副社長兼プレイヤーとして業界を盛り上げる。 「闘いのエンターテインメント」を届けたい。

現役のプロレスラー・彰人として活動しながら、プロレス事業会社の副社長に抜擢された西垣さん。人前に出るのが苦手で、嫌なことから逃げてばかりだったという西垣さんが、「一生プロレスで食っていく」覚悟をしたきっかけとは。お話を伺いました。

西垣 彰人

にしがき あきと|株式会社CyberFight取締役副社長
1987年愛知県名古屋市で生まれる。レスリングの名門霞ヶ浦高校に進学。大学は心理学を専攻し、レスリングから離れるが、卒業後地元のスポルティーバエンタテイメントに入団し、初の生え抜き選手として2009年11月、愛プロレス博、愛知・Zepp Nagoya大会でデビュー。リングネームは「彰人」。2013年5月DDTに移籍。2020年サイバーエージェント傘下のプロレス事業子会社、「株式会社CyberFight」副社長に抜擢される。

恥ずかしがり屋の人見知り


愛知県名古屋市に、3姉兄の末っ子として生まれました。人見知りが激しくて、よく泣く子どもでした。幼稚園に馴染めず、ずっと親についてきてもらっていました。行けるようになってからも、お遊戯会など人前で何かする場には絶対に出たくなくて。参加せずに、一人で滑り台に座っていましたね。

小学校に入っても、授業中に当てられると発言できないし、隣の席の女の子にいじめられても何も言えない。外で友達と遊ぶより、家で一人でゲームしていた方が楽しいと思っていました。とにかく人の目が怖いし、恥ずかしかったんです。

それでも、お笑いとか面白いことは好きでしたね。恥ずかしいから人前ではできないけれど、バラエティ番組を見てはお笑い芸人に憧れていました。

進学した地元の中学校は、天井に穴があいていたり、バイクで廊下を走る人がいたり、ヤンキーが多くてすごく荒れていました。目をつけられないようにするためにはどうすればいいかと必死に考えた結果、彼らと仲良くなるしかないと思って。相変わらず目立つようなことは嫌いでしたが、生き残るためには人見知りとか言ってられなかったですね。

僕自身は授業をサボることはありませんでしたが、優等生という訳でもありませんでした。学校までは、家から徒歩40分くらいかかるのに、なぜか校則で自転車通学は禁止。そんな校則って意味があるのかなと思って、こっそり自転車で通ったり、頻繁に遅刻したり。自分で考えて意味を見出せないことは、やりたくなかったんです。

勉強には意味があると思っていたので、授業にはきちんと出て、塾や習い事にも通っていました。今勉強しておいた方が、将来楽に生きられるんだろうなと漠然と思っていたんですよね。先生からは不思議な生徒だと言われていました。

プロレスに憧れて


中学生の時に好きな深夜番組を録画したら、偶然そのあとに放送されていたプロレス番組が録れていました。プロレスというジャンルは知っていたので、なんとなく観てみたんです。流れてきたのは「電流爆破マッチ」という試合。レスラーたちがお互いを有刺鉄線にぶつけ合ったり、リングの上で四つん這いになって泥臭く頭突きをしたりしていて。「なんだこれは」と衝撃を受けました。

幼い頃に見たヒーローショーを思い出して、非現実感に惹きこまれたんです。リング上で戦っているレスラーたちが、単純にかっこいいなって。録画した番組だけでは足りなくて、レンタルビデオ屋さんをまわってプロレスのビデオを借りては、夢中になって観ていましたね。

毎日学校から帰ってプロレス番組を観ているうちに、ビデオの中のプロレスラーたちは憧れの存在に。自分はなれないだろうなと思いながらも、家に友達を呼んで、見よう見まねでプロレスごっこをやっていました。

周りも高校に進学せずに就職するような人が多かったので、自分も就職をして家を出ようと考えていました。勉強も特に好きではなかったので、どうせ高校に入ってもすぐに辞めるだけだと。でも、担任の先生から猛反対されたんです。「お前は学力もある。ちゃんと高校を出た方がいい」と。やりたいようにさせてくれよ、としばらくはのらりくらりとかわしていました。

先生から「何かやりたいことはないのか」と何度も聞かれて、もうこの面談で進路を決めなくてはいけない、というところまで追い詰められました。そこで咄嗟に「レスリングがやりたい」と言ったんです。ただプロレスが好きだったというだけで、半分冗談のつもりでした。そうしたら先生がすごく乗り気になって。「中途半端にやると辞めてしまうだろうから、どうせなら一番良い高校に行きなさい」と、茨城にあるレスリングの名門高校の入学資料を渡されました。

運動神経が特別良い方ではなかったので、どうせ受かるわけない、と思いました。でも、言われた通りに受ければ、もし落ちても就職を認めてもらえるだろうと。一応受けに行ってみると、なんと結果は合格。すんなり決まって驚きましたが、家を出れるしまあいいか、くらいの気持ちでしたね。先生も親も、高校に進学することを喜んでいました。それで、レスリングに特化した全寮制の高校に入りました。

防御を生かし全国の舞台へ


今まで身体を鍛えたこともなかったので、人を肩車もできないくらい力がなくて。高校入学初日に、ぎっくり腰になりました。毎日の練習は軍隊のような感じで、本当にきつかったです。それでも家を離れて単身寮生活をしていたので、お金もないし逃げ場もない。好きなことだから、どうせ入ったからには3年間一生懸命頑張ろうと思いました。

そんな中、ある夜コーチが血相を変えて僕のところに飛んできたんです。「お兄さんが亡くなった」と。6歳上の兄は、僕が小学生の頃から人前に出るのが嫌いで、家に引きこもっていました。家に帰り、葬儀をする中で、今まで兄と向き合い、理解しようとしなかった自分を責めました。兄はどんな気持ちでいたのか、知りたいと思うようになりました。

それでも、高校に戻ると、練習に打ち込む日々が続きましたね。怪我ばかりで、1年くらい練習を休まなければならないこともありました。それでも、必ず1回は全国大会に出るという高校のしきたりがあって、補欠だった僕も、高校3年の時に全国大会に出場させてもらったんです。試合の前、友人から「得意な防御に徹したら勝てる」とアドバイスをもらいました。

今まで、練習では勝てるのに、試合になると得点を取りにいこうとして、苦手な攻めをやって負けていたんですよね。友人から「お前は自分のことを弱いと思っているだろうけど、本当は全国レベルで強い」と言ってもらって、やってみようと自信がつきました。

大会では、防御を続けて、相手が弱ったタイミングで攻撃するスタイルに切り替えました。すると、どんどん勝ち進んで決勝戦まで行くことができたんです。

でも、決勝の対戦相手と握手をした瞬間に、本能で「こいつには勝てない」とすぐに悟りました。結果は準優勝。怪我ばかりで補欠だった自分でもここまでいけるんだと思ったと同時に、上には上がいると痛感しました。直感で、身体が強くない自分はこれ以上レスリングは続けられないと思いました。

高校の同級生はみんなレスリングの道に進むので、周囲からは当然僕もその道に行くと思われていました。レスリングをやめると言うと、それまで育ててくれた監督にはすごく怒られましたね。

でも、決意は揺るぎませんでした。兄のことをもっと知りたいという気持ちがずっとあったので、大学に行って心理学を勉強しようと思ったんです。兄に向き合おうとしなかったことへの償いのような思いもありました。心理学を勉強できる地元の大学をいくつか受験して、進学することができました。

一度きりの人生だから好きなことを


大学では心理学を勉強しつつ、高校で遊べなかった分思いっきり遊ぼうと決めました。遊ぶためにはどうしたらいいだろうと考えて、とりあえず流行に乗ってギャル男になろうと。周りで遊んでいる人たちを見て、まずは見た目や振る舞いをまねてみました。

彼らのようにイベントサークルを作って、クラブイベントを企画したり、人を集めてパーティーしたり。モテたくていろいろなことをやった結果、普通に生活していたら見られない世界を経験できましたね。

心理学を仕事にするなら、大学院まで行って資格を取る必要がありました。自分にはそこまでの熱量はないなと思って、一般企業に就職しようとしたんです。でも、就職活動で志望動機を書こうとすると手が止まってしまって。好きじゃないことを好きだと書けない。この先40年以上、夢中になれないことに人生を費やすのは嫌だと思いました。なんとかして就職から逃げたかったんです。

これからの人生を迷っている時、時間があったので昔好きだったプロレスを久しぶりに観てみました。高校は練習が厳しくて、プロレスを観る暇もなかったんです。そうしたら、ああ、やっぱりプロレスは面白いなって。昔ビデオでプロレスの試合を観た時の興奮を思い出しました。せっかくレスリングもやっていたし、本気でプロレスラーを目指そうと。就職活動で人生が決まってしまうのだとしたら、幼い頃から憧れていた職業にチャレンジしたい。もしそれでだめでも、まだやり直しがきくだろうと思ったんです。

それからは、周りに「俺、プロレスラーになるから」と宣言し、みんなが履歴書を書いている間にジムで身体を鍛える日々。宣言したら今度こそ逃げ道はなくなるだろうと、自分を追い込む意味もありました。高校の時は、自分で選んだというより「やらされている」感覚でした。でも今回は自分の意思でやっている。もともと好きなことなので、身体を鍛えるのも辛いとは感じませんでしたね。

一般企業に就職せずに、上京してプロレスの学校に行くため、お金を貯めようと1年間フリーターをしようと思っていました。そんな時、たまたま姉に進路を聞かれて。「プロレスラーを目指している」と話しました。予想外の答えに姉も初めびっくりしていましたが、「名古屋に小さいプロレス団体をやっている知り合いがいるから、会ってみたら?」と言われたんです。その日のうちに会いに行きました。

オーナーから、「君は将来どうなりたいの?」と聞かれて、プロレスラーを目指していると伝えると、「プロレスは厳しい世界。食っていけるのは一握りだけど、やっていく覚悟があるなら明日から来い」と。やってみようと思って、次の日からその団体での練習が始まりました。高校での練習が本当に厳しかったので、きつさはあっても、自分が本当に楽しいと思えることができている、と感じていましたね。

その団体では僕が生え抜きの一号だったこともあり、東京では経験できないであろう数の試合に出させてもらって、大切に育ててもらいました。入ってすぐに「お前のデビューはこの日だから」と、デビュー戦の日程が決まっていたくらいです。

プロレスは大勢の人に見られる職業です。もともと人目につくのが好きではなかった僕でしたが、リングに上がって試合をすることは楽しくて。気持ちが切り替わっているので試合中に緊張することもなかったですね。すべての活動がプロレスに活きてくると思ったら、苦手なテレビ出演や撮影もこなせるようになっていきました。

真剣にふざける


名古屋の団体で3年くらい活動をして、東京の試合にも出させてもらっていました。僕の中では、ある程度経験を積んだら東京に行きたいという思いがありました。でも、オーナーからは「万全な状態で送り出したい」と、なかなか上京の許可がおりなくて。

そんな矢先、東京の先輩レスラーから「部屋が空いているから一緒に住もう」と声をかけてもらったんです。勝手に東京に住むことに決めました。オーナーは呆れていましたが、お前がそこまで動くなら仕方ない、と背中を押してくれましたね。「1年くらいは一人で活動していろいろな世界を見ろ」というオーナーの教えもあって、しばらくはフリーでいろいろな団体の試合に出場していました。

いくつかの団体から声をかけてもらった中で、大学で久しぶりにプロレスの試合を観た時に、プロレスの面白さを思い出させてくれた憧れのレスラーがいる団体に入ることを決めました。控室の雰囲気がよかったことも決め手の一つです。

その団体の試合は、普通のプロレスの試合とは全然違っていて。リング上で目隠しをしたまま試合をしたり、ぐるぐるバットをしたり。今まで自分が見てきたプロレスと全く違って、衝撃を受けました。プロレスはただの戦いじゃない。エンターテインメントの側面もあると気づいたんです。自分の中での固定概念が、完全に覆された気がしましたね。「これがプロレスだ」という決まりきった枠に囚われる必要はない。プロレスの無限の可能性を感じた瞬間でした。

先輩たちは、どうやって観客を楽しませるか、明日はどんな面白いことをやろうかと毎日本気で考えているんです。そんな風に「真剣にふざける」先輩たちの姿を見る中で、「楽しい」の延長線上に仕事があるって本当に素敵だと思いました。

幼い頃にバラエティ番組を観て、お笑い芸人に憧れていたのを思い出しましたね。リング上で、戦いだけでなくて面白いことを見せられるなんて最高だと。だんだんと試合でふざけられるようになってきて、気づけば全裸になるのも恥ずかしくなくなっていました。毎日が学園祭のように本当に楽しくて。ずっと次は何をしようかと頭を使っているから、飽きがこなかったですね。

「プロレスで食っていく」覚悟


上京したての頃から、団体が経営している飲食店で接客のアルバイトもして次第には店長を任されるぐらいになりました。でも、もともと人と関わるのが苦手な僕は、接客もあまり得意ではありませんでした。なんとかお店に貢献できないかなと思っていた時に、経理担当者が辞めることになって。経験はありませんでしたが、接客以外で貢献することにもなるし、スキルアップにも繋がると思って経理を担当することになったんです。数字を扱うのは嫌いじゃなかったので、苦にはならなかったですね。

初めは給与や売り上げの計算などの事務仕事をやっていましたが、そのうちに興業のプロデュースやグッズ販売の企画など、飲食以外でも様々な仕事を頼まれるようになりました。お願いされた仕事を全うしようという一心で何事にも取り組んでいたら、だんだんと仕事が増えていきました。

そんな時、同じ地元の先輩レスラーが団体をやめました。彼はプロレスラーとしてのキャリアを積むために、海外を拠点に活動しようとしていたんです。その姿を見て、ふと、先輩の後を追えるかと自分に問いました。その時、プロレスラーとしてそこまでの熱はないかもしれないと気づいたんです。

レスラーの中に、「プロレスラーとして食っていく人」と「プロレスで食っていく人」の2種類が存在するとしたら、僕は後者だと思いました。たとえ自分がリングの上で目立たなくても、周りにプレーヤーとして輝くスターがいたらそれでいい。団体やプロレス業界全体が盛り上がってくれることが僕の喜びなんだと。そこから僕は、プロレスで生きていこうと決めました。

そんな中で、所属している団体が他の団体と経営統合することになって、副社長をやってみないかとお声がかかりました。経営の経験は全くありませんでしたが、引き受けることにしたんです。普段試合では緊張しないのに、記者会見では人前に出るのが苦手な素の自分に戻ったようで、ものすごく緊張しましたね。久しぶりに声が震えている自分がいました。

プロレスは一生飽きない趣味


今は、DDT改め株式会社CyberFightの副社長を務めながら、プロレスラーとしても活動を続けています。会社は大きくなってきていて、社長の目が届きにくくなっている部分もあります。もともとレスラーの世界は縦社会なので、なかなか自分の意見を上に言いにくいところもあって。副社長として、若手レスラーの声を拾いながら上層部と繋げる、潤滑油のような役割を果たしたいですね。

ただ、経営として裏方に回るからと言って、第一線を退くつもりはありません。まだまだ現役のプレイヤーとしてやれるところを見せていきたい。プロレスラー彰人として頑張っている姿を見せたいんです。そのためにも、今まで以上に気を引き締めて頑張らないといけないと感じていますね。リング上で力を抜いているとすぐに分かってしまいますから。

プロレスラーとしても裏方としても、共通しているのは、プロレスを仕事にしていくという覚悟。僕の中で、リング上の試合は「一生飽きることのない趣味」と言ってもいいぐらいなんです。今は平日に事務所で仕事をして、土日に試合をしているので、とても良いサイクルができていますね。逆に週末に試合がないとストレスを感じるほどです。

今後の目標は、プロレス全体の認知度をもっとあげること。野球や相撲と同じように、誰もが一度は観たことがあるものになればいいなと思っています。そして、プロレスは「戦いを使ったエンターテインメント」という側面があることを一人でも多くの人に知ってもらいたいんです。僕がDDTの試合を初めて観て衝撃を受けたように、プロレスには形がないし、ゴールもない。世間で思われている、「プロレスも格闘技も同じものでしょ」といったような固定概念を覆していきたいと思っています。

そのためにも、既存のものをブラッシュアップするだけではなく、どんどん新しい面白いものを作っていきたいです。それまでなかったアイデアを試合に取り入れて、お客さんの歓声を浴びる瞬間は何者にも代えがたいですから。

ただ、アイデアを実行するのは、かならずしも自分じゃなくてもいいと思っていて。向いている人にやってもらって、その人の人気が出ればそれでいい。最終的にプロレス業界全体が盛り上がれば、それが僕の幸せです。プロレスで飯を食うことを、ずっと続けていきたいですね。

2020.10.15

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 安心院 彩
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?