めてもらえるし、好きなことを仕事にしていきたいと思っていたんですよね。
その頃、芸能人の出版がブームになっていました。そのニュースを見た私は、「芸能人になったら、小説家になれる!」と本気で思ったんです。小説家になるステップとして芸能人を目指そうと思い、演劇ミュージカルの専門学校に進学しました。
でも入ってみると、周りは本気で俳優を目指している人ばかりで。皆真剣にダンスや演劇のレッスンに打ち込んでいました。私のように、小説家になるためのステップとして芸能人を目指している人は誰一人いません。生半可な気持ちでは、この空気にはついていけないと思い、半年で退学しました。
突然の倒産と、運命の出会い
専門学校を辞めてすぐ、とにかく生活しなければと就職先を探し始めました。見つけたのは、宝飾店の店員の仕事。きれいなものが好きでしたし、お給料の良さに惹かれました。子どもの頃からコミュニケーションを気を付けているうちに、いつしか人の話をきくのが好きになっていたので、接客の仕事も楽しかったです。店長からは「夏野さんは人間が好きだよね」と言われていました。
働いた成果が評価される仕組みだったので、同い年の友人たちよりはかなりお金を稼いでいましたね。二十歳の記念に、高級ブランドの時計を、ローンを組んで買いました。お金には余裕があり、楽しい毎日を過ごしていました。
働き始めて半年が経った頃、突然会社から電話がかかってきたんです。「今日は絶対、店に来るな」と告げられました。訳が分からず、しばらく唖然としていましたね。そのあと同僚から、会社が破産したことを聞きました。私は無職に。記念に買った時計のローンが重くのしかかりました。
とりあえず借金は返さなければならない。焦る気持ちはあったものの、自分なら大丈夫だという根拠のない自信がありました。高卒でも入れるお給料のいい会社を探したところ、求人広告の代理店営業の仕事に就くことができました。
営業だけでなく、求人広告のコピーライティングも担当しました。あるとき、高速道路の植栽に水やりをする人材の募集案件を担当。これまでも求人広告を出していたものの、人気がなく、全然求人が集まらずクライアント企業は困っていました。
元々の広告を見てみると、「一緒に頑張りましょう!」と求人広告の定番のような文言が並んでいました。ありきたりな言葉では人が集まらないと考え、水をあげている従業員の目線でコピーを書くことにしました。水を上げることで植物はどう育ち、それを見ていると心がどう動くのか。丁寧に描写しました。
すると応募の電話が殺到したんです。その会社からは、「おかげで電話が鳴りやまないんだよ。ありがとう」と言われました。自分の書いた文章が、誰かの役に立ち、誰かを喜ばせている。今までお金のために仕事をしていた私が、はじめてやりがいを感じた瞬間でした。同時に誰かに認められたことで、「自分はここに居ていいんだ」と居場所を感じられたんです。
やはり、好きで得意な「書くこと」を仕事にしたい。かといって小説家の道は、簡単ではありません。仕事の合間に小説を書きながら、コピーライターを目指して、転職活動を始めました。求人広告だけでなく、ほかの広告も扱える人材になりたかったんです。
外部のコピーライティング講座に通うお金の余裕はなかったので、コピーライターを募集する広告会社に転職して働きながらスキルを身につけようと思いました。40社以上の広告会社に応募しましたが、ほとんど落ちてしまいましたね。やっとのことで内定をもらった一社に転職しました。
コピーライターとして修行の日々
入社後、すぐに壁にぶつかりました。同僚は大卒で、コピーライター講座を受けてプロフェッショナルとして仕事をしている人。求人広告しか書いたことのなかった私は、未経験同然でしたね。
しかも直属の上司は、「見て盗め」のタイプ。根っからの職人気質で、教えてくれることは全くありませんでした。なんとかして追いつこうと、出勤時間や休日も勉強に明け暮れました。暇さえあれば辞書を引いていましたね。それだけ頑張っても、ディレクターさんから大量に修正指摘をもらう毎日。すごく苦しかったです。
しかし諦める選択肢はありせんでした。コピーライターとして食っていきたいという気持ちは、人一倍強かったんです。毎日がむしゃらに働いて、勉強しました。
ところが半年後、会社が倒産。転職を余儀なくされ、コピーライターとして複数の会社を転々としました。コピーよりも長めの文章を書いたり、モデルの撮影に立ち会ったり、パンフレット一冊の編集を担当したり、不動産専門の広告代理店に入ったり。コピーライターとしてたくさんの経験を積めたように思います。
29歳のとき、会社の上司と結婚しました。同時に仕事を辞め、子どもを授かりました。1学年おきに4人の子どもを産んだので、妊娠しているか、赤ちゃんにおっぱいをあげているかの毎日。すごく大変でしたが、子どもの成長を見られるのは今しかないと必死に頑張りました。
ただ、「○○ちゃんのママ」と呼ばれることに違和感を感じていました。私には私の名前があるのに、子どもの存在でしか自分が生きていることの証明ができていない気がしたのです。ママ友文化にはどこかなじめず、子ども以外にも、社会との接点が欲しいと思うようになりました。そこで、在宅でできる仕事を探し、働き始めました。
フリーライターも、また1から
4人目の子どもが幼稚園に入った時、本格的に仕事を始めようと決心しました。やっぱり文章を書く仕事で社会と関わりたいと思ったんです。でも、家庭もあるし、会社員に戻るのはしんどいなと思って。これまでも比較的長い文章を書いたり、取材をしたりすることもあったので、ライターの仕事ならできるだろうと思い、フリーランスの道を選びました。
自分なら大丈夫、という軽い気持ちで始めたのですが、すぐに壁にぶつかりました。広告とウェブライティングの世界はまるで別物だったんです。広告ではターゲットに訴求するために、心に響く文章が好まれます。しかしウェブの世界では、論理が重視され、分かりやすい文章が求められます。
恋愛系のエッセイはなんとかなったのですが、金融系の記事は、すごく難しかったですね。また1からのスタートでした。たくさんのウェブページを読み漁りながら、距離感や文章の構造を学んでいきました。そうしているうちに、twitter経由で仕事の依頼が来るようになって。どんどん軌道に乗っていきました。
好きな「書くこと」で誰かの役に立つ
現在は、フリーライターとしてビジネス系のインタビュー記事や恋愛系コラムなど、幅広く執筆をしています。
特に、インタビュー記事が面白いですね。人の話を聞くのが好きですし、自分の知らない世界の話を聞けたり、その人の本質や価値観に触れられたりするのが楽しいです。インターネットや本で知識を調べるのも面白いですが、生の声を聴くと、自分自身の人生がより豊かになる気がします。
恋愛系コラムは、子どものために書いている、という気持ちが強いです。私は学生時代から恋愛に熱中していましたが、困ったときに相談できるのは友達だけ。参考にできる情報源はほとんどありませんでした。
今はインターネットが普及して、たくさんの情報にアクセスできます。もし私の子どもが恋愛に悩んだとき、ネットで恋愛コラムを読んで、ポジティブな気持ちになってくれたら嬉しいですね。自分の知らないところで、読者の役に立てる。やりがいのある仕事だと思います。
書く上で大事にしているのは、子どもに見せて理解してもらえるか、悪い影響を与えないか、ということです。例えば家の建築でも、ユニバーサルデザインであれば、子どもも大人も使いやすいですよね。文章もそれと同じで、子どもが読んで理解できないものは、大人も理解できないと思うんです。それに子どもに悪影響を与えるような記事は、ほかの読者にとっても有益ではないはず。子どもに読ませて恥ずかしいと思う記事は、社会のためにならないと考えています。
最近ではライター業務と並行して、幼い頃からの夢だった小説の仕事も始めました。新婚夫婦になれそめなどをインタビューをして、小説をつくる仕事です。言葉から景色を思い浮かべてストーリーを構築する。難しいですが、楽しいですね。自分の書いた小説が冊子になり、結婚式に配られるだけでも嬉しいのに、新郎新婦が感謝してくれるんです。すごく嬉しいですよ。
今後も「書くこと」を軸にしながら、ライターと小説家、両方のキャリアを歩んでいきたいですね。書くことがない人生は考えられません。自分の強みで、周りの人たちに喜んでもらえたり、人生を豊かにするお手伝いができたりするなんて、こんなにありがたいことはないなと感じます。
思えば文章は、幼少期の居場所を感じられなかった頃の私を別の世界へ連れて行ってくれましたし、仕事がなくなった時も、新しい世界を見せてくれました。居場所を感じられなくても、たとえ不幸が訪れたとしても、文章は私を裏切らない。どんな状態の私でも受け入れてくれる、寛容な存在だと感じています。
文章に、つらいときは癒やしてもらったし、誰かとつながることもできると教えてもらいました。だからこそ、今度は私がそれを伝えられる文章を届けたい。誰かのそばに居られるような文章を、書き続けたいと思っています。
2021.05.24